かなうまでは祈るんじゃない

桐谷佑弥

かなうまでは祈るんじゃない

・遠山技師の日報


 本日も異常ない。この仕事が続くうちは、日々になにか新鮮さを見出す方がかえって難しいとさえ思う。変化といえば、私がここでの暮らしに慣れきって、以前の生活がまるで遥かな昔のことみたいにしか思い出されなくなったのくらい。来たばかりの頃は、そうではなかったはずだから。


 じゃお前も、大真面目に月の死骸を観測してたっていうんだ。代わり映えしない顔色の悪い連中と、味気ない固定メニューの食事をとってきて、殺風景な砂漠を横目に、いつもいつも同じ話を繰り返すってわけ。


 そういう言い方もできるけれど。私は結構気に入ってる。そうだ、こうやってお話しするのはちょっとした特別だ。今日はそれで、仕事をかなり早く切り上げてきたし、おやつ用のビスケットまで用意したんだった。うんとくどくて甘いバタースコッチ風味、たまにしか買えないメニュー。


 知ってる。糖類依存の同僚がいつも入荷日に買い占めるって話も。ペットの挿し木の家系図の更新と、なにを鉢の代用に使うだとか、いまの運搬ドローンのあだ名の由来だとか、そういうのもとっくに聞き飽きた。


 おや、そうか。記憶力が良い。そんな話も、もうしたことがあったの。それともあんまり刺激のない毎日が続くものだから、私が忘れっぽくなっているのか。考えてみればもう随分と長いこと、話題が数え切れるほどしかないものね。

 そろそろ、そっちの話を聞かせて。




『衛星通信』


 エムちゃん、おねえちゃんにお話、聞かせてくれてありがとう。私はどんな気持ちでも尊重したいと思う、たとえそれが間違いだって大事にされるべきだと言うよ。でも自分をあまり責めないでほしいな。エムちゃんは悪くない。

 月が落ちたのは、エムちゃんのせいなんかじゃない。


 それ同情のつもりで言ってんの。マニュアルに頼んでいいひとをやるって気なら、ただの嫌な大人のすることだし、本気でそう思って言ってるんだったら、誰か別のやつと話が混ざってるんじゃないか。やっぱり、お前はエムの言ってることが永遠にわからないんだ。


 そうだね、わからない。ごめんね。私はもう大人だから、ちゃんとエムちゃんの助けになれるようにしたい。お話を聞くことならできるけれど、もし他にしてほしいことがあるのだったら、言葉でわかるように言って。おねえちゃんが一緒に考えてあげる。


 いいよ。お前に期待なんかしないもん。


 ところで、今更咎める気もないけれど、世間一般に照らして、ひとのことを、お前呼ばわりするのはお行儀が良いとは言えないな。私とエムちゃんは仲良しだけど、私の方がそれなりに年上でしょう。


 そんなにおばさんって呼ばれたいわけ。エムは絶対に嫌だ。




・まあい


 いま思いついたのだけど。地球に置いてきたなかに、気に入っていたブラウスがある。あれ、あげたいな。クロゼットの場所はわかるでしょう。


 さあね。いま見えてるカーテンと天井以外のことは、なにも。本物のクロゼットの中だってとっくにわかりゃしないのに。


 そう、じゃ、ママにことづけておこう。みつけたら着てみせてあげて。きっと驚くから。エムちゃん、最近ますます私にそっくりになってきたよ。顔も、からだつきも。そのうち、黙ってさえいたら、双子よりも見分けがつかなくなりそうだ。血縁者といっても、普通、こんなに似ないじゃない。


 血縁者って。じゃあ相変わらずそういう設定を通すつもりなんだ。お前、全然おかしいと思わないの、同じ顔の、遠山笑(トオヤマエム)が2人、こうやって話してる状況。だのに今晩も、お前は私なんだって信じることはないんだ。


 面白い言い方をするね。考えてもみなかった。でも、自分自身との通話だなんて、そのほうが説明のつかないできごとだと思う。たしかに、よくある名前でもないのに親戚で同姓同名だなんて変わっている。でもどうしたって、私はエムちゃんとは別人だ。

 エムちゃんが小さかったときの話も、いつかしたいなって考えることがある。


 勝手にすればいいじゃん。どうせエムに都合のいい作り話なんだから。




・机の上


 だいたいいつも私は整合性という指標をあてにする。正直なところ、それによってのみ、地球での全ては夢ではなかったと思える。もちろん月だって。月こそ、動かしようのない現実だ。でも私がそうだというだけで、エムちゃんに覚めてほしいとまでは思わない。


