アルトミラ

oha

第1話



 淡い闇に包まれた、どこかも分からないような鬱蒼とした森の中。

 夜明けまでにはだいぶ遠い時間だというのにも関わらず、道なき道を進んでいく、二つの小さな人影があった。

 好き放題に生い茂る背の高い草木を掻き分け、何やら話しながら歩いている。どちらもまだ幼さを残す顔つきの、少年と少女だった。

 真っ白な軽装を身に纏う少年は、大きな荷物を背負い、この闇の中でも光り輝く白銀の剣を手にしていた。

 対して少女の方はというと、丈の合わない真っ黒なローブに身を包み、手には鈍色の燻んだ杖。そしてこれまた真っ黒な、鍔の広いとんがり帽子を頭に深々と被っていた。

「ねえ、本当にこっちで合ってるの?」

 先を行く少年が、手にしている剣で目の前を塞いでいた邪魔な枝を払いのけて言った。呆れたような様子で、すぐ後ろをついていく少女が、口の先を尖らせて返す。

「だからさっきから言ってるじゃん、こっちから波の音が聞こえてきてるんだって」

「……全然しないから言ってるんだけど」

「本当に? まあ、アルは鈍感だから仕方ないか」

「はいはい……」

 今はもう寝静まっているのか、それとも元々住む者などいないのか。他の生き物の気配を感じることのない森の中に、二人の声が細やかに響く。

 色々と言い合いながらも、少年は少女に促されるまま、前へ前へと進んで行った。少女が踏んだ枯れ枝が、パキリと小気味良い音を立てる。

「足元気を付けてね、ミラ」

「ん」

 少年が振り返り、少女に注意を促した、その時。

「うわわわっ」

 足元の木の根に躓いた少年は、態勢を崩して思い切り転んでしまった。その光景を目にした少女は、大声をあげて高らかに笑う。

「あははっ! 注意してた本人が転ぶだなんて世話がないわね! あっはははっ!」

「うるさいなぁ……いってて……」

 お腹を抱えてひとしきり笑った少女は、目尻に浮かんだ涙をローブの袖で拭うと、お尻をさする少年に手を差し伸べた。

「大丈夫? はい」

「……ありがと」

「ほら、もうちょっとだから頑張って」

「うん」

 二人はそのまましばらくの間、暗い森の中を少女が導く方向へゆっくりと歩いて行った。

 すると、段々と辺りに蔓延っている木の数が減っていき、地面が固かった地盤から、柔らかい砂地にへと変わっていった。視界もどんどんひらけていく。

 前から吹いて来た潮風が、二人の頬を撫でて通り過ぎる。少女が言っていた波の音は、もうすっかり少年の耳にも届くようになっていた。

 嬉しそうな声を出した少女が不意に駆け出し、少年が慌てて追いかける。どうやら無事に森を抜け、目的の場所へと辿り着いたようだった。

「着いたー!」

「わぁ……」

 立ち止まる二人の目の前に、どこまでも広がる真っ白な砂浜と、果てなく続く静かな大海原が姿を現した。

 空に瞬く星々を映し出す真夜中の海は幻想的で、閑やかだった。

「あ、ちょっと! ミラ!」

 少年が言うが早いか、少女は履いていた靴を脱ぎ捨て、持っていた杖すらも放り投げ、波打ち際に向かって走っていく。

 そのまま裸足で勢いよく浅瀬の中へと踏み込むと、小さな体を震わせて、幼い子供のように無邪気に笑った。

「んーっ、冷たーい! アルも早くおいでよー!」

「え、うそ、僕も入るの?」

「折角来たんだから当たり前でしょ? 気持ち良いよ、ほらー!」

 海の中で手を広げる少女が、少年に大きな声を掛ける。

 しかし少年は、やれやれといった表情を浮かべながら少女の近くまで歩みを進めると、砂浜にどっかりと腰を下ろした。 

