クロと黒歴史

ムツナツキ

第一章『邂逅』

第1話「覚醒、仰天、大脱出」

 薄暗い空間の中、一人の少年が石壁の内角に寄りかかる体勢で眠っていた。冷たい空気に、硬い床と壁。静寂こそあるものの、およそ快眠に適しているとは言い難いこの環境で、少年はどのような悪夢に囚われているのだろうか。

 はたまた、悪夢ではなく────


「…… んぁ?」


 体の節々に痛みを覚え、だらしない声を上げながら黒髪の少年は目覚めた。

 彼は寝ぼけ眼を擦りながら周囲を見回す。

 石造りの床と壁。それらによって睡眠を妨げられていたのだ。こんな所で寝ていたら体が痛いのも当然か、と思いながら、彼はふと違和感を覚えた。

 目の前に広がるのは、見慣れない景色、というよりは部屋。施錠されていない鉄格子の内側に彼がいる形だ。


「ここは…… 牢屋、か?」


 何故こんな所にいるのか、彼にはわからなかった。捕らえられる覚えがない、という表現は正しくない。


「俺は…… 誰だ?」


 自身の記憶がないのだ。眠りに就くまでどこにいて、何をしていたのか。それどころか、自分の名前ですら思い出すことができない。


「うーん、駄目だ。なんにも思い出せねえ」


 頭を左手でぼりぼりと掻いてから、およそ危機感を持っている人間とは思い難い口調でこう呟く。


「これ、結構まずいんじゃね?」


 おどけたところで返事をしてくれる相手がいるはずもなく、反響音にため息を溶かした。


「どうすりゃいいんだよ、これ……」


 どんなに思い出そうとしても、彼の頭の中は自身のことについて一切の情報を持っていない。


「とりあえず手掛かりでも探すか」


 現在、黒髪の少年がいる牢屋には鏡が一枚貼り付けられているだけで、他に物色できそうな箇所はなかった。一番最初に鏡を調べるのは至極真っ当と言えるだろう。


「おおう……」


 彼はそこで初めて自らの容姿を確認した。


「壊滅的に悪くはない…… のか?」


 残念ながら、お世辞にも格好良いと呼べる顔立ちではない。少しはねた黒髪に、赤い瞳が特徴的だ。だが、彼がその瞳から感じたのは美しさではなく、どちらかと言うと禍々しさだった。

 視線を落とし、今度は自らの服装を確認する。上は黒い服で、白い二重袖が付いた作りだ。ズボンは膝下くらいの丈で、深緑色。靴は少しくたびれているが、歩行に支障はきたさなそうだった。これらの服装にももちろん見覚えはない。


