社畜の俺が帰る理由

@ishikuro

第1話

 モニターを睨む視界が白く霞んできた。

 俺は重力通りに下りようとする瞼を必死に食い止めて、数回目をしばたたかせ、びっしりと並ぶアルファベットに集中する。


(あと一行……これさえ、直せば……)


 キーボードを叩く手を止めて、一呼吸置いてからEnterボタンを押した。とたんに、モニター中央に正常起動を示す表示が現れる。


「…終わっ……たぁ――…」


 長く息を吐いて、椅子の背もたれに体を預けた。立ち上がる気力もなく、しばらくそのままで仰向けでぼんやりして……


「こんなことしてる場合じゃない!」


 意識が落ちかける寸前で起き上がる。腕時計を見ると朝の五時十二分。外は太陽が昇り始めてるようだが、明るい室内にいるとよくわからない。それでもどうにか約束の時間に間に合いそうで、俺はほっと息をついた。

 データを保存して書類や企画書で散らかった机に埋もれるパソコンを切る。完全に電源が落ちるまでに、ひょいと身を乗り出して、部屋の様子を見回した。


 ここは、厚木あつぎコーポレーション(株)のオフィスだ。

 厚木コーポレーションはシステムエンジニアの会社である。支社合わせると従業員は五十人を越える会社で、主に委託や共同という形でシステム開発をしていた。


 今、部屋の中にいるのは俺を含めて四人ほど。その誰もが机に座ってモニターを睨みつけ、神業の速さで指を動かして文字を打っている。徹夜明けのオフィスは、一種独特の鬼気が満ちていた。


 ともかくも、俺の納期が迫った急ぎの仕事が終了した。

 だが、早々に帰り支度をして机を立ったところで。


井瀬いぜさぁん……帰っちゃうんですかあぁ……?」


 机の向かい側、四つほど離れたところにいる男が、キーボードに突っ伏して涙声を出した。


「悪いな、佐竹。今日はこれから用事があるんだ」


 作業の終わらないらしい後輩に爽やかに声を掛けると、二つ年下の彼は降参、と両手を挙げた。


「助けてくださあああい……どこが原因でバグってるのか全く分かりません」


 涙も鼻水も垂れ流しの彼を見て、深く溜め息をつく。俺は胸ポケットから取り出した眼鏡を掛けて後輩の机に近づいた。


「あ~~~~……」


 横からマウスを預かり、画面一杯に表示されるプログラムを眺めながら、得心したような、溜め息のような声が出た。

 しばらくして全部見終わると、椅子から佐竹を追い払ってパソコンの前に陣取り、一文消して単語を書き直す。


「同じ単語が二十箇所くらい打ち間違えてる。どこかは自分で考えてくれ」


 平伏して感謝の言葉を述べる佐竹に背を向けて、腕時計に目をやった。今、五時三〇分。急いで帰ろうと、カバンを小脇に抱えたが睡眠不足で足元がおぼつかない。なにしろ、今日の約束のためにここ三日会社に泊まりこんで徹夜の連続だったのだ。


 髭も伸びてるし身体も臭うから約束の時間までにどうにかしなければならないが、何より家に帰って二時間ほど仮眠を取りたかった。でなければ、きっと歩きながら寝てしまう。


 不意に足を掴まれたのはその時だ。

 さしたる速さでは歩いていなかったので、つんのめる程度で踏みとどまったが、いきなりの事に心臓が跳ねあがった。はっとして足元を見ると、よれよれのゴミ袋のような同僚の八木が床に転がっていた。

 いつからそこにいたのだろう、シャツやネクタイや髪に埃がついていて、おどろおどろしい。


「リーダあぁぁあぁ。終わらんんん」


 佐竹とは違い、こちらは泣いていなかったが代わりに頬がそげて目だけが異様にギラギラ輝いていた。思わず顔を引きつらせた俺は、掴まれた足を振り払った。


「知るか! 俺はもう帰る!」

「そんな事言わずにいい…このままじゃ、絶対終わらねんすよ!!」


 寝転がったまま床を叩く八木を見て、彼の前にしゃがんだ。

 結構無茶な注文をしてくる会社も多く、作ったプログラムを渡す納期が近づくとこのように半狂乱になる者も少なくない。実のところ、この同僚に仕事を頼んだのは他ならぬ自分だった。