「別にいいよ、ここで見てるから」

「はぁ?」

 その様子を見た少女は、不機嫌そうにムッと眉を吊り上げた。

 そして身体を翻すと、わざと水しぶきを上げるような勢いの大股で少年のところまで戻って行き、少年の手を力強く掴んで引っ張った。

「だーめ、一緒に遊ぶの! 見たことないっていうから連れてきたのに」

「いやいや! こんな夜中に急に連れて来られるとは思わな……分かった分かった! 今靴脱ぐから!」

「はーやーく!」

「分かったから引っ張らないでって!」

 結局、少年は少女の猛烈な押しに負けたようで、ほとんど引きずられながらも浅瀬の中へと入っていった。

 しぶしぶといった表情の少年だったが、波に合わせて動く足元の砂がくすぐったいようで、その顔は徐々に口元が緩んでいった。

「どう? 初めての海は」

「……なんだか変な感じ。でも、うん。気持ちいいね」

「でしょ? 最初から一緒に入ってればよかったの」

「だって、ミラが泳ごう! とか言いだしたらどうしようかと思って」

「流石にそこまでは……あ、アル! そっちに魚がいるよ」

「え、どこ?」

 少年が嬉しそうに背を向けた瞬間、少女が手のひらいっぱいに海水を掬い上げ、それを少年に向かって勢いよくひっかけた。少年の背筋がピンと伸び上がり、少女は大きく口を開けて笑った。

「って冷たっ! もー! ミラっ!」

「あっははっ! やーい引っかかった引っかかった!」

 とんがり帽子が落ちないよう手で押さえながら、少女は黒いローブをはためかせて海岸線を走りだす。少年も笑いながら、少女の背中を追いかける。

 そうやって二人は、長い間夜の海辺で戯れ合っていた。



 ♢



「あー楽しかった!」

「全く……誰かさんのせいで全身ビショビショなんだけど」

「そんなこと言って、アルもなんだかんだで結構楽しんでたじゃん」

「……まあ、うん。楽しかったけど」

「でしょ? でも、さすがに少し疲れちゃったな」

「ミラははしゃぎ過ぎなの。少し休もう」

 海辺を駆け回っていた二人は、やがて肩で息をしながら元いた砂浜へと引き上げて行った。体が冷えてしまったのか、少女がぷるりと身震いし、少年が一つ大きなくしゃみをした。

 すると少女は、自分と少年の体を見比べると「ちょっと待ってて」と言い残し、一人で元来た森の中に戻って行ってしまった。

 しばらく経ち、少年がお互いの靴や荷物を一箇所にまとめていたところへ、両手いっぱいに木の枝を抱えた少女が戻って来た。

「言ってくれれば手伝ったのに」

「何言ってんの、アルが触ったら木が湿っちゃうでしょ? 自分の体触ってみたら?」

 鈍感なんだからと続いた呆れるような少女の言葉に対し、少年は何も言い返せず、ただ自分の濡れた体を摩ることしか出来ないようだった。

 そして、少女は木の枝を雑に足元に置くと、彼が近くに持ってきてくれていた杖を掴み取り、うず高く積み上げたそれに向かって杖先をかざした。すると、ボッ、という発火音とともに小さな火柱が出現し、枯れ木の山を包みこんだ。枝が良く乾燥していたのか、炎の勢いはあっという間に強くなっていく。薄暗かった海岸線に、一点の明かりが灯った。

「この前みたいに爆発しなくて良かったね」

「だから、あの日はたまたま調子が悪かったの」

 少年が火のそばに腰を下ろし、足を伸ばして座り込むと、少女も少年のすぐ隣までやってきて、寄りかかるようにして座った。目の前の火に染められたのか、二人の頬がほんのりと赤く色づいた。