「誰かに着替えさせられた、なんてこと…… ないよな?」


 仮に誰かに攫われたのだとしたら、その可能性も否定できないが、自尊心を傷つけぬよう考えないことに決めた。

 身長は、比較対象がいないため断定はできないが、高い方ではなさそうだ。

 筋肉量はそこまでなく、どちらかと言えば痩せ気味な印象を受けた。

 総じて、外見から推測できる年齢は十四歳前後といったところか。


「隠し扉とかあったりしねえかなあ」


 次に、鏡そのものに目を向けた。鏡と石壁をべたべたと触ってみるが、特に気になる点はない。


「本当になんもねえのな。出るしかないか」


 幸い、柵の出入り口は開かれている。つつがなく潜り、通路へと出た。

 黒髪の少年がいた側に三つ、通路を挟んで反対側に三つ、計六つの牢屋があるようだ。彼がいたのは真ん中。右手側は行き止まりで、左手側の少し進んだところに扉があった。


「しらみつぶしに見ていくとするかね」


 まずは正面。目覚めた牢屋と同じように鏡があるだけで、これといった細工は見受けられない。

 続いて隣、行き止まり側の牢屋。そこを見てすぐに、彼は青ざめた。


「なんだよ、これ……」


 赤黒い液体を撒き散らしたような光景。陰鬱なこの場所で、それが血でないと判断する方が難しかった。


「……! な、なんだ? 頭が……!」


 突如として彼の頭に走る激痛。黒髪の少年は言い切ることもできずに膝をついた。

 目を閉じると、もやのかかった映像が脳裏にちらつく。その先を見るために解像度を上げようとすれば、より頭痛はひどくなっていった。

 痛みを堪えながら、目を開ける。赤黒い惨状と先程の謎の映像が重なり、頭痛は余計に悪化していった。


「…… ああああああっ!」


 行き止まりの石壁に思い切り頭突きをする。内的要因であろう痛みを外的要因の痛みで紛らわして、心身ともに目を背けた。


「はあっ、はあっ……」


 息切れ。この場所の空気が薄いのかもしれないが、それ以上に頭痛が応えている。ただ、内的要因の方の痛みはなんとか治まってきていた。奇行とも言える頭突きの痛みは未だ健在だが。


「…… ん?」


 血だらけの牢屋の反対、その牢屋に、気になるものが落ちていた。やはりと言うべきか、施錠されていない柵を潜ってそれを拾う。


「剣と、紙?」


 四つ折りにされた紙を開くと、文字が書かれていた。


『持っておけ』


「きったねえ字」


 この解読で合っているのか不安になる程の汚い字。汚さは置いておくとして、これは自身に向けて書かれたものなのだろうかと思考を巡らせる。

 古びた剣。現状、武具に詳しいとは言えない彼にもわかる程、その剣は年季が入っていた。


「意外と重いな」


 試しに数回振ってみたが、かなり力を入れないと、剣の重みに体を持っていかれそうになる。

 自身の体格に比べて剣がやや長いため、大人用のものなのかもしれないと彼は考えた。


「ま、いいや。とりあえず貰っておこうかな。ちょっと古臭い気もするけど、かっこいいし」


 思いがけない拾い物をした黒髪の少年は、先程の血だらけの牢屋を視界に入れないようにしながら次の牢屋へと向かう。


「うわ、鏡割れてら」


 目覚めた側の最後の牢屋。その鏡は、触れたらまず怪我をするだろうといった具合に亀裂が入っていた。囚人か何かが暴れた痕跡のようにも見える。それ以外に気になる箇所はない。

 続いて最後の牢屋。当然のように鍵はかかっていなかったが、彼は入ろうとしなかった。

 壁や床は、何かを叩きつけたかのようにへこんでいて、鏡に至ってはそこにない。恐らく粉々に砕けてしまったのだろう。柵もかなり歪んでいる。


「どんだけ暴れりゃこんなことになるんだよ……」


 何はともあれ、これで一通り牢屋を回ることができた。収穫は剣一本。


「駄目元で動いてみるもんだな」


 出口であろう扉に向かい、取っ手を掴む。


「ここから俺の冒険が始まる…… って重っ」


 左手だけで開けようとしたが、想像以上に扉が重かった。剣を収める鞘も剣帯もなかったため、一度剣を置いてから今度は両手で引っ張ることにする。


「ぬぬぬぬぬぬ…… そいっ!」


 建て付けが悪いのか、単に彼が非力なのか。力を振り絞って扉を開け放ち、再び閉じてしまう前に剣を拾い直して牢屋の間を出た。


「変わり映えしねえなあ」


 牢屋こそないものの、造りは先程の間と同じ。変化と言えば、大人三人が並んで通れる程だった通路の幅が四人分程に広くなったことと、進む先に階段があることぐらいだ。


「これ、どこに続いてるんだ?」


 上りの階段。それに対して天井の高さが変化しておらず、上に行くにつれて狭くなっていく。窮屈そうで進むのを躊躇うが、他に道もないため、黒髪の少年は嫌々ながらも階段を上り始めた。


「本当になんでこんな場所にいるんだよ……」


 変わり映えのない景色。一人。加えて記憶喪失ともなれば、同じことを考えるのも無理はない。考えてもどうしようもないことだとしても。

 申し訳程度の照明のようなものが壁に埋め込まれているおかげで、足下はそれなりに見えた。だが、一歩踏み間違えれば転落死しかねないため、手摺り代わりに石壁を触りながら登る。ざらざらとした手触りが次第に病みつきになる頃には、上り終えることができていた。