 知ってるよ。お前、エンジニアだってことだけど、月が落ちるなんて現実では到底ありえないのが、まだわからないの。悪いことに、私の正気でさえ薄々勘づいて来てるってのに。そのうち生身で空を飛んだって、不思議に思わなくなるかもな。


 そんなことを言われても。現に私は、毎日まいにち地球に落ちた月の地表を踏みしめながら仕事をしているのだから。足元の事実を認めない振る舞いこそ、地に足のつかないことだ。


 毎日まいにちか、そりゃいい。身動きできないほど踏み固めてやったら、そのうち本当にそうしてやれるかもしれないんだ。

 ねえ、手元にコンピューターあるんだろ。調べてほしいことを思いついた。


 別にかまわないけれど。唐突だな、お茶のお代わりを持ってくるまで待っててくれる。ようやく好い濃さになった頃合いだから。


 待つのは得意。今晩のうちに、これから言うことを教えて。一般常識の範囲か、政府の公表データでもいい。なるべく覚えておきたいんだ。

 月が落ちて、人類は滅びたのか。案外そうでもないことになっているが、結局何人ひとが死んだか、町の被害状況はどの程度、直後の物流の混乱、復興の過程、国勢変化。どれだけの動植物の絶滅に関与して、社会がそちらに慣れていったか、いまの人類史観はどういうことになっているのか。なにせ、月が落ちたんだ。異常気象や地殻変動はどうなっている、潮汐は、重力の扱いは、地球の軌道に影響はないのか。




・そせい


 おねえちゃんね、エムちゃんとずっと仲良しでいて、楽しくお話ができればいい。全然、知らない仲でもないでしょう。悲しいときほど強がってみせる癖を知っている。でも本当にそれだけだろうか。たまに私は本当にエムちゃんを知っているのかわからなくなる。だって、エムちゃんが本当に悪ふざけでおねえちゃんのこと困らせているのでないって確証さえ得られはしない。

 ね、エムちゃん小さい頃から、お話が上手だったじゃない。


 エムにできることは、お前だってできるんじゃないのか。お前は私なんだから。本当はエムの言ってること全部わかっているのに、わざと設定どおりに振る舞っているんじゃないかって思うときある。だとして、なんのつもりか、知りたくもない。


 そうだね、現実のことも、ある種の設定と呼べるかもしれない。おねえちゃんとエムちゃんでは見えている設定が違うんだ。事実を飲み込むのに、それ相応の大きな物語が必要なこともあると、私はもう知っている。


 物語。これがお前の言いたがってるものなら、まだましだったと思う。いつかはオチがついて終わるってことだから。これはエムの夢なんだから、お話よりもっと悪いんだよ。

 お前もエムのくせに、やっぱり夢の中のつくりもので、でもお前にとってはこれだけが現実ってことなんだろ。ああ、結局どっちだって同じことかもしれない。

 なにがおかしい。


 ごめん、笑うつもりはなかった。おねえちゃんびっくりしちゃって。君は、そんなことを考えていたの。エムちゃんが、私と同じひとだっていうのも、あながち間違いじゃないのかもしれない。おねえちゃん、生まれてからずっと変わらず私だったし、意識があって、エムちゃんとは別人だ。そう言っても証明にはならないものね。


 エムがしてるのはたとえばなしじゃない。お前が信じてるものも信じてないものも、ぜんぶ嘘なんだ。


 ねえ、エムちゃんはこれが夢だっていうけれど、じゃあ夢で私がおねえちゃんだと信じられるか、と聞かれたら。君は、私に自我を想定しているのか、それとも私は君を反射したただの影絵か。もしも、本当の設定ではお喋りエーアイが合成音声で答えていたのだとしても、変わらずに通話の相手を自分自身だと言うの。私たちはちょうどいま、音声だけで、あるいは映像つきで、たまに文章でも会話している。

 私たちには血肉も意識もあるのに、互いでさえそれがわからない。いつかログだけをみた誰かを想定したとき、記号だけになった私は自動生成テキストじゃないって証明できるだろうか。




・窓の外


 私は天気予報を気にしなくなって久しいけれど、君もそうだとは思っていなかった。たまにカーテンを開けた方が良い。それで、なにが見えるか教えて。嫌だったら、空想の話でもなんだっていい。


