悪魔が巣食う国

クーゲルロール

悪魔が巣食う国

 ほんの五畳程の狭い部屋の中央には埃だらけのベッドが据えられており、壁沿いにはテレビが置かれたラックと本棚が取り付けられている。消音状態で点灯しているテレビには、黒装束を身に纏い、錫杖に似た金色の杖を持った数人が国会議事堂内を歩く様子が映し出されている。不気味な光景であるが、スーツを着た議員たちはそんな集団を拍手で歓迎している。テレビ以外の部屋の明かりは天井から吊り下げられた白熱電球一つだけで、その下で日高は原稿用紙に視線を落とし、小声で何度も同じ文章を呟いていた。

 今日が国を救う最後のチャンスとなる。手にする原稿は故郷の破滅を拒んだ多くの犠牲によって作られたものだ。そして、彼らの期待が今、日高に全て託されている。言葉に詰まるところがあれば何度も言い直し、自らの口に想いを覚えさせていく。

 ときたま腕時計を気にしては、今にも破裂してしまいそうな心臓を落ち着かせる。部屋に窓はない。しかし、外は猛吹雪のため不快な低音が轟き、壁に掛けられた絵画は揺れている。

 部屋に暖房はなく吐く息は白い。もう一度時計を確認する。しかし、まだ扉を叩く者はいなかった。

 しばらくして原稿を折りたたんだ日高はそれをスーツの胸ポケットにしまうと、今度はテレビを眺めながら暗唱を始める。高い位置から議場を俯瞰するカメラに変わり、黒装束の集団が半円に並んだ議席を取り囲むようにして立っている様子が映る。議会が始まるまでまだ時間はある。日高は途中で言葉を詰まらせた。

 情けない自分にイライラする。しかし、諦めることなくもう一度原稿を取り出し、文字列に視線を這わせる。そんな矢先のことだった。唐突にテレビが消え、何事かと顔を上げた瞬間、続いて白熱電球からも光が失われる。部屋は暗闇に包まれた。

 次に天井から大きな音がしたかと思うと、背後に人の気配を感じる。何も見えない日高はその場で立ち尽くすしかない。首を絞められたのはそのすぐ後だった。

 日高は何もできないまま自らの腹部に鈍い痛みを感じる。両手は自由に動かせるが、右手には原稿があるため左手で痛みのもとを探る。すると腹部から見覚えのない固く鋭いものが突き出ていることが分かった。

 背後の何者かは日高の首を絞め続けている。思い出したかのように暴れ始めるもすでに遅い。呼吸ができないパニックと流れ出る熱い液体に正気が失われていく。背後の人間は無言のままだった。

 このまま死ぬのだと悟ると、身体から力が抜けていく。抵抗ももはやこれまで。脳裏にはたくさんの人の顔が浮かんでは消える。このまま全てが暗闇の中に溶け、消えてなくなっていくのだろう。日高はそう諦めた。

 しかし、絶望の淵にあった意識が途切れる寸前、部屋の扉が大きな音を立てて開かれる。それと同時に眩しい光が差し込んできた。

 何者かが部屋に飛び込んでくるのが見えたが、逆光のため顔までは確認できない。この介入を受けて日高の拘束は解け、その身体は力なく冷たい床に倒れ込んだ。

 「父さん母さん、すまない。皆、許してほしい。こんな、力ない僕を頼って、くれたのに」

 床で藻掻いていたのはほんの数秒だった。原稿を強く握りしめて使命を果たせなかったことを悔やんで涙を流す。そのまま日高は意識を失った。

 それからどれだけ時間が経ったのか。日高が目を覚ますと天井では白熱電球が弱々しく点灯していた。小さな音がテレビから流れてきており、部屋は暖かい。

 「気が付いた?」

 視線を動かすと、近くの椅子に人影があることに気付く。それは知らない女性だった。そっと近づいてくると白い手が日高の頬に触れる。

 「まだ熱があるみたい。そのまま安静にしてて」

 「あなたは?」

 「遅れてごめんなさい。本当はもう少し早く来る予定だった。でも、検問が酷くて身動きが取れなかったの」

 「え、今の時間は!?」

 自らの使命を思い出した日高は両手で身体を支えて起き上がろうとする。しかし、痛みに襲われて再びベッドに倒れ込んだ。女性は日高の肩に手をかけて安心させ、テレビに注意を向ける。