「これ、梯子か?」


 行き止まりの壁に取っ手のようなものが等間隔に打ち込まれている。頭すれすれまで近づいた天井を見ると、そちらにも取っ手が付けられていた。


「隠し扉の内側、って感じかな」


 天井の取っ手を掴んで、適当に動かしてみる。押し上げた際、少しだけ開いたのがわかった。


「せーのっ!」


 左手と、右手に持った剣の柄の部分で扉を思い切り押し開ける。


「きゃっ!?」


「ううぇ!?」


 突如として聞こえた悲鳴に、黒髪の少年も情けない声を上げた。恐る恐る覗いた先には、自身を怪しげに見ている緑髪の少女の姿が。


「えっと…… 驚かせちゃったか?」


「…… はっ、そうだ! ごめん、ちょっと隠れさせて!」


「え? ちょっと待て、いったいどういう…… うわっ!」


 彼女は有無を言わさず、狭い空間に入り込んできた。


「扉閉めて!」


「な、なんなんだよもう」


 文句を垂れながらも指示に従う黒髪の少年。少女の方はというと、足早に階段を下っていってしまった。


「お、おい! 待てよ!」


 彼の冒険は、早くも後戻りすることになってしまったようだ。

 階段を踏み外さぬよう注意しながら、少女の後を追いかける。一定の間隔で照明が埋め込まれているが、その明かりは弱い。一度明るい場所に出ると、余計に暗く見えてしまう。


「はあっ、疲れたー!」


「なんなんだよ、いったい」


 階段を下りきると、少女はその場に座り込んでしまった。それなりに長い階段だが、かと言って疲労感に苛まれる程でもない。黒髪の少年は不思議に思った。


「いやー、助かったよ!」


 照明を頼りに、彼女の容姿を確認する。

 肩までの緑髪と、きらきらと光る緑色の瞳が特徴的だ。あどけなさの残る顔立ちで、身長は黒髪の少年より少し低かった。

 縞模様があしらわれた茶色のワンピースに、薄い黄色の上着を羽織っている。よく見ると、水分を含んでいるようだ。外では雨でも降っているのだろうか、と彼は考えた。

 彼女の手には弓のようなものが握られていたが、とても狩りをするような人間には見えない。


「ところで、あなたは誰?」


(質問したいのはこっちなんだけどな……)


 尋ねられてしまった以上は答えなければならないだろう。だが、彼は答えられない。答えがわからないと言うべきか。


「人に名前を聞くときは、先に自分から名乗るのが礼儀ってもんじゃねえの?」


「確かに」


 苦し紛れの答弁だったが、了承してもらえたようだ。少女は立ち上がり、彼の方を見つめる。


「私はフラン。水の国マクア出身」


(どこですかねそこ)


 早速表れた知らない単語に、すかさず脳内でツッコミを入れた。

 水の国、なんてものがあるのならば、火の国や木の国といったものもあるのかもしれない。そんなことを彼が考えている間にも、緑髪の少女、フランの言葉は続いた。


「珍しいお花が咲いてるって噂を聞いて森まで来たんだけど、雨に降られちゃって。運良く見つけたお屋敷で雨宿り、って感じかな」


 次々と情報が明らかになっていく。ここは森の中にある屋敷らしい。彼女の服が濡れているのも、やはり雨によるものだったようだ。


「でもどうしよう…… これじゃあ夜までにおうちに帰れないよ」


 そういえば、先程の彼女はかなり慌てていた。確か、隠れさせてと言っていたか、と黒髪の少年は思い出す。


「何かあったのか?」


「…… 出たの。魔物が」


 今まで明るかったフランの声色と表情が、一転して暗いものになった。初めて耳にした『魔物』という言葉だけ受け取れば、冗談だと一笑に付すところだが、彼女の様子を見て、何かしらの脅威に襲われたことは紛れもない真実なのだと、黒髪の少年は理解する。