 カーテンは開けない。星も夜景も臨む毎に綺麗な見た目に映るだろうさ。記憶から増えたり減ったりしたってわかりゃしない。いつの間にか高輝度に作り変えられていた街灯、常にわざとそれを忘れ去られてる。けど、エムだって、あれらは見ていないときは実在しないとまでは思っちゃいないんだ。夢でさ、凝視していないと逃げてしまう書架の文字や砂粒の数があって、夢だから仕方ないけれど、ただしくは、そのときに実在性が揺らいでいるのは観測者の方だ。そうともさ。エムは間違いがなくなるまで、目を瞑って測量をする。


 じゅうぶんだ。星を数え上げるのは私たちのだれかの仕事で、エムちゃんくらいの頃は、聞き伝ての星座を飼っておくくらいがいい。私はいつかに備えるとするよ、外の景色がエムちゃんの無意識の生成物じゃないと、証明してあげられる日を迎えるよう。


 お話でなら、もうお前の窓の方がよく知ってる。プラスチックがはめごろしになった丸窓の外は、絵みたいな白茶と暗灰色でざらざらした砂漠が広がってる。あと、いつも宇宙がみえる。こっちから見えない南の方のやつ。エムの知らない星座も、お前があると言った場所に整列してるんだ。

 窓以外も知ってる。そっちの床材は底冷えしないかわりに、サンダルだと表面がべたつくだとか、天井にはタイル柄の幾何学図形が端から端まで続いているだとか、挿し木の新芽がいくつついただとか、いつも買うミックスナッツの具の比率が気に食わないこととか。でもお前の同僚は何人いるのかもよくわからないし、顔を知らない。

 顔、お前が私とおんなじ顔なのは知ってる。うまくは思い浮かべられない。ねえ、ビデオを繋ぎたいって思ったことあるか。お互いに、存在を確定させるために。なんだか、それはできない気がするんだ。お前がこどもの頃から、日記をつけないのと同じさ。エム、お前がサンダルの底をこする癖も、手慰みに腕時計をひっかくのも、手入れしかけては荒れる爪先がいびつなのも、いま握ってるコーヒーマグのぬるい感触まで現実のことみたいに想像できるのに。どんな顔して話してるかわからない。




・とうしゃ


 おねえちゃん、今夜こそはエムちゃんをびっくりさせるようなこと、言ってみたくなった。でも無理なのかもしれない。毎日の仕事は好きだけれど、退屈でないと言えば噓になる。月は灰色で、静かで、今日も、昨日や明日と同じ顔で暮らしていたのだろう。肝心の会話のネタは当分増えそうもない。


 増えやしないよ。今日が終わったら、次の今日が始まるようにできてるんだから。覚えてないだけで。お前、何回だって同じ話ばかり繰り返してるんだ。


 まさか。仮に、毎日私が記憶喪失になっていて、エムちゃんは覚えていて、それが繰り返されていることにすると、私が覚えている昨日と今日が繋がっていることや、いまのエムちゃんが、私が知っている昨日より前のエムちゃんと変わらなく見えることが嘘みたいになる。


 どうせ全部がぜんぶ嘘なんだよ。ここには今日しかない。記憶喪失でもタイムリープでもなくて、いまエムが思ったことの内側それぞれにお前がいるんじゃないの。別々のお前がそれぞれ昨日や明日があるって思いこんでて、外から見たお前たちはいつも同じときに同じことを言うんだ。

 別のお前は、エムの通話の相手はAIかもしれないだとか、お前がエムの夢なんじゃなくて、エムがお前の想像なんだとか言ったよ。エムがその今日と同じこと言えば、お前はまた同じ話をする。


 もしそうだとするなら、なんとかしてエムちゃんだけが覚えている会話の内容を知れたらいいのに。そうすれば、もっと楽しい会話の相手ができる。でも駄目だな、別の私を何人やり直したとして、たしかにいまと全く変わらないことを思い、それがまるで決め事であるかのように振る舞うだろう。




・壁の中


 エムがなんでわざわざお前と話したがるのか、知らないでしょ。本当のところ、ずっとこの部屋にいるんだ、すごく長いことずっと。ひとりでできる遊びなんてとうにやりつくして、お前相手にひとりごとをいうしかなくなっちゃった。壁相手よりかはずっとましだもん。

