母の鏡に映る鬼

青山涼子

第1話 晩夏の薔薇(その日の夕刻 2023/09/01)

「ごめんください。青山恵理子さんをお送りしましたぁー」


 玄関の引き戸がスライドする音と共に、明るい女性の声が鳴り響いた。私はスーツケースにパッキングしていた手を止め、玄関へと駆けつけた。幼稚園から帰宅した子供のように頬を紅潮させている母の顔が目に入るや、自分の顔もつられて綻ぶのを感じた。

 今日から九月だというのに、この夏一番の最高気温を記録していた。デイ・サービスの送迎スタッフから荷物を受け取りながら、母に言葉をかける。

「お母さん、おかえりなさい。熱くて大変だったね」

「猛暑だからお休みの人が多かったよ」


 デイ・サービスのスタッフが「また来週に」と挨拶して去っていくや、私は母に問いかけた。

「お母さん、今日の夕飯は『アオキ』に行かない?」

上がり框に腰をかけて靴を脱いでいる母の背中は、枯れ枝のようにか細い。その枝がどこまでしなるかを試しているような気持ちで返事を待った。数秒の後、母は不機嫌な声で答えた。

「アオキって何?」 

「すぐそこにできた洋食屋さんよ。一流ホテルで料理長をしていた人のお店だから、味もサービスもしっかりしてるって、お母さんが教えてくれたんじゃない。金曜の夜はよくそこで食事をするんでしょ」

「あら外食なんて滅多にしないわよ。いつも百合が何かしら作ってくれるから」

 連日出前を活用していた私への嫌みに聞こえた。

「でも月曜から木曜は、ヘルパーさんに夕飯を用意してもらっているんでしょ。金曜か土曜の夜は大抵、外で美味しいものを食べに行くんだって、百合が言ってたけど」

「そんな頻繁に出かけていたかしら?」

 と、母は言葉を濁した。勝負の行方は火を見るより明らかだった。母は外出したくないのだ。九〇歳の超高齢者に、それも猛暑の一日をデイ・サービスで過ごして帰宅した超高齢者に、誰がコース料理を強要できよう。それでも無駄な抵抗を試みずにはいられなかった。

「お母さんと二人で過ごす最後の晩だからゆっくり話をしたいと思って、六時半に『アオキ』に予約をいれといたんだけど」

 明後日にはアメリカの自宅に戻る娘の我が儘をきいてくれるだろうか? はたして母は、私と眼を合わせずに遠慮気味に呟いた。

「レストラン行くのはいいけど、この暑さでちょっと疲れちゃって……」

「やっぱり家で食べようか」

 と言うと、母に笑顔が戻った。


 アオキにキャンセルの電話を入れた後、少し遠くの高級スーパーにお寿司とお惣菜を買いに行くことにした。玄関から庭に出ると、長いホースを引っ張りながら水かけをしている母の姿が眼に入った。季節外れの花を咲かせた薔薇も色濃く濡れている。

——意外と元気じゃない。


 心のなかでそうぼやきながら、納戸から自転車を引っ張りだした。西の空は狂ったように紅く燃えたぎっていた。久しぶりに自転車のペダルを漕ぎながら、アラ還にもなってフランス料理を食べたかった訳じゃないよ、と心のなかで愚痴った。山形は三六〇度、どこを向いても山が見える。親に叱られた後、蔵王連峰の山並みを見ながら、馬見ヶ崎川の土手を目指して自転車を走らせていた小学生の自分に戻った気がした。

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