「それに、会ったのか?」


「うん…… 一応これで応戦したんだけど、歯が立たなくてね」


 フランはそう言って、弓に視線を向けた。

 誰かのお下がりなのだろうか。彼女の体格には少しばかり大きすぎるように思える。移動しながら矢を射るのはなかなか骨が折れそうだ。

 既に使い切ってしまったのか、彼女は矢の類を持っていないようだった。矢を携帯するための道具すら見当たらないのは、逃走の際に捨てたからと考えるべきだろう。

 彼女にどれだけ弓矢の才があるかはわからないが、魔物とはなかなか厄介な相手らしい。少なくとも、今、彼が手にしている剣でどうこうできる話ではなさそうだった。

 空間の明度に順応するように、二人の間に流れる空気が暗くなっていく。


「あなたは? あなたは誰なの?」


「え? あ、ああ。俺ね」


 空気が悪くなったのを察知したのか、フランは再び明るく振る舞った。声がやや上ずっているが、この気遣いを無下にするわけにはいかない。


「名乗る程のもんじゃねえさ……」


 流れる沈黙。冷気と静寂が空間を満たした。


「名乗る程のもんじゃねえさ……」


「聞こえてるよ。聞こえたうえで無視したんだよ」


 聞き取れなかったのかもという淡い期待は、いとも容易く打ち砕かれる。スベったのだという事実を認めざるを得なかった。虚しさと恥ずかしさを誤魔化すように、彼はため息を吐く。

 ともかく、信じてもらえるかはわからないが、ありのままを語るしかないようだ。


「実は俺……」


 声は、かき消された。突如として鳴り響いた轟音によって。


「な、なんだ!?」


 音とともに、強い揺れが二人を襲う。天井がぼろぼろと崩れ始めた。


「く、来る!」


 二人がいる辺りと奥の部屋の間、その天井が一気に崩落する。一際大きく揺れた後に、崩落した場所を見ると、土煙の中で眼光を放つ巨影が佇んでいるのがわかった。


「あ、あ……」


 そんな声を漏らしていたのはフランだ。驚きや恐怖によるものだろう。黒髪の少年には手に取るようにわかった。

 自身もまた、同じ感情を強く抱いていたからだ。

 煙が晴れ、瓦礫の上に立っていたのは、まさに魔物と呼ぶにふさわしい存在。


(なんだよ、こいつ……!)


 それは、肉食獣と人間を強引に合体させたような、不恰好な体躯をしていた。

 獣の頭部。首は短く、そこから続く胴体は、他の部位と比べると痩せ細っているようにも見える。だが、それは四肢の筋肉が尋常ではない程に肥大化していることでそう見えるだけで、決して貧弱な体というわけではなかった。鋭利な爪と牙がただの飾りに思える程、発達した肉体だ。

 体毛は一切なく、謎のつぎはぎだらけの青白い地肌が露出している。絶妙な違和感が、不気味さにより拍車をかけていた。

 その赤い眼差しが、黒髪の少年たちの方に向けられる。奇しくも、彼と同じ色の瞳だった。

 そんな化物────フランが魔物と呼ぶそれを見れば、当然恐怖を覚える。

 耳をつんざくような咆哮。二人ともたまらず耳を塞いだ。

 逃げろ。

 恐怖が最高潮に達した結果、彼の脳内はただその一言だけで充満していた。


「あ、危ねえ!」


 魔物が右腕を振るう。狙いは、より近くにいたフランのようだ。避ける素ぶりすら見せない彼女を、黒髪の少年が引っ張って後方に下げる。


「逃げろ!」


 言いながら、間一髪のところで剛腕を剣で受け止めた。受け止めることができた。

 圧倒的な体格差。普通に考えて、一撃で屠られるはずだった。そう思っていたからこそ、最期の言葉として、彼女に逃げるよう伝えたのだ。

 だが何故か、魔物の剛腕を、彼は細い腕に握った剣で受け止められた。


「え……」


「早く逃げろ! 二人で固まって逃げて、もたついたらその瞬間お陀仏だ! 先に行って扉開けてこい!」


「う、うん!」


 彼女は避けようとしなかったのではない。恐怖のあまり動けなかったのだ。先程までの妙に明るい振る舞いも、魔物への恐怖を払拭するためだと考えれば納得がいく。要は空元気だったというわけだ。

