青色の指を見ている。

久々原仁介

青色の指を見ている。

『折れ曲がったチェキフィルムの裏面に、文字を刻むのが趣味だ』


『こういうように、あまり長くは書けないけれど、文章が苦手な僕にはちょうどよかった』


『最近は、あの人が映った写真にばかり書いている』


『途切れる文章を縫い合わせて、僕は等身大のあの人を写した』


『僕にとって書くという行為は、どこか彼女を探す行為に似ていた』


『机の上。ひとりの女性が被写体となった数々の写真。それをトランプのように並べれば、あの人が横たわる姿へ段々と変わっていく』


『大学生の頃、僕はひとりの画家を飼っていた』


『頭では理解していながらも、他の言葉を見つけられない』


『それは決していやらしさを誇張したいわけではない。僕にとってそれだけ心の寂しくなる出来事だったという象徴だ』


『あの人について、今でも僕は多くを知らない。知らないぶんだけ、僕はシャッターを切った。当時流行ったチェキカメラのフィルム写真は、彼女の細い背中ばかりが映っていた』


『あの人はいつの間にか僕の部屋にいて、どこからか持ち込んだ絵具と筆で、毎日のように絵を描いていた』


『静かに、しかし指先だけは動かし続けていた。まるで絵を描き続ける美しい昆虫のように。あの人の描く絵には形容し難い、飢えががあった』


『アパートに帰れば、必ずあの人は細い腰を丸めて筆を握っていた。リビングは水彩絵具フェノール臭で鼻の奥がむずがゆくなる』


『いつも、他人の家に上がった時のような違和感』


『筆を取り上げたときにあげる、小さな喘ぎ声が好きだった。リードを引くように呼ぶと、彼女は四つん這いになって付いてきた』


『僕は彼女と出会わなければ経験もすることもないような感情がいくつかあった』


『その猫のような背中を見る度に、あの人は僕に会う以前からしばらく破滅的な生活を続けていたんだろうと考えて、いつもシャッターを切った』


『どこか手馴れていた様子で、一片たりとも僕に悲しみめいた所作を見せなかった』


『家賃はおろか、ガス代も電気も払わない女に、僕の生活はすべて塗り替えられていった』


『あの人は自分のことを妄りに話すことはなかったから、代わりに写真をとった。写真に写ったあの人をじっくり見て、ある程度の見当をつけた』


『何も知らなくて良いはずだったのに、いつの間にか僕は彼女を撮ることに夢中だった。矛盾を孕んだその指で、いったい僕は何を写そうとしていたのだろう』


『あの人を撮った写真は、まるで解け残った雪のように、今でも部屋の片隅に積もっている』


『あの人がいなくなって七年が経った。たったひと夏で育んだ、愛のような歪さも、あれほど描いていた水彩画も、もう僕の部屋にはどこも残っていない』


『姿形もないあの人が、僕の心にだけ居座っているおかしな時間が長く続いていた。灯りのないトンネルのように途方もない道のりに感じた。出口への歩き方を模索するとき、僕はあの人を写した写真に手を伸ばす』


『僕は考えていた。彼女にとって特別な存在ではなかった僕の、寂しさはひょっとするとパズルピースになっていて、繋ぎ合わせた先になにか正解めいたものがあるのではないかと』


『もう誰もいないリビング。

 水溜まりを避けるみたいに書いている』


× × ×


『何も知らない僕だけれど、よくよく考えるとあの人の名前も知らない』


『あの人は僕に「ムラサキ」と名乗ってはいたけれど、仮にムラサキという名前が偽名だったとしても、何の不思議もないような人だった』


『ムラサキと出会ったのは、雨宿り代わりに立ち寄った駅前のビル三階にあるジャズ・バーだった』


『手の空いたボーイが僕を案内してくれ、座らせられたのがムラサキの隣だった』


『死に装束みたいな真っ白なワンピースを着ていたことを鮮明に覚えている』


『僕はそのときまだ大学生ではあったが、二十歳にもなっておらず、彼女はたぶん二十四、五くらいの女性に見えた』


『ムラサキが振り返った。

 すると僕をつよく見据えて、僕もムラサキを観察するように眺める時間が三分ほど生まれた。僕らは無言である程度のコミュニケーションを行うと、お互いにどれくらい汚していいかを当たりをつけて会話を始めた』


