第2話「いつぶりの湯船か」
クロ、ハク、フランの三人は、屋敷のあった丘を下り、しばらく歩いてようやく、小さな集落へと辿り着いた。
「今日はここの宿に泊まらせてもらおう」
「あれ、なんだ? 光ってる…… のか?」
クロが指差した方向にあったのは、現在地よりも栄えていそうな場所。
そこは、淡い水色の輝きに包まれていた。
光が波のように揺れながら漂うその幻想的な景色に、思わず言葉を飲む。
「あそこにあるのがマクアだね。国を覆っているのは結界だよ」
「結界?」
「聞きたいことが色々あるだろうけど、とりあえずは宿を取ろうか」
「どうせなら向こうまで歩けば良いんじゃないか? 俺はまだ大丈夫だぜ?」
「クロが良くても私はもう疲れたよ。っていうか、そもそも今は向こうに入れないし」
「ふーん」
ハク、クロ、フランの順で集落の中を進み、宿に到着した。年季の入った木造の建物だ。扉を開けると、小皺のある中年女性が受付に立っていた。
「三人、二部屋で一泊お願いします」
「はいよ…… ん?」
勘定を済ませる前に、受付の女性がクロのことをじろりと見た。
「な、なんですか?」
「あんた…… 魔物と同じ匂いがするね」
「…… 先程、屋敷の魔物に襲われまして。それが原因だと思いますよ」
「そうかい。ま、ちゃんとお金を払ってくれるなら構わないけど、騒ぎは起こさないでちょうだいね」
「もちろんです」
何を言われているのかクロにはわからなかったが、ハクのおかげで大事には至らなかったようだ。
「…… 俺、臭いか?」
すんすん、とフランが彼の匂いを嗅ぐ。
「ほんのり汗臭いかも?」
「マジか…… 早く風呂入んねえと」
「そういう意味じゃなかったと思うけど……」
苦笑いするハクを先頭に階段を登る。二階にはちょうど二つ、借りる部屋があった。
「荷物を置いたら汗を流しに行こう。ちゃんと男女で別れてるから同時に入れるよ」
「了解!」
「クロには、お風呂ついでに色々わからないことを教えるよ」
「よろしくな」
荷物を置くといっても、折れた剣、弓、杖、それとハクが肩に掛けていた布袋ぐらいしかないため、そう時間はかからない。
折れた剣は用途こそないものの、手掛かりになるかもしれないとのことで、ハクの布袋で保管することとなった。
「おっふっろー!」
フランが一目散に駆けていく。
「あいつ…… 疲れはどこにいったんだよ」
「まあまあ。僕たちも向かおうか」
「そうだな」
階段を下って受付を通り過ぎ、浴場へと向かった。脱衣所で衣服を脱ぎ、中に入ると、二人で浸かるならば充分な広さの浴槽が。
「これを入れてっと」
浴槽の下にある窪みに、ハクがどこからか取り出した赤い石を投入した。
「中のお湯は新しいみたいだね」
桶でお湯をすくい、頭から被るハク。ほどかれた長髪が、濡れたことで彼の体にへばりついた。
「いいよ」
「お、おう」
クロは桶を受け取るが、変貌したハクの姿から目が離せない。
(ちょっと怖いな……)
ハクは後ろ髪が取り立てて長いが、前髪もそれなりに長かった。今のように、濡れてへばりつけば、鼻まで完全に隠れてしまう程には。
彼が前髪をかき上げると、その顔が再び見えるようになった。
(やっぱかっけえなあ……)
同性であるはずのクロでさえ、思わず見惚れてしまいそうになる程の格好良さだ。
ハクは長い後ろ髪を体の横に持ってきて水気を搾った後、腕に着けていた髪留めで簡単に縛った。
「どうかしたのかい?」
不思議そうにクロの方を見つめてくるハク。
「い、いや、なんでもない」
誤魔化してから、クロも同じように汗を流した。二人揃って湯船に足を浸け、勢い良く座り込むとお湯が溢れて流れていく。
「ふう、極楽極楽」
「いい湯だね…… さて」
湯船の心地良さを感じたのも束の間、ハクが顔をクロの方に向けた。
「記憶喪失で色々とわからないことが多いみたいだけど、何から聞きたい?」
「んー……」
クロは視線を上げ、何を聞くべきか考える。目覚めてから一日も経っていないというのに、頭の中は未知の情報でいっぱいだ。
「さっき俺たちを襲ってきた奴…… フランは魔物って呼んでたけど。あれいったいなんなんだ?」
「元はただの野生動物だよ。『冥王の瘴気』に当てられて暴走しているんだ」
「冥王の…… なんだって?」
疑問を解消するはずが、新たな疑問が生まれてしまった。
「ざっくり言うなら、良くないもの、ってところかな。五百年くらい前から世界各地に漂っていてね。不可視の存在だけど、夜になるとその影響が強くなって、魔物が発生しやすくなるんだ」
「へえ。あれ? でも、さっきの奴はどう見ても野生動物って感じじゃなかったような……」
青白い皮膚。鋭利な爪と牙。赤い瞳。大きな体躯。どれを取っても、自然界に存在する生物だとは思えない。
「そうだね。僕もそう思うよ。どういう経緯で生まれたのかはわからないけど、あれは間違いなく例外かな」
「なるほど…… 次いいか?」
「うん」
「まりょく? ってなんだ? フランがそれで矢を射ってたみたいなんだけど」