「あったかいね」

「うん」

「ミラも濡れちゃうよ」

「いいの」

 少年と少女は寄り添ったまま、闇の中で赤々と燃え続ける焚火を眺めていた。

 海から時折吹いてくる潮風を浴びては大きく形を変えて、揺らめく炎はまた元の姿に戻っていく。

 パチパチと枯れ木が焼ける音と、海原を揺蕩う波の音だけが、この静寂な世界を支配していた。

「ねえ、ミラ」

 雲一つない満点の星空が白んで少し明るくなってきたころ、少年がぽつりと口を開いた。

「しばらくの間、一緒に旅をしてきたけど」

「うん」

 その言葉に反応するかのように、少年の肩にもたれかかっていた少女の頭が、僅かに持ち上がった。

「いつの間にか、こんな大陸の端っこにまで来ちゃったね」

「……ほんとにね。だいぶ遠くまで来たもんだよ」

「そうだね」

 少女は頭を上げると、どこか遠くを見るような眼差しで目を細め、小さく笑った。

「ふふっ……」

「どうしたの? 急に笑って」

 尋ねられた少女は笑みを浮かべたまま、隣に座る少年を見つめた。

「ねえ、アル。私と初めて会った時のこと、覚えてる?」

「そりゃ勿論覚えてるよ。国境のところの洞窟でしょ? っていうか、あれはさすがに忘れないって……」

 少年が苦い顔をして、何かを思い出すかのように少女へ目線を向けた。

「自分が討伐するはずの魔物を、女の子が説教してるんだから」

「あははっ! アルってば、凄く驚いてたよね」

「そりゃ誰だって驚くよ、あんな大きな竜相手に」

「いやぁ、あの時のアルの顔ときたら、まさに傑作だったなあ。いつ思い出しても笑えちゃうもんね」

「……もしかして、さっき笑ってたのって、そのことで……?」

「っくく……あっはっは!」

「もう、勘弁してよ……」

「はぁ……ふふっ、ごめんごめん、悪かったってば」

 少女は少年の肩を軽く小突くと、優しい顔つきで再び海を見据えた。

「あの時の竜、大人しくなってくれてればいいんだけどな」

「大丈夫だよ。あれだけミラが説得したんだから、きっと落ち着いてくれるよ」

「そうだといいな」

 少年も少女と同じように前を向き直し、二人はまた静かに世界の彼方を見つめ始めた。水平線の向こう側が、段々と赤みを帯びてきている。

 長かった夜が、明けようとしていた。

「ふふ……」

 ずっと被ったままのとんがり帽子を揺らしながら、少女が再び笑う。すかさず少年が横を向いた。

「もう、今度は何?」

「なんだか私たちって、不思議だなって思って」

「……まあ、今更って感じだけどね」

「でも、ううん、凄いよやっぱり」

 いつの間にか焚火は消えていて、砂浜には黒い燃え殻となった枯れ木だけが残されていた。

 冷たい明け方の潮風が、砂を舞わせながら二人の前を通り抜けていく。

 しばしの沈黙の後、少女が元気よく言った。

「私、アルに会えてよかったよ」

「……うん」

「こうやって普通におしゃべり出来て、よかった」

「うん」

 そして少女は嬉しそうに、曇りのない笑顔を咲かせた。

「あなたがアルで、本当によかった」

 どこか儚げなその笑顔につられて、少年も優しく微笑んだ。そして、何かに気がついた少年は小さく少女の名を呼んで、海の向こうを指差した。

「ミラ、見て」

「え? わあ……」

 指先に誘われて、少女がその方向を向く。

 遥か遠く、水平線のむこう側。太陽が顔を出し、空に向かって悠々と昇り始めていた。海面と周りの空が少しずつ暁色に染まっていき、それはすぐに二人のもとにも届いた。

「綺麗だね」

「ほんとう。すごいきれい……」

 二人は自然と手を繋いで立ち上がり、食い入るようにその光景を見つめていた。

「アル、あのね」

 生まれたての朝日に瞳を凝らしたまま、少女が緊張した声色で切り出した。

「なに?」

「あのさ」

「うん」

「あのね?」

「うん」

「ほんとはね?」

「どうしたの」

「本当は……。……本当は、こんなこと言える立場なんかじゃない、って、分かってるけど────」

 そして、少女が震えた声で覚束ない言葉を紡ぎ始めた、その時。

 燃え尽きた焚き火後の枯れ木を散らすような勢いで、ひと際大きな潮風が二人の目の前を通り過ぎた。

 何処からともなく吹いてきた一陣の風は、少女が被っていた帽子を空中へと攫い、そのまま何処かへと消えていった。

 持ち主の頭から離れた黒のとんがり帽子は、放物線の軌跡を虚空に描きながら、一つの物音も立てずに海面に着地する。

 少女の長い髪と、碧色の透き通るような瞳が朝日に照らされて光り、そして。帽子によって隠されていた頭からは、人間のそれではない、長い耳が二つ、空に向かって伸びていた。