 壁とお前だけあるんだ。それ以外はもう残ってない。月を落としたことしか。そのためだけに見た夢に、ほかに、できることなんかない。

 部屋の外、本当はお前すらいなくて、全部エムの幻覚だったらって考えてる。夢なんだから、どっちにしろ全部私なのに。自分の夢じゃ妄想は区別されやしないはず、私はシラフだったよ、始めから終わりまで、もしそんなものがあるとすればさ。


 エムちゃんは、思いもよらないことを言うからびっくりする。もし本当に私がエムちゃんの夢だとすると、エムちゃんはおねえちゃんがこういうことを言いそうだって思っていることになるね。

 いまは月のことしかわからないけれど、あれの後に、地球でみんながなんとか暮らしていったのを私は知っている。だから大丈夫、部屋の外におねえちゃんもみんなもいる。いつかプロジェクトが終わったら、会いに行こうと思ってる。そうしたら、本当に話そう。

 今度こそ、部屋の中に入れてくれるね。私白状すると、通話相手のエムちゃんは本当は頭の中にいて、私に都合のいい言葉ばかり話すのだと、どこかで思っていたんだ。


 夢の中で、もうひとりの自分だってことになっているやつに、架空の友達にされてたって言われるとまでは、たぶんはじめは思ってなかった。そういう、つじつま合わせが起きるのはわかるけど、ちょっと面食らう。それで、そのエムがお前の空想だったなら、お前の中でそいつの言ったことはお前の思いついたことなんだ。




・よるべ


 あの当時を、君は覚えていないのなら今更なにを知りたがる必要があるのだろうと思うよ。あいまいなままの方が良いこともある。わからないで苦悩することよりも、意識を二度とそれから切り離せなくなる悲劇性の方を、より避けるべき事態だと思う。


 忘れたんじゃなくて、ここにはまだないから私が作り直さなきゃいけないんだ。

はじめに願ったことの責任だ。エムは信じてやらなきゃ、落ちてきた月にだって悪いじゃないか。


 当時十にもなっていなかった君に、なんの責任があったっていうのか。たとえ誰がなんと言っても、相手は自然に起きたものだ。


 大事なのはエムが月を落としたってことだけで、それはもう起きた。でもまだ足りない。現実にしてやらないといけない。


 そうか。

 ある意味においては、私にとっての現実は月だけだ。もう地球での出来事を、自分のことのようには思い出せない。

 あれを認めた私と、認められない私は、どちらか一方でしかいられないのだと思う。月が落ちたとき私、ちょうどいまのエムちゃんくらいで、その時期の記憶は完全じゃない。他のことは全部わかるのに。あれをいまだに、気持ちの上では受け入れられていないって、理解している。それでこの仕事に就いたのだったかもしれない。ことに記憶の世界において、遠のくものに、ましてや意図して遠ざけられたものに固執するべきではない。月を落としたと主張する君が、同時に夢だというのなら、それは信じていることにならないでしょう。




・夢のみかた


 エムがどうして月を落としたのか、お前にはわかんないんだ。だってお前もエムの夢だもん。

 教えてやろうか、あの子に世界を壊してやる必要ができたからだ。でもエムは、エムがどれだけ憎んでも、地球が爆発したりなんかするもんか。壊してやらなきゃいけなかったのに。どうしたっていいから、エムはそれをやり遂げると決めたのに。ひとりでやるんだ。でも空も地面も大きすぎた。町ひとつだって呑めやしないし、あのひとたちはそうしてる間も知らん顔で行き交ってる。

 エムには時間が欲しい。かなうまで続けるための。それで夢のみかたを覚えることにした。エムがエムになれたら、エムが変わらなければいいんだ、だから世界の一つひとつをかき消した、もう二度と邪魔されることのないように、それで世界は薄めて、エムは消えないだけの憎悪を焼き付けた、それだけあれば二度となにも迷わないくらいまぶしい気持ち、何度でも何度だってひとつ閃きの間だけめぐらす、エムの意思も無意識もが全部その光になるほど、速く、強く。ほかのすべてを忘れ、エムの輪郭だけがたしかになるほど、その光を焚いた頃、ようやく時間が消え始めた。時間はほかのザコみたいには消せないで、後のほうまで残っていたんだ。エムはひとりで、踊っていたのか走っていたのか、それとも眠っていたのかわからなくなった。時間が消えたからだ。ついに夢にかなった。でも、あてもなくして今更だれを呪えばいい。憎い地球はかろうじて床という名前でその痕跡をとどめていた。でもあいつはもうエムの敵じゃなかった。

