丸くて、やわくて、冷たい姉さん

大庭繭

丸くて、やわくて、冷たい姉さん

 無理やり捩じ込まれた舌は、ぬるくて、塩気のある味がした。背中に回された手のひらから男の体温があたしを侵すように広がってゆく。密着した身体から、煙草の煙とムスクの香りが混ざり合った独特の匂いがした。

「シャンパンおろすから」

 男は、いいよね?と口元に笑みを浮かべながら、またキスをした。

「ユミちゃん、愛してるよ」

 男の言葉は、シャンデリアのわざとらしいほどの白い光の中で、より嘘っぽく響いた。あたしは、甘えるように男の肩に触れながら「ありがとう」とにっこり笑う。

 真っ白なソファーとガラステーブルの置かれたVIPルームはどこもかしこも光が氾濫していてぜんぶニセモノみたい。仰々しい名前で呼ばれていても実際のところは、3,4人座ればいっぱいになってしまう程度のただの個室にすぎないのだから、仕方ないのかもしれないけれど。

 男の力が緩んだ隙にさりげなく身体を離して、外にいる黒服を呼んだ。あたしが耳打ちすると、黒服は小さく頷いて部屋を出て行った。あたしは、男のグラスに付いた水滴を拭いながら、冷えてゆく指先に姉さんの感触を思い出す。視界の端で、男の吐き出した煙草の煙が揺らめきながら、シャンデリアの光の中に消えてゆくのが見えた。

 しばらくして、金色のボトルを抱えた黒服があたしたちの前に跪く。顔に大仰な笑顔を貼り付けながら。「ありがとうございます!」という声と同時に、ポンッとコルクを引き抜く音が響いた。黒服は、あたしたちのグラスにシャンパンを注ぐと、風のように去っていった。

「ユミちゃん」

 男があたしの肩を抱き寄せて囁く。本当は、姉さんの名前。けれど、ここではあたしの名前。あたしは、男の腕の中でグラスに注がれたシャンパンを一息に飲み干した。金色のひかりが、あたしの中を照らすようにするすると流れてゆくのがわかる。テーブルに置かれたアイスペールの中で、ボトルに貼り付けられた金属製のスペードがゆるゆると揺れて見えた。

 あたしがグラスをテーブルに置くと、男はさらに強くあたしを抱き寄せた。革張りのソファがあたしのお尻の下で、ぎゅむと小さく鳴いた。男の胸は硬くて恐ろしいほど熱い。あたしは、姉さんのやわらかさが、冷たさが、泣き出したいほど恋しくなる。あたしが腕の中で「うれしい」と大袈裟にはしゃいでみせると、男は満足げに笑った。


 アフターの誘いをどうにか断って、あたしはドレス姿のままタクシーに飛び乗った。今夜の満月は特別にきれい。濃紺の空にまん丸の月が、濡れた水蜜桃のように光っている。姉さんはきっと月と同じくらい、はちきれんばかりに膨らんで、いっそう冷たく冴えわたっているに違いない。一刻も早く姉さんに触れたくて、あたしは自分の身体を強く抱きしめた。

 玄関でヒールをむしり取るように脱ぎ捨てると、そのまま寝室に飛び込む。寝室は、窓から差し込む月の光に満たされて、薄瑠璃色に染まっている。セミダブルのベッドの上に横たわる姉さんが、仄白い光を放つ。透明な水風船のように、はちはちに膨らんだ姉さん。あたしは、脱皮するみたいに、ドレスやストッキングや下着をするすると身体から引き剥がし、素裸になって、姉さんの上に倒れ込んだ。

 薄くつるつるとした膜があたしの皮膚に触れる。この世界のなによりも優しくやわらかな感触。あまりの心地よさに、小さく息を漏らす。膜の中に満ちる透明な液体はひんやりと冷たく、あたしの体重をやわらかく受け止めた。今にもはち切れそうなほど膨らんでいた姉さんは、あたしの身体をいとも容易く、すっぽりと包み込む。熱い素肌が姉さんの冷たさにとろとろと溶かされてゆくような感覚。あたしと姉さんの温度が混ざり合う前の、このひとときがいちばん気持ちいい。あたしは、目を閉じて姉さんの膜越しに聞こえる遠いさざ波のような音に耳を澄ませる。


 「あなたの姉さんは、わたしのなかでタマゴのまま消えてしまったのよ」

 母はあたしと手を繫いで、ふいに小さく歌うようにつぶやいた。あたしはそのとき、ちょうど4歳になったばかりだったと思う。晴れた日の夕暮れにふたりで、団地の裏手にある貯水槽の前でデイジーを摘んでいた。どうしてあたしたちがそんなことをしていたのかは忘れてしまったけれど、母と貯水槽の側に行くことも、花を摘むことも、もうそれきりだった気がする。あたしはなぜか、そのときの景色や感触をやけに鮮明に覚えている。貯水槽をぐるりと囲むフェンスの褪せた緑色とか、デイジーの薄く柔らかな白い花弁や繫いだ手のひらが互いの体温で次第にしっとりと湿ってゆくところとか。