 日高もそちらに首を回すと、ちょうど議場の全員が立ち上がって拍手をしているところだった。壇上には黒装束の一人が立っているが、他と比べて持っている杖が一回り大きい。日高はそれが誰なのか知っている。そして手遅れなのだと理解した。

 「あなたは命を懸けて抗った。けれど、変えられないこともある」

 「そんな」

 「今は身体を治すことに集中して。ここだっていつまでも安全じゃないから」

 「あなたが移動の手助けをする予定の?」

 「はい」

 「あの、僕はここで襲われて」

 「ええ。でももう大丈夫。私が排除しましたから。身の回りのことは気にしないで」

 「あの、名前は?」

 「安藤と言います。安藤奈々」

 自らの名前を語った安藤は髪を耳にかける。その格好はどこかの学校のジャージ姿で、日高に優しい笑みを浮かべている。ただ、それを見ても日高の心は落ち着かなかった。

 「安藤さん、これからどうするつもりですか?今から行ってももう遅いですよね」

 「はい。捕まって殺されるだけ。だから日高さんの回復次第、逃げないといけない」

 「でもどこに?もうこの国に僕らの居場所はなくなった。殺すことに失敗したと分かればいつまでも追われることになる」

 「けれど、私はその暗殺者を排除した。日高さんが議会に行かなかったことからも、向こうはあなたの死を信じてるはず」

 「その暗殺者が戻らなければ同じこと。排除したっていうのは、殺したってことですよね?」

 「ええ。確認しますか?今は外に居てもらってます」

 「いや」

 こんなにも死が身近になったのもここ一年ほどの話である。不安が蔓延る世界に突如として現れた宗教が国をこんなにも狂わせた。日高の良き理解者だった者たちは今ではその多くが殺されたか、監獄の中で酷い目に遭っている。他にも仲間が全国に隠れているが、日高と同様テレビ中継を見て絶望しているはずだった。

 「この治療は安藤さんが?」

 日高は腹部を触って問いかける。包帯が何重にも巻かれていて血が滲んている。日高の記憶ではナイフのようなものが身体を貫通していた。まだ生きられているのは安藤のおかげのようだった。

 「はい」

 「どこで治療法を?詳しいんですね」

 「そんなには。止血と縫合、輸血をしただけ」

 「輸血まで?」

 「失血死の可能性があったから少量だけ。でも安心して。日高さんの血液型は知らなかったけれど、私はO型だから」

 「そういうことじゃなくて!」

 声を張った日高はめまいに襲われる。安藤は小さく首を傾げた。

 「安藤さん。僕のことはもう心配いらない。今すぐここから離れてください。僕は追われる身だけど、あなたは違う。考え方を隠して静かに暮らせば命までは奪われない」

 日高は口調を優しくしてそうお願いする。議会に間に合わなかった以上、この国を止めることはできない。とはいえ、安藤は破滅までに残された時間を穏やかに過ごすことができる。これ以上、日高のせいで犠牲を増やすわけにはいかなかった。しかし、安藤は首を横に振る。

 「いえ、私は最後まで日高さんと一緒にいます。あなたは私に大切なことを教えてくれた。それに、こんなことになってしまったのは私の責任だから。まだ望みはあるかもしれない。日高さんのために出来ることをしたい」

 「その言葉は嬉しいよ。でも、もう出来ることはない。これが最後の希望だったんだ。安藤さんのことを責めたりもしない。無茶なことは僕も分かってた」

 安藤は両手を膝の上に乗せて人形のように座り、微動だにしない。日高の呼びかけにどう考えているのかも分からず、これほど表情に変化を見せない人は初めてだった。

 「日高さんは彼らの言う悪魔ではない。そうですよね?」

 「え?」

 「かつて、私はその教えを信じてました。そして絶対的なものだと思っていた。人々を苦しみから救うために生まれたこの教えに背くとは、まさに悪魔の所業。この世界を不安定へと誘う存在なのだと」

 「彼らの口癖だ。教義に関わることなら科学はおろか真実だって関係ない。異を唱えた多くの科学者、知識人、そして政治家が悪魔と見なされて社会から排斥された」

 「でもそんな私に間違いを教えてくれたのは日高さんだった」

 「科学も取り扱い方を間違えれば黒教と同じだ。僕が言っているから信じるのでは、彼らの言葉を鵜呑みにするのと変わらない」

 「でもあなたは私に証明してくれた」

 安藤は間髪入れることなく言い返す。日高と安藤は初めて会う。それでも安藤はこれまでの日高の取り組みをよく見ていたのかもしれなかった。日高は科学者で、社会が信仰心と科学を礎に成立していると知っていた。だからこそ抗っていたのだ。