 だが、空元気だったとしても、その明るさに彼は少なからず救われた。先の見えない未来に、光を感じたのだ。ならば、彼がするべきことは、恩人を死なせないこと。厳しい言葉で叱咤することになろうとも、それが必要であるなら躊躇はしない。


「重っ、てえな…… くそお!」


 声を上げながら、なんとか魔物の腕を弾き返した。

 何故、自分はまだ生きているのか。考えている暇はない。少しでも戦えるのであれば、抗わなければ。

 だが、一度受け止められたとは言え、自身の胴回りと同じ程の太さの腕から繰り出される一撃は、想像以上に重い。剣から伝わる衝撃で手が痺れそうだ。そう何度も受け止められる自信は、ない。


「諦めてくれると助かるんだけど、なあっ!」


 そんな事情が慮られるはずもなく、一拍置いてから魔物の左腕が振るわれた。同じように受け止めるが、今度は全力をもってしても押し返すことができない。

 先の一撃によって、黒髪の少年の体にはかなりの負担がかかっていた。やはり、最初に受け止め、それを弾き返したのは奇跡に近しい出来事だったらしい。


「さ、さすがに無理……」


 後方に飛び退いて一旦距離を取る。魔物の左腕は勢いそのまま壁に激突し、それを破壊した。部屋が隣り合っているわけではないようで、壁には大きな窪みと亀裂が出来上がる。


「こんなのまともに食らったら……」


 ごくりと唾を飲み込んだ。何歩か後ずさって距離を取る。

 だが、恐れてなどいられない。今できるのは、時間稼ぎに注力すること。一秒でも長く持ち堪える必要があった。

 魔物は壁に食い込んだ左腕を引き抜いた後、前傾姿勢になって両腕を引く。それから床を思い切り蹴り出し、黒髪の少年の方へと飛びかかってきた。


「は、早え!」


 たまらず飛び退くが脚力の差が大きく、すぐに距離を詰められてしまう。魔物の両腕が彼に迫った。また、受けなければならない。


「やりづれえなあ!」


 剣の腹の部分で無理やり両腕を受け止める。

 その瞬間。


(……! な、なんだ!?)


 彼の心臓が、強く跳ねた。

 同時に、手足に奇妙な感覚が走る。疲労でも、痛みや痺れでもない。もちろん、それらは先程から充分に感じているのだが、それら以外の感覚が、彼を襲ったのだ。

 体の自由を奪われるような、そんな感覚だった。

 依然として、魔物の攻撃は続いている。彼は上手く踏ん張れずに後ろへ追いやられているが、決して倒れはしない。


「ぐっ…… どりゃあっ!」


 魔物が着地する寸前に、相手の腕を押す要領で飛び退き、再び距離を取ることに成功した。


(なんだったんだ、今の……)


