16
最近やたらと予定を忘れたり見落としが多くなった。
プロジェクトを始めた時や心が引き締まっているときほど温泉に行きたくなるのはなぜなのだろう。あんなものは高齢者のためのものとさえ思っていたが、実は自分のような思考をすっきりさせたい若手に向けたものではないかと岩谷は仮説を立てている。決して気温が下がり、秋が訪れたからではない。
「営業部長、アフタヌーンティー中にすいません」
ふいに山本が営業部のデスクに来た。といっても、設計も営業も管理部も同じフロアなのだが。
「俺アフタヌーンティーなんかせえへんよ」
マグカップを持った部長が返す。午後3時前後に職場の冷蔵庫の牛乳とコーヒーを混ぜて飲むのが部長のルーティンだった。
そんな声掛けをするなど山本らしくない。雑談という概念には彼にはないのだ。
山本は多趣味なのか、軸がぶれないのか、よくわからない。いつだって戦うフィールドを変えてきた。知識で勝てないならコミュで、無理なら教養で、数学で、
彼はなぜ人見知りで人と話すのが苦痛なのか、ひとと衝突したがらし、そういった経験もないというのが理由な気がする。しかし、岩谷に言わせればそんなものは傲慢な嘘だ。ろくに人と話したことや衝突した経験もないのに自分には知識がないなんて言うな。
岩「山本、お前には行って聞かせる声を持っている」
昔から美声やったやん。
孤独を避け、コミュ力を要求する社会に違和感があった。図書館のとなりの人間など所詮他人事だ。観ているのは目の前のテキストだけ。孤独だからこそ何かに熱中するのだ。
「あとは法学検定、中検、簿記2級で終わりかな。そこからは数学」
最近彼は休日に歩いていない。地域活動以外で歩くことが少なくなった。逆に言えば、地域活動に参加する機会が増えて、街歩きと兼ねることが増えたのだ。最近は神戸以外の都市を見てみたいと考えていた。飽き性に加え、他都市と比較したいという思いがあった。
唯一彼が良くいくところと言えば、大倉山の中央図書館であった。資格マニアたちが集う場所だと勝手に考えている。そのうち資格マニアのコミュニティがあれば入ろうかなどとも考えている。
湊川神社を横目にハーバーランド駅へと向かう。
「よさげの本棚ありました」
電車待ちのホームでメッセージアプリを拓くとHCで購入した組み立て式本棚が、空きや特有の真っ白な壁を背に置かれていた。
「しかしそれでホンマに客が来るかやな」
長田駅は周辺人口のわりに書店が無いのが課題だという。山本らの交流拠点は住宅街の中の坂の上に位置している。人が来ないとそこから化学反応を起こすこともできない。
車両んの扉が開くと、彼は決まって車両の隅の方へ立つ。
山本の昨今の関心と言えば、空き家と商店街、団地再生であった。神戸のニュータウンは数えきれない。
その水曜はいつもの如く17時に退勤した。今日は満月だということすら、彼は忘れていた。
夕方夜に垂水を訪れるのは初めてだった。学園都市から乗り込んだ山陽バスから見える垂水の景色は、薄暗さの中に無数の戸建て住宅が浮かび上がっていた。パーティーの皿に並べられたチョコレート菓子のようだった。本多聞2丁目を過ぎると、狭い急坂をフルアクセルで駆けあがる。多聞台中央公園で降りると、すでに何人かが集まっている。
誰が主宰者かを見抜くのは、もう慣れた。
18時になるとギター演奏が始まった。地区センターの店内から音色が聞こえる。
垂「そういやこないだギターやってる加古川の学生に会いましたね」
「ギターか、そうやって常に自分アップデートできる人ってすごいですね。自分は自信ないなあ」
彼はTsシャツにサンダルで、そう返す。
垂「オールドタウンアップデートしている人が何を言うんです」
茶髪の女子がフランクフルトを齧ると、移譲閣の髪飾りが月光を反射する。
垂「何らかの『好き』が時代背景を超える『魔法』になりうるってその加古川の子は言うてましたね。」
山「それやったら、神戸の皆が魔女になってまうな」
多聞台の団体会長は、イベントで見かけた時と同様、長髪をまとめ、その性格とは裏腹に筋肉質を感じさせた。
山「月が美しいので、思わず来ちゃいました」
「こないだ元町のイベント来ていただいてありがとうございました」
垂「あら、まあ山ちゃんのことやとは思ったけどね」
山「夜勤からの昼勤明け? 珍しく背筋が崩れている」
垂「車庫から歩いた。月光を浴びてれば何か変わるかなと思ったけど何も起きへんね」
神戸で視察しようと思っているNTは3つある。多聞台、唐櫃台、有野台であった。
山「垂水はまたいつか来ようと思ってたが、歩く気になれんでな」
垂「なんであの日加古川におったん」
山「研修」