『わるい子がいる。

 第一声はムラサキだった。

 薄く、笑っている』

 

『君、未成年でしょ。

 それは咎めるような唇ではなかった』


『こっちにおいでよ、と言い換えてもこの人は怒らなさそうだなと思って、少し椅子を寄せてみる。少し肩幅があって、洋服より和服の方が似合いそうな女性。雨に濡れた前髪が、頬に少し張り付いていた』


『ひとりでここに来たのかという僕の質問に対して「生きている間はずーっとひとり」とムラサキは答えた。どういう意味かわからないと僕が言うと「どうかしら。君はそういうことを訊きたかったはずよ。最終的にはね」と返して運ばれたウォッカに彼女は唇をつけた』


『ムラサキは空になったグラスを指先で上下に撫でる癖があった。蠱惑的な動きから滑り落ちる水滴は、ムラサキの指と同じで、青く滲んでいた』


『何をしている人なのか、僕は初めて会った人には全員にこれを訊いている。その人に対してシャッターを切る前のピント合わせを行う』


『絵を描いている人だよ。

 それだけの人になりたいんだ』


『青色の、水彩絵具の付いた指先で、あの人は自身の眉をなぞる』


『君は? と訊かれたとき、僕は彼女が羨ましくて写真を撮る人だよと答えた。同じ匂いがすると思ったんだよ。と、壁に立てかけられた長方形型の白い包(つつみ)に指を触れながらムラサキは言った』


『それは絵画か。

 水彩よ。水彩画が好きなの。貴方は?

 絵に好きとか、嫌いとかはない。

 そう。絵を見ない人の言葉だ』


『わたし、水彩画が好き。

 油絵はこわい。何百年も自分の描いた絵が残るなんて、こわい』


『そうだろうか。自分の撮った写真が、地球滅亡するその日まで語り継がれることを僕は望む』


『傲慢だね、と君は僕の肩に寄りかかった』


『終電が近づいたとき、お願い事をお互いに一つずつ叶えてあげるという遊びをした』


『僕は写真を撮らせてくれないかと言った。

 そのとき僕は初めてムラサキにシャッターを切った。青い絵具のついた指で口元を隠した』


『わたしが家に泊めてって言ったら、君は困る?』


『何も困らないよ、という言葉を笑顔の延長線上に僕は置いた。きっと彼女もそうだと思っていた。不意に外の雨音が窓ガラスを叩く音が聴こえた。彼女は壁際に立てかけた絵をちらりと横目で見ながら頷いた』


× × ×


『駅まで、僕らは二人で絵画を持って歩いた。絵を濡らさないように歩いた。ムラサキは傘を差していた。彼女が傘を差すのは絵画ばかりであった』


『駅に向かう途中は雨がざぁーざぁーとうるさく降っていて、どうせ声をかけたって気付かないだろうと決めつけて、僕は口を開かない。一枚だけ傘を差すムラサキの写真を撮った』


『暗くて、彼女を見つけられないチェキカメラ』


『ガラス。雨の中でもはっきり彼女の声は届いた。

 振り返ると、包装の隙間から小さなガラス片が零れていた』


『アスファルトの上を流れる雨粒たちが細かなガラスを運び、大きな破片の切っ先は僕らをじっと見ていた。僕らの歩いてきた道のりを示すかのように、割れたガラスはしらしらと街灯を反射して光っている』


 「僕がぶつけたのか」「違うよ。わたしが叩いたの」「いつ?」「君と会う前にね」


『少し、彼女が泣いているように見えたから』


『僕らは駅まで、星を撒くように歩いて、痛いほど明るい駅のホームで手を握った』


『車内照明、濡れた額に前髪が、映えて綺麗にレンズに写る。

 電車のなかでは僕の話を聞いてくれた』


『僕は左目が弱視であることを彼女に話した。左目だけ、物や人の輪郭を正しく認識できることができない。だから写真を撮るのだ。確定した現実がないと不安だからシャッターを切る』


『違うよ、あれは丸じゃないよ。違うよ、あれは三角だよ。そういうことを言われることが多い子どもだった。だから証拠が欲しかった』


『それでも、否定されるのは怖かった』


『三角も四角も、ぜんぶ僕にとっては丸だった。僕には見えるのだ。例えどんな形でも僕にはそう見えるのだ。グラデーション、グラデーション。世界はまるで、点の大きい点描画』