 考えてもわからない。そもそも、考える暇はない。

 だが、これ以上魔物の攻撃を受け止め続けることは、危険な気がした。できるできないの問題ではない。

 恐怖。

 魔物に抱くと同時に、今自身に起こった現象そのものにも、それを感じていた。


「開いたよ!」


「待ってたぜ!」


 フランの声が後方から聞こえると同時に振り向き、走り出す。当然、魔物がそれを黙って見てくれているはずもなく、雄叫びを上げながら獣の如く四足歩行で後に続いてきた。

 二本足で立つことも可能なようたが、四足歩行が基本らしい。


「いや速い速い速いっ!」


 剣を持っているせいで、かなり走りづらい。捨てるわけにもいかないが、このままではいずれ追いつかれてしまう。

 どうするべきか悩みながらも足を動かし続けていると、階段に近づいた辺りで、フランが戻ってきているのがわかった。


「お前何して……!」


「避けて!」


「うわあっ!?」


 フランが構えた弓から、一縷の光が放たれる。黒髪の少年が躱したそれは、緑色に輝きながら魔物の右眼に直撃した。

 より一層大きな叫び。耳を塞ぎたいと思ったものの、剣を握っているせいで彼は片方しか保護できなかった。フランは弓を持ちながらも器用に両耳を押さえていたが。

 二人はそのまま階段を上り続ける。


「さっきのって?」


「魔力で作った矢だよ」


「まりょく……?」


「…… 話は後!」


 聞き馴染みのない単語に、脳の処理が追いつかない黒髪の少年。それに気づいてか、フランは話を切り上げた。

 階段の頂上に辿り着くと、取っ手を梯子代わりにして上り、狭苦しい空間から脱出する。


「出口はどっちだ?」


「わかんない!」


「はあっ!?」


「しょうがないじゃん! このお屋敷広いんだもん!」


「来た道戻るだけだろ!」


「逃げるのに必死で覚えてなかったの! というかあなたこそどうして知らないの?」


「だから俺は……!?」


 咆哮と、大きな足音によって彼の言葉は遮られた。魔物だ。あの狭い空間では身動きを取りづらかったはずだが、破壊を伴いながら脱出したらしい。


「…… この階に出口があるのは間違いないはずだ。なるべく同じ通路に戻らないようにして探そう」


 先程の空間は恐らく地下だろう。つまり、二人は現在一階にいるはずだ。同じ通路を延々と周りでもしない限り、いずれ出口に辿り着ける。


「さっきの矢はあとどれだけ撃てる?」


「体力次第。魔力が先に枯渇するってことはないと思う」


 魔力が云々という話は彼にはわからないが、体力勝負ということだけわかれば充分だ。


「弓矢でなるべく足止めしてくれ」


「良いけど、威力と速度には期待しないで!」


 言葉とともにフランが放った矢は、剛腕によって容易く払われてしまった。


「やらないよりかマシだ。近づかれたら俺が受け止めて、その隙にフランがあいつの顔面にぶちかます。で、また逃げる。それを繰り返すしか、ねえ!」


 言いながら、接近していた魔物の攻撃を受け止める。

 先程の感覚は彼にとって受け入れ難いものだったが、それでも、命が優先だ。


「ぐっ……!?」


 また、『奪われる』感覚。

 彼としては、腕に力を込めているつもりなのだ。全力で。

 だが、腕にそれが伝わっている気がしなかった。そうであるにもかかわらず、こうして相手の攻撃を受け止められているせいで、余計に気持ち悪く感じられる。

 痛みによる痺れがまだ治りかけていないため、押し返すまでには至らない。彼だけでは。

 またも、咆哮。

 フランの矢が、再び魔物の右眼に命中したのだ。魔物の攻勢が緩んだ隙に、二人は逃亡を再開する。

 分かれ道や突き当たりになる度、どちらへ進んだかを記憶し、脳内での屋敷の見取り図に書き加えながら走り続けた。