 エムのほかはいない夢で、私はふと月のことを思い出した。白くて冷たいあれは、いつもエムに優しかったから。時間のいない夢で、月は、唯一の壊れていないものだったから、遮るすべてを焼き切っていまや星に成り代わった私の意思、それを一身に注がれるあてになった。月だけはやっぱり優しくて、落ちろと思い続けているうちに落ちていた。落ちたところが海になって、陸ができて、私は部屋でひとりだった。




・いたるところ


 夢と現実は明確に違うものだと、決め事の上ではまぎれもなくそうで、君でさえ従っている。でも、起きうる事象の全てが私にとって現実で、起きたことのうち、都合に選ばれなかったなにかが夢に割り振られていったのを知っている、そんな感覚が残っている。


 じゃ夢でもみてるんだ。現実はそんな、都合よくなんてない。それで、お前が夢にしたものどもはどこへ行ったっていうのか。消えてなくなるわけじゃないんだろう。お前はエムに夢の話をしたことなかった。寝ないか見ないか忘れてるんだって思ってた。


 いや、たとえばなしなんだ。理屈通りなら、二択でなんて迷うことは起こらない。いつでも私は現実を信用する、信じようと信じまいと変わらずにあるものを。


 お前はたまたまお前があてにしているものを現実と呼んで、変わらないことにしたいだけだ。ここは夢だから、信じれば本当になるのに、その違いがわからないんだよ。


 そう、そして私の現実はいつだって、なぜか私に都合が良い。私は私に都合の良い現実の中にいる。もしもいつか、成り行きの全てに裏切られる日がくれば、なにを信じるだろう。あるいはなにも変わらないのかもしれない。私はいま結局死んだ月の上で暮らしているのだから。目で見える全て、変わらないこと、動かせないもの、それらを認めることは間違いだったろうか。もしもいつか、私が私のたしかさをなくして、なにも信じられなくなったなら、そのときは月に祈るしかないだろう。


 ほかにあてがあったなら、エムここにいないよ。




・現にかなう


 望みが叶い、満ち足りた日々にいる、記憶の限り、私はいつでもそのようにある。私がなりたいものになってしまって、他の私はなにをしているのだろうと思うことがある。何人の私が、いくつの未来を望めば、私と同じものを見るだろう。こどもが夢に描くように、その絵のままに暮らせたらと、誰しもが考えるかもしれない。無数に存在したとされる可能性から、たった一つを選ぶ。選ばなければ、現実を得られないのなら。しかし、うまくやりさえすれば、得た一つは望みのものになるとすれば。あるいは見るのは望むべくもなかった景色かもしれない。だからそのように欲しいものを得た。

 知っているか、絶対に夢が叶うやりかたがあるんだ。かなうまで願わなければいい。

 漠然と、散漫に、緩やかに日々を下る間に思うことは、どこかひとところへ向かうとだけ。迷うまい、引き返すまい、止まるまいと。そのように昼夜を数え、いつか月にいた私は、はじめてそれが私の願いだと知り、こどもの頃の夢を描いた。だから、月の他に願ったことはなにもないのだ。進むために努めてそのようにあった。振り返れば、私は投げ続けるコインの表を常に信じていたようだ。だから思うに、どこか遠いところには、コインの裏だけを信じた私が等しくたしかに存在しうるのだ。私がなりたいものになってしまって、そのひともそうあればいいと思う。それがたとえどんな願いであっても。

 私はたぶん、本当は夢をみたことがない。




・遠山技師の辞去


 随分長いこと話していたみたいだ。今夜はもう寝た方がいい、お互いに。


 それはそう。次にまた繋いでもこうなると思う。


 エムちゃんがそれで良いのなら。


 いいさ。いつか本当に月を落とせたら、きっと話すこともなくなるだろうから。それまでにはあんまり時間がかかるから、暇が潰せてよかったって思ってる。


 ごめんね。私はもうしばらく月にいる。いつまでかはわからない。


 だろうな。お前でも私でも、だいたい同じことだからいいんだ。


 私は君ではないし、君が私になることもないのだろうと思う、残念だけれど。だっておねえちゃん、いままで、ただの1度も月に落ちてほしいだなんて思ったことがないもの。


 知ってるさ。


 じゃあ、今日はそろそろ切るね。おやすみなさいエムちゃん、良い夢を。

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