『見ているものを信用できなくなっていた。インスタントチェキのカメラ、それは身体の延長線上だった。だからいつも、首に下げて、どうしようもない不信感に襲われるとシャッターを切った』


『君の美しさはどこにあるの。

 濡れた青色の指から白いスカートに色が移る。

 それは『何をしている人なのか」という質問と同様のものを感じた』


『答えが出なくてしばらく黙った。彼女も僕が答えようとするまで待っていたが、その時間も曖昧になっていく。そんな唇を写真におさめた』


『あ、サンマ。

彼女が横線に流れるトンネルのライトを見て呟いた』


× × ×


『家に着けば、お互いの肌に張り付いた洋服を当たり前のように脱がした』


『抱き合って湿った素肌が重なると、そこからは曖昧な温もりが生まれる。その熱が果たして彼女のものか僕のものかは分からない。僕らは一組しかない布団のなかで、この熱に侵されながら、奪い合うように口付けを交わした』


『お互いに許し合ったはずの、汚していいよというラインを超える。写真を撮る。口づけをする。写真を撮る。耳を噛む。写真を撮る。背中を撫でる。写真を撮る。足を絡める。その揺り動かす動作の振れ幅が段々と大きくなる。口から零れそうになる』


『お願い。彼女は耳打ちをする。

 乱暴にして。彼女は懇願する』


『乳房を強く揉むと、彼女は息を漏らした。乱暴にしてほしいという言葉は、次第に僕の頭のなかで形を変えて、痛くしていいからという意味に変換される』


『後ろから頭を抑えてほしいというからその通りにした。ときおり咳き込んで、浮かべる涙ばかりが美しかった。その涙だけを集めた水槽などがあったとして、そこで君を飼えるだろうか。そういうふしだらな妄想を、彼女に四つん這いをさせながら考えていた』


『雨がやんでることに気が付いた午前三時。お月様のように丸い、彼女のお尻の写真を撮って目を閉じた午前四時』


『夢を見た。短い夢だ。ムラサキが泣いている。気持ちいいってなんか怖いの。と言うムラサキに、僕は冷静だった。三拍ほど遅れて「わかるよ」と孤独への理解を示した。それだけの夢だった』


『そんな「わかるよ」に溺れて、わたし息もできない。

 彼女は綺麗な顔で泣いている。

 もう夢かも分からない』


× × ×


『翌朝になって目を覚ますと、ムラサキはすでに起きており、下着姿のままリビングでクロッキー用紙に何かを描いていた』


『太陽光を浴びている彼女がアイスクリームみたいに溶けないだろうかと考えて、僕も起きた』


『彼女が持っているのは鉛筆だった。リビングの窓際、陽当たりがいいことにも気づいていたのか、自身のものであろう水彩筆をタオルの上に置いて乾かしていた』


『ああ、この人はこのまま家に居着いてしまうだろうなという予感があった。おはようという挨拶に返事がなかったから、身支度を整えて置いた後はそのまま家を出た』


『家を出て、僕が何処へ行くとも分からない。大学は夏期休暇となっている。誰もいないと知っていて、僕はそれでも学校へと足を運ぶ。何故か、忘れものをしたかのような一日だった』


『来年に取壊しが決まった旧校舎も、セミの抜け殻のような図書館も、そこに僕の忘れ物なんてなくて、それは当たり前の寂しさだった。事件現場を保全する警察官を思い浮かべて、空っぽの教室を写真に収めた』


『チェキのシャッターを切る。すると、吐き出された写真のなかに何かが足りない。病院に伸びる白い廊下のようなあの背中が、そこにはなかった。僕はどこか捨てられたような教室でピントを合わせようとしてみる。写真を撮るほどに、教室はぼやけ、自分のなかでよりはっきりと色を帯びる色彩レンズと青い指の女』


『夕焼けと、走って帰るアパートは、もう別の家みたいな匂いが漂っていて。ムラサキが、まるで寝そべってクレヨンを描く子どもみたいに、リビングで画材を広げているのが、安心しては苛ついて、それは乱暴な気持ちにすり替えたら楽そうで。だから僕らは二度目のセックスをしていた』