「────……これからも私と一緒に、人も魔物もない平和な世界を目指してくれませんか」

 少女は覚悟を表したかのように力強く言い切って、目の前の少年と向かい合った。

「わたしとあなたが、一緒に暮らせる、ような……」

 その言葉に呼応して、繋いでいた少女の手を強く握り返しながら、少年は言った。

「……僕がどう答えるかなんて、分かってるでしょ」

「分かんない。だって、アルは鈍感だから」

「もう、そればっかりなんだから……」

 頬を掻く少年に、頭を伏せる少女が自分の体の体重を預けるように寄りかかる。頭ひとつ分小さなその体を受け止めるように、少年は少女を優しく抱きしめた。

「初めて会った時も、同じ言葉を言ってくれたよね」

「うん」

「あの時から、僕の気持ちはずっと変わらないよ」

「うん……」

「……大丈夫。僕は最後まで、ミラと一緒に戦うよ。そう約束する」

「うん…………。アル、ありがとう……」

 陽射しに覆われた二人の体が、まっすぐな線を引くように、一つに重なった影を砂浜に伸ばしていった。

 少女が顔を上げ、幸せそうに笑う。弾けるようなその眩しい笑顔を見た少年が、照れくさそうに視線を外す。少女がそのことをからかうと、やがて二人はいつもの調子に戻っていった。



 ♢



「さーて、これからどうしようか」

 朝日がすっかり水平線から顔を出した頃。少年が大きく体を伸ばして言った。

「うーん……そうだなぁ」

 尋ねられた少女はわざとらしく顎に手を当て、目を瞑りながら考える素振り見せた。薄く笑みを浮かべたまましばらく黙っていた少女は、やがて何かを閃いたのか、横にあった自分の杖を手に取ると、おもむろにそれに跨った。

「アル、荷物持ってこれに乗って」

 少年は不思議に思いながらも、彼女に言われたとおりに置いていた鞄を背負いあげ、少女の背中に体をくっつけるようにして、細い杖の上に体を乗せた。

「よーし! それじゃ、しっかり捕まっててね!」

 少女が気合の入った声を出し、杖を握る手に力を込める。すると、杖全体が輝くと同時に、二人の体がまるで重力に逆らうかの如く、ふわりと宙へ浮かび上がった。

「すごい、飛んでるよ! ミラ、こんなことも出来たんだ!」

「ふっふーん、当然でしょ? あたしを誰だと思ってるの」

 目を丸くした少年に体を揺すられて、得意げに答えた少女が、続けて言った。

「ねえ、アルっ」

「なに?」

「今からさ、隣の大陸にでも行ってみない?」

「いいけど……って、今から!?」

「もちろん! ここから海を越えた先にね、すっごく美味しいパンを作ってる巨人族の村があるって聞いたことがあるの。私、それずっと食べてみたいなって思ってたんだ!」

「……ふふっ、いいよ、行ってみようか」

「そうこなくっちゃ! じゃあ、朝食は決まりね!」

 後ろを振り向きながら語らっていた少女が前を向きなおすと、二つの体を支えて空中に停滞していた杖は、ゆっくりと高度を上げていった。

 だんだんと遠ざかる海岸線に別れを告げるように少年が足元見下ろすと、ふと、何かが視界に入った。

「ミラ、ミラ、ちょっと」

「どしたの? はっはーん、まさか高くて怖いとか?」

「いやほら……帽子、拾わなきゃ」

「え? ああ……」

 少年に慌てて呼び止められた少女は、もう何にも隠れていない頭を見上げる。

 だが、少女の顔はどこか満足げだった。

「あれはもういらないや」

「え? いいの?」

「うん、いいんだ」

 黒髪を靡かせて、少女が後ろを振り返る。そして、驚く表情の少年を見つめて、少女は不敵に笑った。

「だって、あんなもの被らなくてもいい世界になるんでしょ?」





 かくして、海面を揺蕩うとんがり帽子に見送られながら、少年と少女、もとい────


 勇者アルと魔王ミランダは、彼方の光を目指して朝焼けの中にへと消えていった。


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アルトミラ oha @hanktaro

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