 科学と宗教には大きな違いがある。それは神が関与するか否かではない。全てが神の産物だったとして、それを人に教え説く方法がまるきり違うのだ。かつての宗教は人類社会に必要不可欠で、一言では説明できない関係性が築かれていた。しかし、黒教はその何もかもを破壊し、不完全なまま世界を自らの都合が良いように書き換えてしまった。その結果、今ではテレビで流れているように政治をも取り込んで引き返せないところまで来てしまっている。

 「安藤さんの気持ちはよく分かったよ。うん、これも僕が始めたことだから」

 「はい」

 「怖くないの?」

 「怖さはあります。けれど、打ち勝てると信じてる。日高さんがそばに居るから」

 「僕はものすごく怖いよ。生まれてから30年近く、僕がこれまで科学を追求してきたのは国をこんなにするためじゃなかった。全てが意味なく終わってしまったことが怖い」

 日高はそう言って天井を見つめる。すると、安藤は椅子ごとベッドに近づいて日高の手を握った。驚いた日高だったが、安藤の目は全く揺れず、日高を捉えて離さない。

 「私は日高さんが好きです」

 「そんなことを言わせたかったんじゃない。安藤さんは見る限り、本来ならまだ学生として新しい世界に触れられる年なんだろう?僕が巻き込んだことは分かってる。すまなかった。だから、これからは自分を優先して生きてほしい」

 「であれば、日高さんのそばに居ます」

 「どうしてそこまで?」

 日高は安藤の手を振り払う。この手は抵抗の内にいつしか敵対する相手と同じように汚れてしまった。安藤のような若い女性が誰かの命を奪わなければならなくなったのも、日高が背負わなければならない重い罪である。

 それでも安藤は拒絶をものともしない。再び日高の手に触れると今度は強く握った。

 「私は生まれた時から、人間は天からの恵みと聞いて育ちました。これまでに地上を歩いていた神などとは比べ物にならない大きな存在が私たちを作り生かしているのだと。両親は私が幼い頃、科学主義者のデモと衝突して命を落とした。私は科学を信奉する人間を憎んだ。でも、この憎悪が間違っていたと教えてくれたのは日高さんだった」

 「そんな過去が」

 「私たち人間は私たちの手で命を紡いできた。そうですね?」

 「そうだ」

 「この世界に悪魔に支配された人間なんていない。みな等しく同じ存在。そうなんですよね?」

 「その通りだ」

 「うん。その方が美しい。日高さんは命を賭けてまでそのことを私に教えてくれた。執着するのは当然でしょう?」

 「でも」

 「何を言われても一緒に居る。だから早く元気になって」

 この献身には暗い影が落ちている。そんなことに日高は気付いていたが、これも自らが招いた結果だと拒絶することはやめた。5年近く続けられた活動は今日をもって終わる。具体的な誰かを助けるためではなく、自らの心に宿る愛国心をもってこの国を救うことが目的だった。しかし、これから日高は賊軍となる。もはや全てを救う力は残されておらず、手が届く範囲にあるのは目の前にいる少女だけだった。

 安藤はそれからも日高の世話を献身的に続けた。包帯を取り換えて食事を作り、部屋の隅に据えられた暖炉の火を保っている。一方、日高はテレビで流れ続ける悪夢のような光景を目に焼き付け続けた。今でもこれが間違った結果だと確信している。とはいえ、黒教の拡大を願ったのは国民自身だった。それを抑え込む力だけでなく意志さえ今の日高にはない。