『裸の彼女と、同じ缶に入ったサイダーを飲んだ』


『僕は、絵具を使わないのかと彼女に訊いた』


『筆を休ませてるの。そういう時間が一日だけ必要で、明日からまたしばらく絵を描く。わたし、きっと、つよくて消え入りそうな夢を描くよ』


『「だから少し、美しくさせて」

 住まわせてほしい、なんて言葉はどこにもなかった。

 たちまち僕は魔法にかけられて、部屋の鍵を渡した』


『そんな、短い一日の終わりにオムライスを作った』


× × ×


『わたし、殴られないとわからない犬だから。

 わかってないなって思ったら殴っていいから。

 たぶんそのときは君が正しい。

 青痣くらいは、つくっていいよ』


『暴力が苦手な僕だから。

 殴りはしないよ、でも撮るよ。

 これもひとつの、気持ちのわるい、暴力みたいになって。

 いつかきみに、取り返しのつかない痣をあげるよ』


『子どもを産めそうにないほど細い腰に手を添える』


『全てを言葉にできたわけではないけれど、足りない部分はチェキカメラが補う』


『それは僕側の真実で、僕が言いたいことってつまりはぜんぶ、そういう言葉の裏側にあるから。まるで一眼レフカメラに内蔵されたフォーカスレンズのように、僕と君に映し出されるのは逆さまの世界だ。

今もそうだよ。ぜんぶ、そうだったんだよ』


『ムラサキは、大事な話は夕方か夜に話そうと言った。僕は逆だ。朝や昼、悩みのあるまま一日は過ごしづらいと考える。でも、いいよと僕は笑った。お互いに、終わりの見据えた笑みだった』


『家には段々と画材が増えていった。

 部屋全体が大きなパレットのように足の踏み場が消えていく』


『おそらくは、以前の住居から持ち込んだものや、新しく買い揃えたものが一緒くたにされている。僕がそのことについて口を出すようなことは一度もなかった。ムラサキは、僕が家を離れてる時間を見計らって荷物を運びこむ』


『あの人は芸術やそれに纏わる行動に関しては大胆な癖に、対人に関してはひどく臆病だった』


『まるで巣作りに励む親鳥のように、殺風景だったリビングはみるみるうちに彼女のアトリエへと変貌を遂げる。

キャンバスを立てかけた三脚と、交差して映えるあの人の右足』


『僕らの間に劇的な瞬間はない。過去にも、未来にも、僕らはそういうことを望んでいない。ギラギラに輝いて、目を逸らすこともできない毎日なんて、僕はこわい』


『彼女と僕の三ヶ月というのは、実に穏やかで、静謐なものだった』


『必要以上の言葉はない。性行為という刷り込み式のコミュニケーションは、出会って数日でしかない僕らの間にとっては便利だった』


『僕もまた、彼女の写真を撮り続ける。シャッターを切る。その繰り返しのなかで、自身の焦点が定まっていく』


『ピントを合わせるとは、心の中心を定めるという行いだった』


『焦点を決めるとは、祈りなのかもしれないと考えていた。それは次第に、何を信じていくのかという行動になっていった』


『シャッターをきる、それだけの動物になる』


『唇。唇。唇。あの人の口元を、三日連続で取り続けた日があった。口づけをして流れた体液に筆をつけた彼女は粘り気のある線を不思議そうに見ていた』


『あまり根を詰めすぎるとムラサキは体調を崩した』


『床に何度も嘔吐するが、その吐瀉物も余計なものがなくなって段々と透明になっていく。嘔吐が収まるとまた彼女は筆を握る』


『ムラサキには絵という概念しかないのかもしれない』


『社会も、お金も、地位も、人も』


『他には何もないから、絵だけをわたしにください、と』


『全身で抗っている、そんな人だった』


『僕はどうだろう。彼女の隣にいることで、まるで自分自身が、表現者であるかのような勘違いをしているのではないかという疑念がついて回った』


『少し涼しくなった九月の初め、ムラサキに奇行が目立ち始めた』


『絵の具を舐めたり、叫びながらキャンバスを床に叩き付けて穴を開けたり、太ももにカミソリを当てるなどの自傷行為もあった』


『僕は正直、その行動について心配になったりすることはなかった』


『芸術という神に殉教することを望む敬謙な信徒の如く。ムラサキが人間性を捨てようとしているのは見て分かったからだ』


『彼女が排便をするところを見てほしいと言ってきた日があった。僕は何時間も彼女の頭を抱きかかえるようにしながら排便を待った』


『羽化しようともがくあの人の姿を、僕は粛々と受け入れた』


『ムラサキの絵は抽象画が多い』


『僕が文字にすることで、その絶妙なバランスが崩れてしまうかもしれないと思うと怖くて書けない。それでも人影らしいものが描かれている作品も多くて、どれも細やかな希死念慮が散りばめられているのを感じた』