神戸でもまちづくりのプロジェクトは存在するが、しょっちゅうあるわけではない。市内でいいものが見つからない時は、他都市の活動へ出かけるのだ。
「『月見を見よう』なんてイベントに参加するタイプじゃなかったと思うけど」
「本当に月見目的できたとでも思っているのか?」
広場内に目を遣ると、子供の多さが目立つ。外国人と高齢者が会話している。
「手作りの仕掛けでここまでうまくいっているNTは、市内でもさほど多くない」
”仕掛け”を読み取るってのはそういうこと。
垂水っ子のしみずにとって、山本がNT論として指摘する光景は常に「そこにあるもの」だった。観察する価値すらないものだし、窮屈そうに丘陵に乱立する住宅街と郊外型の大型店、バイクに交じって走る黄色の路線バスと海峡大橋が彼女にとっての”世の中”だった。垂水や舞子の海に入るのはたいていよそ者で、区内の人間にとっては海は鑑賞するものだ。
弓子と出会ったのは、もう20年以上も前か。
幼稚園小学校のころから自分とはどこかが違うと感じていた。市内に雪が降る地域があるなど思ってもいなかった。茅葺屋根など、どこか遠い地理の話だと思っていた。急ごうとしない話し方と、苺の果肉のような赤い虹彩がそう感じさせたのだろうか。卒業アルバムというのはたいてい皆将来の夢を書きだすものだが、彼女は学年で唯一そういった内容を書かなかった。別に何らかの指定があったわけではないが。
「次は山田町に行く。茅葺ツアーを見つけた」
頼んでもないのに山本が見せた観光局のサイトには、淡河町で農村再興に取り組む男性が映っていた。いい加減ボロボロの携帯カバー交換したら?
「前から知りたかったんやがなぜバス乗るとき一番後ろ行くんや?」
「さあ? 職業病かな。全体俯瞰したいから」
そう言って車内で日本史教養を読んでいる。
「資格乱獲は続けるの?」
「や、知識より教養を磨く。ホンマに人を動かすなら教養がいる。」
何の目的無く労力費やすのは時間の無駄。紙1枚前面に資格とる理由かけなければ、受けない。
「あ、でも大学入試数学は趣味やから死ぬまで続ける。プラちかとか赤本とか大学への数学」
「プロジェクトXやっとるんか?」
教養だ知識だ学問だというのは役に立たない、とよく言われる。頭の良い読書と勉強の人間よりコミュニケーション力とチームバイト経験だと。確かに半分くらいは当たりかもしれない。が、彼なら4枚切りトーストほど分厚いFocus Goldでそういう勢力をぶん殴るだろう。使おうとしなければ役に立たない、数学や物理の法則と同じく、陰でそっと見守っているだけだ。しかし、活かそうと思えばいくらでも武器にできる。教養は視点を固定させず自由にしてくれる。SNSだとか蔓延る二項対立だとか世論に惑わされることもない。誰も気づいていない。
垂「すごいねそんなに忙しそうにしていて」
山「ワーカホリックがよう言うわ」
彼女は暇を何よりも恐れ、常にタスクに追われるを良しとしている恐ろしい若年女性だ。止まない到着アナウンスとともに異なる会社、異なる方面のバスがひっきりなしにやってくる神戸三宮のバス乗り場の如く、あるいは繁盛する飲食店の如く、半ばカオスで情報過多の環境と相性がいいらしい。ひいては寄せる波のように、仕事が終わったら次の仕事へ繰り出す。
SNSやネット上で検索バーに適当な言葉を入れ、関心のある記事を見つけようとするのは、自分が不満に思っていることや愚痴に大して賛同する意見を見て安心したいからだ。こんな世の中は不条理とか、同じ境遇にある人間のブログを見たりとか。しかし、その間の時間は何も生んでいない。ただ以前より憎悪や嫉妬に満ちた脳を残すのみだ。そういう話題はたいてい、自分以外の人間にすればどうでもよいことで、人生に与える影響は無視できるほど微々たるものだ。そんな貴重な暇あれば目の前を照らすことに血道を開ければよい。環境云々など彼女にとってはタダの言い訳である。言いたがり屋にいちいち取り合っているほど暇ではない。周囲の風景が、トーストの上のバターの如く溶けていく。
そんな姿勢が、山本から見た時にしみずが輝いてみえるのだろうか。しみずは色白でさほど運動しないのでそうには見えないが、山本にはわかる。手に触れると、血が小豆を煮る鍋のように沸騰していて、エンジン音が聞こえてきそうである。バスのヘッドライトような、あの鋭い目。周囲でああだこうだいう連中をすべて無視する。いや、そもそも意識の対象外だ。バスがうなり声で60km/hの高速で進行するとき、運転士が見ているのは過ぎ去ってゆく景色ではない、20m先の信号機だ。ソクラテスが衆愚を無視したのと同じだ。
今度有馬行かへん、と岩谷からメッセージがあった。割引チケットが余ったのだそう。
表情を変えず、温泉行くタイプやなかったやん、と西山は返す。