「魔力は、誰もがその身に秘めている不思議な力のことさ。色々な恩恵をもたらしてくれる魔法を使うために必要なんだよ」
「もしかして、俺にも使える?」
赤い瞳を輝かせながら、顔をハクに近づける。その動きで浴槽のお湯がぱしゃりと跳ねた。
魔法。その甘美な響きに、心を躍らせずにはいられない。
「今すぐに、とは難しいんじゃないかな。少なくとも、自分の魔力を感じることができていないと」
その言葉を聞いて、目を閉じる。暗闇に意識を委ねてみたが、お湯の温かさ以外には何も感じられなかった。
「うーん、無理そうだな」
「修練を積めば、いずれ扱えるようになるさ。僕は他人に教えられる程の腕前ではないけど、アイア…… 僕がいた国に行けば、指導してくださる方がいるよ。とても博識な方で、クロの記憶喪失についても何かわかるかもしれないから、旅の途中で寄ってみようか」
「その、アイア? まで行くのにどれくらいかかるんだ?」
「行くこと自体はそこまで時間はかからないけど、フランを送らないといけないし…… それとは別に、僕も、マクアと、もう一つ他の国に用事があるから、それ次第かな。アイアは別の大陸にあるから、こっちの用事を終えてから行きたいんだ」
「用事? それなら尚更早くマクアに行った方が良かったと思うけど…… どうして今は入れないんだ?」
ハクの用事についても興味があったが、一つ一つ順を追って尋ねていく。両手を合わせてできた空洞にお湯を溜め、一気に押し潰して勢い良く壁に発射した。
「先に結界について説明しておこうか。その方がわかりやすいと思うからね」
「ああ、なんか光ってたやつか」
「うん。あれはね、冥王の瘴気から人々を守る役割を果たしているんだ」
「その瘴気って、人にも影響が出るのか? そしたら俺たちも危ないんじゃ……」
三人は日没後もしばらく歩いていたはずだ。建物内での瘴気の影響はわからないが、今現在も少なからず体を蝕んでいるのではないかと、彼は不安がる。
「そうだね。他の動物たちと比べると前例は少ないみたいだけど、精神が弱っていると暴走してしまうこともあるらしい。だから、夜は結界の出入りを禁じているんだよ」
「出入り? 出ることだけじゃなくてか?」
入国まで禁じてしまっては、それこそ、瘴気に当てられる人間が増加してしまうのではないかとクロは疑問に思った。
「結界は、あくまで瘴気に対して効果を及ぼすものだからね。魔物の侵入を完全に防げるわけではないから、そういう決まりになってるんだよ。魔物が人間のふりをして侵入する可能性だって、ないとは言い切れないし」
「そしたら、なんで結界の外に集落があるんだ?」
「結界の外へ出たまま日没したら大変だろう? 野宿しなくても良いように設けられた、救済措置ってことさ。ちょうど、今回のようにね。それだけじゃなくて、仮に魔物が攻めてきても、国の主要部に被害が出ないようにっていう意味での見張りも兼ねているんだよ。異変があれば、すぐ連絡が取れるようになっているからね」
「…… じゃあ、何かあったときは真っ先にここが見捨てられるってことなんじゃないか?」
その何かがなかったとしても、ここにいる人々はいつ脅威が襲ってくるかわからないという不安を抱えているはずだ。見たところ、戦闘に長けた兵士などが揃っているわけではなさそうだった。魔物に攻め込まれたら、ここの住民はただでは済まないだろう。故に、クロはこの仕組みに若干の苛立ちを覚えたのだ。
「嫌な聞き方をするね……」
「あ、いや、別にハクに怒ったわけじゃないんだ。ごめん」
クロが申し訳なさそうな顔を見せると、ハクは短く笑ってみせた。
「大丈夫だよ。君は、優しいね」
「優しい? 俺が?」
「うん。僕だけじゃない。きっとフランもそう言うはずさ」
きょとんとした顔になるクロ。それだけ、その言葉は自分とは縁遠いものだと思っていた。その理由を説明できるだけの記憶は持ち合わせていないが。
「話を戻そうか。結界からこれだけ離れていても、多少の恩恵は得られるし、魔物も結界は好まないみたいだから、侵入どころかそうそう近づくこともないよ。それに、ここの住民はそれぞれがある程度、自衛の手段を確立しているんだ。命を落とすなんてことはないはずさ」
「そうか……」
「他には何かあるかい?」
「んー…… あとはハクの用事について、かな」
他にもあるかもしれないとクロは思ったが、多くの情報を詰め込みすぎたせいで、彼の頭で考えつくのはそれしかなかった。
「その質問は明日答えるよ。フランにも聞かれるだろうからね。さて、そろそろ出ようか」
風呂から上がり、寝間着を借りて部屋に戻る。フランと軽く言葉を交わした後、それぞれ寝床についた。
(これから、どうなるんだろうな……)
柔らかな感触。程良い温もり。それらによって生み出される眠気に、考えてもどうしようもない問いは溶けていった。
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