『何枚か、今でも思い出す絵があって、それはもうきっと僕がみることのできないものもあった』


『写真家になればいいのにというのは、彼女の口癖だ』


『僕は、写真の勉強をしていたけれど、悪い冗談だと思って「そんなんで食っていけないよ」とか「君だって食べさせてもらってる身分じゃ、何の説得力もない」と皮肉めいた返しをした』


『シャッターを押すだけ、楽でいいわね』


『好きなように描けていいよな』


『あなたも好きに撮ればいいじゃない。わたしだけ撮ってないで』


『そういう娯楽に興味はない』


『じゃあ、やっぱりあなたもこっち側ね』


『こっちって、どっちだよ』


『おいで』

『違うよ』

『違わない。きっと、君は、わたしと同じ道を歩くよ』


『わかるよ。それだけは分かる。

 この指の青さに誓うよ』


『悲しくても、壊れても、お互いに苦しみに口を出すような真似はしなかった。まったく知らない僕ら二人は、なぜかそういうことだけ敏感だった』


× × ×


『二カ月が過ぎたころ、彼女が珍しく身なりを整えて外に出かける時間があった』


『ほんの出来心だった』


『後を着けて訪れた二駅離れた商店街のギャラリーで、ムラサキを見かけた』


『ギャラリーの入り口には作者の名前の看板が出ている。ペンネームなのか、本名なのかよく分からない名前が書いてあって、もうよく覚えていない』


「弱弱しい愛想笑いと、客に向かって絵画の説明をするムラサキを遠目に見て。ひどく人間臭い姿に裏切られた』


『そもそも僕が彼女を信じていたということを、この瞬間に激しい自覚を得た』


『自分の絵を売りたくてしょうがないって思惑が、そのまま彼女の顔に張り付いているのが信じられなかった』


『作品を描いている彼女と、商品を売っている彼女との間にはそれほどの乖離があった』


『延々と続くささくれが、その痛みが消えないのは僕が彼女の偶像ばかりを追っていたからだ』


『シャッターを切るとき、僕は現実を追い求めてる』


『でもそこに移るものは平面的で、その中身について考えたことがなかった。美しくも気高い奴隷など、最初からいなかったことに気が付いたとき、左目が、ひどく痛んだ』


× × ×


『あの日、何をしてたの。と、僕が訊いた日の夜に、彼女は照明の消えたリビングから振り返ってから、僕の目を見て、二回ほど瞬きをした』


『来てたの?

 どうして声をかけてくれなかったの?』


『そんな言葉を想像していた。本当は僕を納得させてほしかった』


『しかしムラサキにとって「あの日」とは、僕と出会った日のことだった』


『あの日も、個展を開いていたのだと彼女は言った』


『個展を開くのはお金がかかることを彼女は話した』


『売れなければ赤字で、お情けのようにポストカードが三枚売れて、打ちひしがれるムラサキがありありと浮かんだ』


『入口に飾った一番大きい水彩画を彼女は叩いた。絵を送り返すのにだって、お金がかかる。ムラサキは、送り返すことのできなかった一番大きな水彩画を持って帰る途中、雨に降られた』