 元々はチームリーダーである俺の仕事だったのだが、それよりも急な仕事が入り、部下の八木に全面的任せたのである。しかも、お得意さんの注文プログラムである。納期までに出来なければ、これからの仕事に差し支える。

 どうにか彼を仕事に戻そうと、俺は子供に話しかけるように、優しく声をかけた。


「……どれくらい残ってるんだ?」

「あと、半分」


 こめかみが、ぴくっと引きつった。


「納期は……確か……」


 知らず、声が低くなる。聞かれて、八木は満面の笑みを浮かべた。


「五日後です」


 錯乱のあまり頭の上にお花畑が咲いている八木の胸倉を思わず掴んだ。


「―――だから、きっちり計画立てろって言っただろうがあぁあぁ!!!!!」

「うおぉわぁあすみませえぇぇぇんんんん!」

「確か仕事渡した時点でまだ余裕あったよな? 今まで何してやがった!?」

「ま、……前の仕事のミスが見つかって、そっち手直ししてました……っ」

「そういうことは、もっと、早く、言え!!」


 納品までのスケジュールを頭の中で立てて、眩暈がした。とんでもない強行軍になることは間違いない。

 もういっそのこと、こいつも仕事も全て捨てて帰ろうかという考えが過ぎるが首を振って追い出した。八木の胸倉を掴んだままずるずると彼を引きずって、机に座らせる。


「俺も……手伝うから、とにかく手を、動かせ……っ!!」

「リーダー……ちょっ、俺、吐きそう……」


 彼も徹夜明けなので、揺さぶる攻撃が結構効いてしまったらしい。

 だが、そんな苦情を聞いている暇はない。机の上の書類をひったくって、現在の進行状況を確認した。






「で、手伝ってるわけね」


 九時。家に帰って睡眠をとってきた社員が続々出社してくる時間である。爽やかに挨拶を交わす中、黙々とパソコンに向かっていた俺のところに、松川がやってきた。

 髪の毛一本も取りこぼさずきっちりと髪を結った、眼鏡をかけた女性である。チームでは唯一の女性だ。

 一部始終を佐竹に聞いた彼女の言葉に、俺は手を休めることなくああ、と呟いた。


「リーダーは大変ね」

「よかったらいつでも替わってやるよ」


 率直な感想に、希望も絶望もこめずに心からの答えを返す。そんな俺を見下ろして、松川は眼鏡の奥の目をきらりと光らせた。


「……もしかしてぇ、用事って千歳ちとせちゃん関係?」


 その言葉が聞こえないふりをして、キーボードを叩き続ける。


「無視しないでよ。叔・父・さん」


 嬉しそうに松川が俺の肩に手を置く。そこでようやくキーボードから手を離して、俺は彼女をにらみ付けた。

 元々釣り目の無愛想な顔なので、睨まれるとさらに凄みが増すはずだが、そんな様子にも動じずに松川はにっこり笑った。


「あら図星。そりゃあ、待ち合わせに遅れるわけにはいかないわよね」

「松川さん、千歳ちゃんて誰っすか?」


 プログラムの修正が一段落したらしい佐竹が声をかけてきた。最近転勤してきたばかりの彼の方を見て、松川女史は俺の頭をわしゃわしゃと掻いた。


「こいつの姪っ子。 こ~んな目つきの悪い男の家系とは思えないくらい可愛いコなのよう。黒髪ロングで、背もちっちゃくてねぇ。ぱっちりしたお目々と相まって、なんかハムスターみたいなね。ちなみに現役女子高生」

「へええ、高校生! いいなあ、今度紹か……げふうっ」


 なぜだか夢見がちな顔になり、にこやかにのたまった佐竹に、俺は机に置いていたコーヒーカップを無言で投げつけた。高速で飛んできたコップが見事に額に当たり、佐竹は椅子ごとひっくり返る。