 そのときは母の言葉の意味を理解していなかったけれど、あたしはなんだか重大な秘密を聞いてしまったような気がして、ずっと胸の奥底にしまっていた。それからだいぶ年月が経って、母の言葉を忘れかけそうになった頃、母と自分のお腹に透明なタマゴのようなものが見えるようになった。あたしは、母のそれがあたらしい命であることを直感的に悟った。けれど、あたし自身に宿ったものの正体は分からなかった。でも、不思議と怖くはなくて、あたしは母の真似をして自分のお腹を撫でたり、歌をうたってあげたりした。あたしのタマゴは母のと違って、時折ほのかに白く光った。それから約10ヶ月後の同じ日に、母は妹を産み、あたしはタマゴを産んで初潮を迎えた。

ゆるい楕円形の透き通ったタマゴは、あたしのお腹の中にいた時とまったく同じ姿で産まれてきた。まだ夜が明けはじめたばかりの頃で、部屋の中は真っ暗だった。あたしと母は1カ月前から祖母の家で生活していて、あたしたちはかつての母の部屋で寝起きしていた。母のいない部屋はやけに広く、どこまでも闇に飲み込まれてゆくみたいに思えた。雨戸の閉まった窓からは少しの光も漏れてこない。なのに、あたしが産んだタマゴは真っ暗な部屋の中で仄白く光っていた。両手にすっぽりと包んでしまえるほどの大きさだった。おそるおそる触れると意外に柔らかく、全体を覆う膜は、どこまでもあたしの指先を受け入れようとする。あたしはふいに、タマゴに向かって「姉さん」と呼びかけた。すると、タマゴがよりいっそう明るく光った。あたしは、かつての母の言葉を思い出しながら、タマゴに向かって何度も「姉さん」と呼びかけた。

姉さんの姿があたし以外の人間に見えないことは明らかだった。あたしは姉さんと片時も離れたくなくて、食事の際には自分のお茶碗の隣に置いたり、学校では机の引き出しに忍ばせたり、眠るときは枕元に置いたりした。けれど、誰もあたしの姉さんに気づかなかった。唯一、母だけは時折あたしのことを「ユミちゃん」と姉の名前と間違うようになった。間違えると、母自身も驚いたような顔をして、すぐに「ミユちゃん」とくしゃくしゃの顔をして言い直した。母があたしを「ユミちゃん」と間違えるたびに、姉さんはふくふくと大きくなっていった。

それ以来、あたしは姉さんをこの世界に留めるために生きている。姉さんの名前を使って、みんなに「ユミちゃん」と呼ばれながら仕事をして、きっと姉さんだったらそうしたであろう柔らかい微笑みを振りまく。夜の仕事を選んだのは、自分で自分に名前を付けられるし、できるかぎり長く姉さんの側にいられると思ったから。

時々、お店の女の子と喧嘩して「ユミちゃん最低」と怒鳴られる。たまに、男があつい素肌をあたしに押し付けながら、切羽詰まった声で「ユミちゃん愛してる」と囁く。そうやって、あたしが姉さんの名前で呼ばれ、姉さんとして人々の記憶に刻まれてゆくことで、姉さんはいっそう大きく、美しく成長し続ける。


 あたしは身体を起こして、寝室の窓を開けた。ぬるくてあまい夏の夜風があたしと姉さんを包み込む。あたしのかたちにうっすらと凹んだ上にまた横たわると、姉さんがちいさく震えた気がした。姉さんの表面は、あたしの体温が移ってほのかにあたたかい。あたしは、うつぶせになって両腕を広げ、姉さんをゆるく抱きしめた。もうとっくにあたしの両腕は姉さんをすべて包み込むことはできないのだけれど、ゆうべよりも、少しだけ姉さんに回した両手の間隔が広くなったような気がしてうれしい。姉さんがもっともっと大きくなって、あたしも、このマンションも、この街も、何もかもぜんぶ包み込んでくれたらいいのにと思う。

 月明かりに照らされた姉さんのなめらかな輪郭が淡くぼんやりと光っている。丸くて、やわくて、冷たい姉さん。水面に身体を沈めるように、あたしはゆっくりと姉さんの中におちてゆく。明日もきっと、姉さんが大きくなるように、こうしてずっと姉さんと一緒にいられるように、心の中で何度も何度も祈りながら。


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丸くて、やわくて、冷たい姉さん 大庭繭 @akegatano_hoshi

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