「あ、あれ!」


「出口か?」


「うん! 間違いないよ!」


 通路の先に扉を発見する。これで、ようやく脱出できるだろう。そう期待した彼の代わりに、先行しているフランが駆け寄り、扉を押すが。


「あ、開かない!」


「なんだって!?」


 黒髪の少年も試すが、予想以上に扉が重い。建て付けが悪いようだ。


「来たときも重かったけど、ここまでじゃなかったのに……」


「二人で体当たりするしかない。息を合わせよう!」


 せーの、と声を合わせて同時に扉にぶつかる。扉が揺れるが、開かない。

 二人が扉相手に苦戦している間にも、魔物は距離を詰めてくる。


「もう一度!」


 二度目の体当たり。扉は開かない。魔物は全速力で二人の方へと向かってくる。

 死が、迫ってきていた。フランの目には涙が浮かんでいる。


「諦めちゃ駄目だ!もう一度、もう一度だ!」


 そのもう一度が、最後の機会だとわかっていた。悲観的状況だが、嘆くにはまだ早い。やれることは全てやらなければ。


「せーのっ!」


 最後の体当たり。

 扉が、開いた。


「あ、開いた!」


 彼女の話どおり、森の中の屋敷だったらしい。小高い丘のような地形で、二人の行く先には下り坂が続いていた。

 二人揃って倒れ込みそうになるが、フランは素早く走り出し、黒髪の少年は外に出ながら振り返って、ぎりぎりまで迫っていた魔物の攻撃を受け止める。


「なっ!?」


 ここで最悪の事態が発生した。剣身が折れ、勢い良く回転して地面に突き刺さる。剣が使えなければ、作戦も成り立たない。


「やばいやばいやばい!」


 フランが正確に矢を放つ時間を稼げないため、すかさず距離を取る。逃げつつに射る矢の威力はお世辞にも高いとは言えない。二人にできることは、最早全力で逃げることだけだ。


「はあっ、はあっ……」


「フラン? 大丈夫か!?」


 前方を走っていたはずのフランが、次第に速度を落とし、とうとう彼の後方を走る形になってしまった。


「もう、駄目……」


 自身と出会う前に、彼女がどれ程の時間、魔物に追われていたのか彼にはわからないが、疲労は確実に蓄積されていることだろう。それを考えずとも、男女での体力差がある。フランに、限界が訪れようとしていた。


「あっ……」


「フラン!」


 雨は止んでいたが、短時間で地面が乾くはずもなく、そのぬかるみによってフランが転んでしまう。黒髪の少年も立ち止まり、手を貸すために戻ろうとするが、それよりも先に、魔物が彼女に迫ってきていた。

 間に合わない。

 逃げろ。

 刹那、彼の脳内で警告が響く。


「逃げて……」


 フランの言葉で、我に返った。命の危機にあるというのに、彼女は彼に逃げるよう声を振り絞ったのだ。

 その声を安直に受け入れることなど、できない。


「間に合わないかもしれない……? 違う!」


 彼は、力強く走り出した。


「絶対に、助けるんだ!」


 強い想いがなければ、成せないことがある。それが、今。


「来ちゃ駄目!」


 フランの声などお構いなしに、走る。魔物の腕が、今にも振り下ろされようとしていた。


(間に合え……!)


 手を伸ばし、彼女の襟を掴む。


「そおおいっ!」


 剣が折れていることは、忘れていなかった。だが何故か、柄の部分をもう片方の手で掴んだままだったのだ。それが良くなかった。体が覚えた、剣を持った状態での立ち回り。それが、ここで発揮されてしまう。

 フランの襟を掴み、後方へ放り投げた。

 そう、彼女を助けることだけに注視しすぎた結果、自分が回避するための行動を取れず、魔物の攻撃範囲に居座る形に。


(やっべ、死んだ────)