 彼の机の近くに座っている者は、そのコップの姿を見て悲鳴を上げながら咄嗟に自分のパソコンを抱きしめた。


「殺すぞ」


 それでなくとも徹夜明けと、仕事の手伝いで機嫌が悪い。必要最小限の言葉を投げかけて作業に戻ると、にぎやかなオフィスは一瞬にして沈黙に包まれた。

 パソコンから体を離した数人の溜め息がやけに大きく響く。


「――で、どうするのよ? 千歳ちゃんに断りの電話入れるの?」


 唯一、何の躊躇もなく話しかける松川の言葉に、俺は伸びをして凝った肩を揉み解した。


「どうせこの資料が家においてあるから。ちょっと取ってくるついでに、どうにかする」

「な~んだ、つまらない」


 鼻で笑った松川は、そのまますたすたと自分のデスクへ戻ってしまった。

何がつまらないのだろうか、こんなに人が必死だというのに。だが、彼女の暇つぶしに付き合っている場合ではない。

 俺はまたパソコンに向かって、キーボードに指を滑らせた。






 目を覚ましたとき、初めに自分がどこにいるのかわからなかった。


 もう一度眠りたいと全力で訴える身体に鞭打って、仰向けに横たわったまま腕時計を目の前にかざして―――ギョッと目を剥いた。時計の短針はすでに午後四時を回っている。


「しまっ……」

 顔を青ざめて飛び起きる。一瞬で眠気など消え失せた。


 区切りが付いたところで一度引き揚げてアパートに帰ってきたものの、どうやらそのままソファに倒れこんで眠ってしまったらしい。

 立ち上がろうとして、ふと掛けてあった布団に気が付いた。春近いとは言え、まだ薄ら寒い室温にはありがたいが、こんな気の利いたものを用意して眠るほどの意識はなかったはずだ。

 誰が、などという疑問は顔を上げたら解決した。


 ベージュ色の生地に濃い緑の糸で刺繍の施されたワンピースを着た姪っ子が、仁王立ちで立っていた。肩をいからせてこちらを見る彼女の手には、包丁が握られている。


「――っ叔父さんのバカぁぁぁ!! 私、待ち合わせ場所で二時間も待ったんだからね!!!」

 

 おう、と汗をかきながら片手を上げると、彼の姪の千歳は悔しそうに地団駄を踏んだ。


「いくら携帯かけても出ないし、なにかあったのかと心配して来てみたら叔父さん寝てるし、洗濯物からゴキブリ出てくるし、台所洗ってない食器だらけだしっ………もうサイテー!!」

「すみません」


 謝る以外に言葉は思い浮かばなかった。

 それにしても、あの洗濯物の山とか、ハエがわいてたであろうシンクとか、この可愛い姪に見られてしまったのは、不覚だった。いつもならもう少し綺麗にするところなのだが。

 休日出勤に泊まり込み。あいにくと、ここしばらく会社に住んでいた俺に、家事をする時間などなかった。

 両膝をついて素直に頭を垂れた状態に幾分溜飲が下がったのか、姪の千歳はどこからか発掘したエプロンを外しながら、頬を膨らませて言った。


「……今日は絶対、付き合ってって言ったのに」

「悪かった。今からでも……」

「もう買ってきました。一人で」


 一人、を強調しながら、千歳が部屋の隅に鞄とともに置かれた袋に視線を向ける。

 一人娘を置いて旅行に行っている両親への、結婚記念日のプレゼント。どんなものがいいかと相談されて、一緒に買いに行くはずだったもの。

 どう取り繕っても遅い事を思い知らされて、俺は手で顔を覆って呻いた。


「二度と叔父さんには頼らないって心に決めたので。じゃ、私帰る」


 踵を返して、流し台で包丁を洗って水切り台に放り込むと、彼女は上着と鞄を引っつかんだ。そのまま足早に玄関の戸を開ける。


 まだソファの上にいる俺にべーっと舌を出して、去って行った。


 嵐のように吹くだけ吹いていなくなった姪に、溜め息をついて立ち上がる。

 心なしか掃除された部屋と畳まれた洗濯物に、あいつマメだなと呟いて、台所へと足を運んだ。

 思った通り綺麗に磨かれたシンクに、さらに罪悪感を感じたところで弱火にかけられてコトコトと音を立てる鍋を発見した。


 蓋を開けると、中には美味しそうなシチューがあった。言わずもがな、不甲斐ない叔父が寝ている間に作ってくれたものだろう。


「……」


 大人として、いや人間として真面目にへこんだ。何で眠ってしまったのか、数時間前の自分が腹立たしくて、眉間を揉む。


(……お詫びを兼ねて、今度何かお礼しないと……)


 温かい手料理などいつから食べていないだろう。姪っ子からのお恵みを、有り難く受け取る事にした。


 これを食べたらまた会社に行かなくてはならない。

 けれど、彼女のご機嫌をどうやって取ろうか、食べてる間くらいは仕事を忘れて考えた方がよさそうだ。

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