天和二年 春  西方寺

 冬花が酒井家の屋敷を出ると、声がかけられた。

 懐かしい声に振り向くと、そこには彼女が愛した男がいつものように待っていた。


「よお。冬花。元気そうだな」

「……半兵衛。あんたもう少し気の利いた言葉はなかったのかい?」


 少し呆れながら言う冬花に、半兵衛はあいまいに笑うが、その笑顔はどこか晴れやかだった。

 春の空は澄み渡り、江戸の人々は新しい将軍の治世でもいつものように暮らす。

 そんな中を、半兵衛と冬花は連れ添って歩き始めた。


「正直、待っているとは思わなかった。

 女作ってねんごろになっていると思っていたわ」


「お前なあ……俺だって、ちゃんと仕事はしているぞ?

 今じゃ、そこそこの簪職人として長屋暮らしだ」

「本当かねえ? あんたは、ふらふらしている方が性に合っていると思うけど」

「そりゃ、買いかぶりすぎだ。俺だって、少しは浪人らしくなったんだよ」


 半兵衛の言葉に、冬花はくすりと笑う。

 改めてみると、たしかに今の半兵衛は吉原に居た時よりも浪人らしく見える。

 それは腰に差した妙に立派な刀のせいだろうか。

 そんな事を考えながら冬花は半兵衛の言葉に引っかかりを覚えて、それを口に出す。


「長屋暮らしって、吉原を出たの?」

「ああ。今は霊岸島の旦那の所で世話になっている。

 『蓬莱楼』もなくなったしな」

「酒井様もお亡くなりになって、ご嫡男様がご逼塞なされたし。

 そっちも色々あったのね」


 病に臥せっていた徳川家綱が亡くなり、徳川綱吉が五代将軍となった結果、酒井忠清は大老職を解任。

 そのまま隠居した後、病にてあっさりと世を去った。

 新将軍徳川綱吉によって大老に抜擢されたのが堀田正俊であり、酒井派の粛正が始まる。

 高田藩を巡る越後騒動は将軍決裁によって小栗美作が切腹。荻田本繁が遠島の上に、高田藩そのものがお取り潰しという苛烈なものになり、酒井忠清の跡を継いだ酒井忠挙が逼塞。酒井忠清の弟、酒井忠能の治める駿河国田中藩は改易に。一族が嫁に行った縁で酒井忠清が騒動を鎮静化させようとしていた沼田藩も改易となった。

 半兵衛が関わった仙台藩だが、高田藩の取り潰しを見た豪商河村十右衛門がかなり奔走した事を半兵衛は知っていた。

 彼の尽力もあってか、仙台藩は未だ藩を維持していた。


「もし、お満流の方のお子が生まれ……」


 冬花の回想を半兵衛は彼女の手を握って止める。

 今は新将軍徳川綱吉と大老堀田正俊の天下なのである。

 尼となって江戸城を去ったお満流の方の事は往来で話すには物騒過ぎた。

 二人の足は自然と吉原の方に向かう。

 今の二人には吉原に帰る場所は無いが、それでも二人にとっては故郷みたいなものだった。

 華やかな夜とは比べ物にならない昼の吉原を眺めた二人は、近くにある西方寺に出向く。

 入り口に籠と侍がたむろしており、誰か高貴な身の人間が墓参りに来ているのだろう。


「もし。お侍様。

 墓参りに来た者なのですが、何方様かこちらにいらしているので?」


 半兵衛の言葉に籠の警護についていた侍が返事をする。

 その相手を半兵衛が考えなかったと言えば嘘になる。


「ああ。下総国古河藩の堀田備中守様がいらしておってな。

 かつての剣術指南役の墓参りに来ているとかで」



 冬花をお堂に待たせて、半兵衛は墓の方に出向く。

 古河藩の侍にかつて預かった酒井家の印籠を見せて取次を頼むと、敵意と敬意まじりに道を開けてくれたのである。

 ここに眠っている石川新右衛門を討ったのが半兵衛であり、ここに彼を眠らせたのもまた半兵衛なのだから。

 石川新右衛門の墓の前で大老堀田正俊は手を合わせたままだった。

 半兵衛は後ろに控えて、彼の邪魔をしないようにする。


「まず先に礼を言おう。

 石川新右衛門を弔ってくれて。

 石川新右衛門は将軍様も気にしておられてな」

「いえ。討たれていたら、入っていたのは俺でした」

「その時は、酒井様もこうして墓に参っていただろう」


 堀田正俊が半兵衛に向き直る。

 その視線を受けて、半兵衛も静かにうなずいた。

 しばらく無言の時が続き、口を開いたのは堀田正俊だった。


「今は何をしておる?」

「河村十右衛門の旦那の所で簪職人を。

 とはいえ、この印籠がある限り、心は厩橋藩食客にて」


 今の酒井家には半兵衛の事を気にする余裕はない。

 彼の持つ印籠の事すら覚えていないか、忘れているかで、実質的には浪人でしかないが、それでも半兵衛の声と顔は一端の侍に堀田正俊には見えた。


「そなたも石川新右衛門と同じことを言うのだな」

「石川のだ……新右衛門とですか?」


 半兵衛の言葉に堀田正俊は苦笑する。

 次期将軍を巡る争いは徳川綱吉を擁した堀田正俊の側にかなり分があり、その下で剣術指南役をしていた石川新右衛門をしかるべき地位にと徳川綱吉自身が望んだという。

 その話に石川新右衛門はこう答えて断ったという。


「それがしは所詮剣を振るしか能のない身ゆえ。

 何より、それがしの剣では天下を斬れませぬ」


 堀田正俊の言葉に半兵衛も苦笑する。

 あまりにも彼らしかったからだ。


「やはり、似たもの同士よの。

 それで、これからどうするのだ? 貴殿のような腕前なら、仕官の道もあろう」

「私は、もう武士ではございませんので。

 それに、私が仕えるべき主はもう決まっております故」


 半兵衛はそう言って、頭を下げる。

 その言葉に堀田正俊はしばらく黙っていたが、やがて一言だけつぶやいた。


「酒井様も良い臣を持たれた」


 そのまま、彼は供を連れて墓から去っていった。

 一人になった半兵衛は墓石に向かって語りかける。


「なあ、石川の旦那。

 あんたの仕えた主君。

 酒井様に負けず劣らすいい主君だな」


『そうだろう』


 そんな声と誇らしく笑っている石川新右衛門が半兵衛には見えた気がした。



 それからしばらくして、冬花が待っているお堂に戻る。

 本堂の前の石段に座り込んでいた彼女は、半兵衛の姿を見つけると立ち上がった。

 そして、何も言わず、ただ半兵衛の胸に顔を埋めた。

 半兵衛も何も言わずに、彼女を抱きしめる。

 彼女の温もりを感じながら、半兵衛は呟いた。


「冬花。一緒に暮らさないか?

 さすがに吉原みたいな暮らしは無理だが」

「そこはもう少し見栄をはったらどうだい」


 そう言って笑う冬花は、半兵衛にそっと口づけをした。

 冬花は笑う。花魁ではなく、女房の笑みで。


「いいよ。あんたと暮らせるのならどこでもさ」


 そう言って笑いあう二人の姿は、夫婦というよりも親友同士のそれに近いものだった。

 しかし、それでも二人の手は固く繋がれ、それはこれからも続いていくだろう。

 二人の頭上で桜の花が一つ風に舞っていった。

 それはまるで二人を祝福しているかのようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

忘八侍そばかす半兵衛 二日市とふろう @hokubukyuushuu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る