「────『ペネトレイティング=レイ』!」


 立ち尽くす黒髪の少年に迫る剛腕を、突如として飛来した光の槍が貫いた。魔物は仰け反り、数歩下がって痛みに悶えている。


「…… へ?」


「大丈夫かい?」


 振り返るとそこには、長く美しい白髪を後ろで縛った少年が。


「あ、ああ。とりあえずは」


「良かった。さて……」


 白髪の少年はその青い瞳で魔物の方を鋭く睨みつけながら、右手に持った木の杖を翳した。


「とりあえず、で終わらないように、君にはご退場願いたい」


 両者の間に、張り詰めた空気が漂う。

 魔物は唸り声を上げながら、白髪の少年と同様に睨んでいたが、しばらくすると踵を返して去っていった。


「助かった、のか?」


「そのようだね」


「い、生きてる…… 私、生きてるよ……」


 緊張が解けたからか、フランがその場にへたり込んでしまう。それを見た黒髪の少年は、大きなため息を吐きながら自身の両膝に手をついた。


「ありがとう。お前がいなきゃ死んでた」


 感謝を述べながら、黒髪の少年は自身を助けてくれた彼の容姿を再確認する。

 まず思ったのは、端正な顔立ちをしているということだった。自分の顔に対して悪くないという評価をしたことが、恥ずかしく思えてくる程だ。

 透き通るような白髪は、老人のそれとは異なって美しさを纏っていた。長い後ろ髪を結っているのもあってか、中性的な印象を受ける。

 身長は黒髪の少年より少し高い。

 上は白い服で、下は丈の長いベージュのズボン。

 大人びた雰囲気が感じられるため、自身より少し年上かもしれないと思った。どこか幼さを感じさせるフランとは、対照的だ。


「礼には及ばないよ。だけど、こんな所を訪れるなんて感心しないね。魔物の出現報告が上がっているというのは、マクア近辺では有名な話だろう?」


「あ、あはは…… ちょっとお花を探してたら雨に降られちゃって…… 私はフラン。マクア出身。よろしくね」


「おっと、紹介がまだだったね。僕の名前はハク。魔導士の国、アイアから来たんだ。よろしく。それと、黒い髪の君は? なんて言うんだい?」


「そうだ、まだあなたの名前を聞けてなかったんだ。教えてくれる?」


「ああ、それが、ええと……」


 時間が経ったことで先の決意が揺らいでしまい、黒髪の少年は言い淀む。記憶喪失など、信じてもらえない可能性があるからだ。彼の中で、もし自分が逆の立場だったら信じないという確信があるからこそ、言葉を紡げない。


「…… どうかしたのかい?」


 白髪の少年、ハクの表情が訝しげなものに変わる。変に誤魔化すと、余計に怪しまれかねない。そう思い至った黒髪の少年は、今日どれだけ消費したかわからない勇気を振り絞って真実を打ち明けることにした。


「いや、実は俺、記憶喪失? ってやつみたいでさ。気づいたらあの屋敷の中にいたんだよ。どうしてあそこにいたのかも、自分の名前も、なんにもわからないんだ」


「記憶、喪失……」


 そう繰り返しつつ、ハクは自身の口元に手を当てて何か考え始める。


「ま、いきなりこんなこと言われても信じられないだろうけど」


「私は信じるよ!」


 フランが立ち上がって、力強くそう言った。まるで先程までの疲労など消え去ってしまったかのようだ。


「命懸けで私のことを助けようとしてくれたんだもん。そんな相手を信じられないわけないよ」


「フラン……」


「僕も信じるよ」


 考え事が終わったのか、ハクが再び顔を二人の方に向ける。その表情は柔らかく、黒髪の少年に安心感をもたらしてくれた。


「とりあえず、僕と一緒に来ないかい? わけあって世界中を旅しているから、もしかしたら君の記憶の手掛かりも見つけられるかもしれない」


「いいのか?」


「乗りかかった船ってやつさ。フランちゃんも、家まで送っていこう」


「ありがとう! あと、フランでいいよ!」


「わかった。これからはそう呼ばせてもらうね」


「よし、それじゃあ早速……」


「ちょっと待って!」


 歩き出そうとした黒髪の少年を呼び止めたのは、フランだ。


「なんだよ?」


「覚えてないって言ったって、名前がなきゃ不便じゃない?」


「『あなた』とか『君』とかって呼んでんだし、それで良いんじゃねえの?」


「それじゃ親交が深められないでしょ!」


 黒髪の少年よりも、フランの方が彼の名前について真剣に考えているという奇妙な構図が生まれる。だが本当に、彼自身はそこまで不便だとは考えていなかった。


「まあ、僕たちとしては何かしらの呼称があった方がありがたいかな」


「そうか? うーん……」


「あ! じゃあ、『クロ』なんてどうかな?」


「クロ?」


「黒髪で、黒い服。眼は赤でちょっと惜しいけど、クロ、って感じするよ」


「他人の眼を惜しいとか言うんじゃねえよ失礼だろうが」


 フランの失言にすかさず、一息でツッコミを入れる。


「でも、クロか…… うん、しっくりくるかも。とりあえずはこれが俺の名前ってことで」


「よし、これからよろしくね、クロ!」


「よろしく、クロ君」


「呼び捨てで良いよ。二人とも、よろしくな!」


 雨上がり。夕日も届かぬ暗雲の下で、三人の旅は始まりを迎えた。

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