そういえば、山本は前から有馬に行きたいと言っていた。
岩「お前旅行好きには見えへんけどな。ずっと家にいるような奴なんやろなって」
山「旅行はいくで。昔幼馴染とよう親に連れられてあちこち行ってた」
話を聞いた山本は自室で以降の予定を考えていた。行くとすれば旅費の安い10、11月、あるいは年末休みに合わせていくとかか。こういう時、彼は決まって椅子に座らず部屋を歩き回る。逆に彼が歩き回っているときは無心で思索を巡らせているときだ。
山「3年ぶりか、プライベートで外泊するの」
ポートピアホテルは、岸田氏と中1の時に行った。山本はあえて、幼稚園時代から一緒だった彼を「岸田氏」と呼んでいる。年1で旅行に行ったりしていたのだが、2021年11月頃を最後に、彼とは会っていない。
後でゆっくり考えよう、と言って、彼はまた簿記のテキストを開く。
弓子は飼い猫の如くしみずにすり寄る。
せなかから方にかけて手を触れられると、頬の毛細血管に血が昇り、新造がチクチクし、余計なことばかり考えてしまう。彼女が巫女だからだ。あの紅い瞳のせいだ。もっともらしい理由を探す。呼吸が浅くなり、脳味噌が溶き卵のようにかき混ぜられる。自分にこんな感情が訪れるなんて、何も予期していない。
理論とスピリチュアル、これは対立するものではない。どちらかを理解するにはどちらかが必要となる。
「そろそろ介護を考えるときやな」
岩谷はまだ20代前半である。が、大学生から親の介護を考えていた。必要な資金額を調べたり、介護付き有料老人ホームのパンフや見学したりした。
別に親孝行なわけではない。単純にいつものせっかち癖が治らないだけである。
介護資金用の口座には、先月確認したら500万貯まっていた。
両親だ友人だを含め、彼にとっては自己以外は皆通りすがりの「他人」だ。特別な感情を抱いたことはない。
施設は山本がいくつか紹介してくれた。就職活動の時にインターンに参加したことがあるがこの会社は信頼できる、と言って、中央区の高級介護施設を勧めてきた。あいつの興味関心には驚かされることがある。
山田町の農村を歩く日の午前、時間があったのでいつものごとく大倉山へ。基本的に土日で二時間以上暇があればとりあえず大倉山に行くことにしている。休日は家にいないのが基本である。
向かったのにはもうひとつ理由があった。数学を解きたかったのだ。
以前までやってたけど最近で来てない数学したいなといいながら、最近何かと言い訳をつけて先延ばしにして来た。
「そうか、そうか相乗ってこんなんだっけ」
まず5分だけ考えてみる、でたいていさっぱりわからないから、答えを覗いてヒントを得る。
「さっぱりわかんない」を楽しむのが、数学の醍醐味ではないか。
そういや高校大学の頃、イラついたらとりあえず数学やってたっけ。
彼は高校大学を通して、ろくな記憶がない。常に何かに押し潰されるような気持ちがして、死んだ目であっただけは覚えている。笑ったことなどほとんどない。
唯一、彼が目の輝きが戻るのが、数学とまちあるきだった。学年ビリの苦手だったが、嫌いとかやりたくないと思ったときは一度もない。学期中講習を受ける前は、常にどこかワクワクしていた。
気がつけば、周りの席の人間が遠ざかり、脳内にBGMが流れ、火花が散り、全身の血が逆流するのを感じた。5年前、京大を目指して毎日6時まで図書室に残っていたときの、あの感覚。
「熱中するものがあれば人生は豊か」ということぐらい、心理学の本で何度も読んでわかっている。彼は資格だけは豊富だが、やっていてワクワクするものはほとんどなかった。予備試験のときも、会計士のときも、英検のときも、勉強を進めていたが、ワクワクすることはまずなく、たいていは眠気との戦いだった。
部屋を出て階段を降りるとき、彼は、ずっと探していた何かがようやく見つかったような気がした。こういうことなんやな。何やら若返ったきさえする。足取りが明らかに軽い。
「何て言う名言やったか、知らないこと、自然のわからないことを敬うってやつ」
世の中のことは理論通りに動いていないことの法が多い。理不尽なことも多い。理窟で全て理解できると思うより、どんなに技術が進んでも自然にはわからないことがあると思う法が良い気がする。
「智慧ある者の最高の喜びは、知りえることを知ろうと努力し尽くし、知りえないことを静かに敬うことである」
かつて弓子がふっと述べたゲーテの言葉の断片を思い出しながら、山本は三宮から64系統に乗り込む。
今夜は巫女と地下鉄(ユーライン)に乗って @aka5839
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