『それで僕に出会った。都合の良い傘差しがいた』


『そうなんだろ、と責め立てる僕の瞳』


『ただムラサキは、絵画を濡らしてなくて僕を利用した。それだけのことだった。あの人の筆先が止まるから、僕は理解したくもないのに分かってしまった』


『あの人に対して、心にピッタリと当てはまるようなときめきが、出会った瞬間から僕の心にはあった』


『芸術に向き合うあの人への尊敬で、人間的な生き方を捨てようともがくあの人への愛だった』


『でもそれは、彼女にとってはひどく打算的な、ある意味で人間的な裏付けをされた行動でしかなかった』


『淡々と、彼女の背中に向けて話した。あなたは芸術家だし、才能以上に、絵画に心血を注いでいる。それらについて僕はあなたを深く敬愛している。でもあなたは、あなた自身が考えるほど、人間性を捨てることはできないよ。君が立って歩こうとしている世界や、僕が一生向き合うことのないだろう道には、実際に辿り着いた人もいるけど、それは一握りくらいだ。あなたや、僕にはきっとできないよ。それだけじゃ、辿り着くことのできない現実を、君は一生抱きしめながら生きていくよ。それは良いとか、悪いとかじゃない。この三ヶ月はいつか君に、取り返しのつかない痣をつくる。どんな振舞いをしたところで、僕らは奴隷ではないし、人間性からは解放されないし、生み出す苦しみと、金銭的な報酬が釣り合うことはない』


『奴隷だよ。わたしも、君も。

 世界をまんべんなく写したいだけの、奴隷だよ』


「吸い込めば、肺まで青くなりそうな絵具の臭いに息がつまった』


× × ×


『それからムラサキは絵を描いた。

 一日中、絵を描いていた。

 段々とご飯を食べなくなった』


『卵を抱えて上流へ泳ぎ向かう魚のように。全身でその筆を動かし、ときおり掻くように額を拭い、絵具を掴む。見て、わたしを見ていて、そう言わんばかりの指先が、パレットとキャンバスを行き来し、ときおり水入れの小さなバケツを濁らせる』


『夕方、アパートに戻ると強盗にでも入られたのかと思うほど彼女の私物が減っていた。窓際に転がっていた霧吹きも、ハンガーにかけられた白いワンピースも、まるで足がついてしまったかのようにどこかへいってしまう』


『リビングからは、次第にあの人の痕跡が消えていくことが、急に現実味を帯びて、それが怖くてシャッターを切った』


『ムラサキがおそらく出て行ってしまうだろうなと思う夜があった』


『それは彼女から告げられたわけではない。リビングの三脚がなくなった夜に「何もすることがないね」と君が振り返って笑うから「ああ、そうだね」と、さよならの代わりに言って、あの日と同じように二人でオムライスを作った』


『翌日、目を覚ますともうあの人の姿はなく、わずかに残るフェノール臭は三日も経たずに消えていった』


『大きな悲しみが訪れる予感がしていた。でもそれは正確ではなかった。終わってみれば、僕は大学生としての生活を思い出すように学校へ通った』


『彼女はまるで僕に隷属するような立ち振る舞いをしてくれてはいた。でもそれは、終わってみるとまったく対等な関係だった。僕がお金を出し、彼女はその対価にカラダを提供する』


『あの人がいなくなって、僕は加速度的に大人になった』


『時間の流れから弾きだされてしまったかのような僕は、フリーの写真家として国内外を問わず飛び回っている』


『あの人のいないアトリエを、後生大事に守る僕を今の彼女が見たら笑うだろうか』


『ムラサキがアパートを出てから数ヶ月後に、彼女の書いた絵がとある大きな賞をとったことを風の噂で耳にした』


『その絵のタイトルは「君と同じ世界を見ている」』


『きっと、君はわたしと同じ道を歩くよ。そう言っていたあの人の、言葉に手を引かれて、シャッターを切ってきた。奇しくも僕は、今さらになって、あの人がつよく追い求めた「世界」のことを考えている』


『果たしてあの人が伸ばす絵具の線と、僕が切るシャッター繋がっているのだろうか。確証のない不安を覆い隠すように、僕は彼女を写した写真をめくる』


『僕は彼女が何を憎み、何を信じているか、その全てをまるで知った気にでもなっているかのような気持ちだった』


『彼女が、僕の憤る全てを理解できなかったように、僕もまた無自覚な傲慢のなかで彼女を否定していた』


『君と同じ世界を見ている』


『それは優しくて、少し配色を間違えた言葉だ』


『僕はずっと、世界なんかどうでもよかった』


『大きすぎてピントが合わない言葉だと思っていた。僕の左目から覗く世界はいつも斑でとらえどころがない』


『あの人がキャンバスに向かい合っている間、僕も同じ方向をみていた。だから、勘違いするのも無理はない。僕はずっと不誠実で、ちょっとブルー』


 最後の写真をテーブルに並べる。


 失うことさえ思い出になっていく


 たとえこの世界に貴女がいなくても。


 僕は、青色の指を見ている。

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青色の指を見ている。 久々原仁介 @nekutai

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