 「少し休まれては?身体に毒です」

 「あいつらはどうしてこの場所が分かったんだろう」

 「内通者がいたのだと思います」

 「どうしてそう思う?」

 「そうでなければこの場所の情報が漏れるはずがない。科学を捨てずとも黒教と交わることができると考える者は少なくなかった」

 「そうだね。詳しいんだ。てっきり安藤さんは過激派だと思ってた。暗殺者をはねのけるなんて普通じゃできないから。それに情勢にとても詳しい」

 「私は過激ですよ。これまでに私がしてきたことを聞けば、きっと日高さんは私を恐れて嫌いになってしまう」

 安藤は暖炉に薪をくべ終えると振り返って冷たい表情を見せる。日高はそれに上手く言葉を返すことができない。安藤はそのままテレビの電源を切った。

 「私は日高さんの言葉を聞いて新しきを知った。それにこれも」

 安藤がポケットから取り出したのはところどころが赤く染まった原稿だった。最後の希望が詰まっていたはずだが、今ではしわだらけになって日高の血で汚れてしまっている。

 「もう燃やしてしまった方がいい。今では持っているだけで死刑になりかねない」

 「私にまたこの教えを説いてくれますか?」

 「長く生きていたいなら忘れた方がいい」

 「できない」

 安藤はその言葉と同時に原稿を暖炉に投げ込む。灰になって消えていく言葉はまだ二人の中で生きている。安藤は少し笑っていた。

 「明日までに一度移動します。でも日高さんはまだ一人で立てませんよね?外に私が乗ってきた車があります。これで一緒に逃げましょう。誰も知らない遠い場所に」

 「ああ」

 「大丈夫です。私が必ず守りますから」

 安藤の一言一言には重みを感じる。日高は自分の言葉に力が宿っていたことを認識すると同時に、単純な暴力がそれを守っていたのだと知る。これからは地下に潜っての活動が始まるのかもしれない。そして味方は安藤だけ。ただそれでも、誰かが隣にいることの安心は大きかった。

 移動は翌日の早朝だった。車の準備は全て安藤に任せて、最後に肩を借りながら日高は部屋を出る。立ち上がると腹部に強い痛みが広がる。安藤は縫合部位を確認してからゆっくりと歩き始めた。扉を開くと外はまだ暗く、しかし東の空は白み始めている。新雪が深く積もっていて、一歩踏み出すと膝まで雪に覆われた。

 「ちょっと待って」

 「どうしたの?」

 「これって」

 「殺した暗殺者だけど」

 安藤が言っていた通り、扉を開けてすぐのところに青いビニールシートで覆われた塊があった。雪にほとんど隠れていたが、靴の一部が外に出ている。

 「手を合わせよう。誰か知らないけど、あいつらの、あるいは僕のせいで命を落とした同胞だ」

 「でも急いだほうが」

 「少しくらいいいだろう」

 日高はその場に膝をついてビニールシートの上に積もった雪を払う。顔の場所を推測してシートを剥がすと、目を見開いたままの男の遺体が現れた。寒さのおかげかその姿は恐らく命を落とした瞬間を反映している。

 「すまなかった」

 日高が手を合わせると、その横で安藤も片膝をつく。しかし、手を合わせるようなことはせず、日高の横顔を眺めていた。

 「そろそろ」

 「うん」

 安藤に急かされて日高は名も知らない遺体の瞼を閉じてからシートを再び顔に掛けようとする。ただその時、男の乱れた服の胸元にふと視線が止まった。鎖骨の下あたりに入れ墨が見えたのだ。

 日高はゆっくりと上着を広げてそれを確認する。刺青の模様は横向きの二重らせんだった。お互いの曲線が相補の関係で結ばれている。

 それを見た日高は言葉を失った。

 「日高さん」

 再び隣から冷たい声が飛ぶ。しかし、今回のそれは今までとは異なっていた。日高が目を合わせると安藤は淡々と自らの肩を押し付けてくる。

 「君は、一体」

 日高が向かい合うと、目を細めた安藤が右手を伸ばしてくる。それを振り払ったところ、安藤は困った顔をして白い息を吐いた。

 「日高さん。あなたは私を救ってくれた。だから、この手を同じ血で濡らしたくない」

 「どうして!」

 もはや弁明をするつもりさえないらしい。日高は離れようとしたが、即座に身体を引き寄せられて抱き締められる。震えも強引に止められてしまい、安藤の手が優しく日高の背中をさする。その上で安藤は言い聞かせるように囁いた。

 「日高さん。私の心を愛しい人」

 「待って」

 日高はやや強引にその場で立たされる。そして、安藤の顔が日高の鼻先まで近づいてきた。日高は光を灯すことができたのだと思っていた。しかし、その目は深い深い奈落の底に日高を引きずり込もうとしている。何もかも見誤っていた。

 「私は悪魔じゃない。日高さんは確かにそう言ってくれた」

 その言葉を最後に日高は車に乗せられ、行先も伝えられぬまま今後を全て安藤に任せなければならなくなる。日高を後部座席に乗せた安藤は、まるで子供をあやすように日高の頬に手を当てて大人しくしているよう指示する。居場所はもうどこにもない。そのはずだったが、バックミラーに映る嬉しそうな笑顔は日高を強く求め続けていた。


 

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