7
高圧的なノックの音にびくりとし、私はポットへと伸べかけていた手を止めた。一袋で二杯ぶんという触れ込みのティーバックで、ちょうど一杯目を作り終えたところだった。すでに中身が満ちているほうの紙コップを琉夏さんが迷いなく手に取って、「開いてる」
強くドアが押し開けられた。ぶわ、と風が起きて私の頬をなぶる。
「――ずいぶんな真似してくれたじゃない、倉嶌」
「これはこれは、演劇部部長殿。私たち、ちょうどティータイムなんだけど。一緒にどう?」
「結構」澤城さんは部室の入口で立ち止まったきり、なかに踏み入ってこようとはしない。この空間が不愉快でならないらしく、強く眉を寄せている。「掃除ぐらい、いい加減にやれっての。それで、まだ話があるって、なんのつもり?」
「生徒会では喋りきれなかったことがあってね。あそこって楠原のテリトリーじゃん。あいつの一存で追い出されかねない場所じゃ、私もやりにくくてさ。ここならあいつにぎゃんぎゃん噛みつかれる心配はない」
ふん、と澤城さんが鼻を鳴らす。「あいつが喧しいのだけは同意してあげる」
「四角四面、けち、冷酷無比。でもあんたにとって、楠原のそういう性格は都合がよかったんじゃない? あいつだって内心では、百対ゼロで緒賀が正しいと思ってたはず。それでも楠原って人間は規則に逆らえないし、自分の感情とは関係なしに、手続きだけは粛々と進める。ここに新しい本棚を貰えることになってるんだけどさ、書類出したときのあいつの顔、傑作だったな。どん、とか馬鹿でかい音立てながら判子捺してたよ」
その様子を想像してだろう、彼女は幽かに唇の端を吊り上げた。「で、私は楠原のなにを利用したっていうの」
「あんたの目的は最初から、演劇部の分裂だった。正確にいえば、特定の人間を追い出したかったんだよ。あんたってそういう人間だもんね」
「部長!」
思わず私は声を張ったが、琉夏さんは飄々としたまま、
「自分が退部するんじゃ駄目、相手だけ退部させるんでも駄目。演劇ができる場所を二箇所用意して、自分は自分、相手は相手、それぞれが所属する集団に尽力して互いに干渉しない状況を、あんたは作ろうとした。勝手に同好会を立ち上げればいいって連呼してたよね。自分の動機を語ってたってわけ。そしてあんたが遠ざけたかったのは、真野さんだね?」
澤城さんの顔に驚愕の表情が浮かんだが、それも一瞬のことだった。彼女は答えず、普段通りの高慢な調子を取り戻して、「なんで。私がどうして真野を遠ざける必要があるの?」
「あんたって才能のない人間は大嫌いなタイプでしょ? 同時に、あるていど認めた人間はそれなりに遇しなきゃって思いを抱いてもいる。私の呼び出しに応じてくれたのが証拠だよね」
「――ほんと、あんたって嫌い」
「気が合うね。ともかくあんたは、真野さんの能力を高く評価していた。口で言うよりずっとね。惚れ込んでたレベルかもしれない。あんたは自分が抱かれやすいイメージ――高飛車で、センスがないのに口出ししたがりで、目立ちたがり――そういうすべてを利用して、演劇部を崩壊させようとした。実際にクーデターを起こすのは、緒賀でも誰でもよかったんだよ。真野さんが呆れ果てて離れていくのが、あんたの本当の望みだった」
「まだ答えになってないと思うけど」
ここで初めて、琉夏さんは短く口籠った。ややあって、
「あんたもなんだね?」
彼女の発した意味が私には理解できず、なんらかの説明が続くものと思って待ち受けていた。しかし琉夏さんはただ、無言で相手を見つめているばかりだった。
「血筋なの」長いこと静寂を維持したあと、そう澤城さんは言った。虚ろに笑い、続けて天井を仰いで、「一族に目を病む人間が多い。特に女。私もね、どこかで予測してたんだと思う。だって私が選ばれないことってないから。両親を問い詰めたら白状したの。生まれたとき、いずれ見えなくなる可能性が高いって宣告されてたんだって」
私は手にしていた紙コップを取り落としかけ、そういえばまだお湯を入れていなかったのだと今更のように気が付いた。こういう冴えない現実のなかだけに、どうして誰もが留まりきれないのだろうと思った。特別でなんかなくたって生きられるのに。
「私を気遣って隠しとくつもりだったって、馬鹿にするにも程があると思わない? 私の人生で、私の光で、私の世界なのに。なにもかも全部、私のものなのに」
私の、と彼女は繰り返し、再び琉夏さんに視線を返した。平坦な蛍光灯のあかりの下でさえ、澤城さんの立ち姿は神々しかった。深い栗色の瞳は強い意思の輝きを湛えて、どんな闇でもひと睨みで霧散させてしまえそうに見えた。瞼が下り、私の視界からその輝きが消える。眦を涙が伝う――。
「もしかしたら一生なにも起きなくて、なんだ心配して損したって思いながら死ねるかもしれない。でもそれは、ひとつの希望でしかない。可能性でしかないものに、あの子を付き合わせられない。だって真野千織は本物だから。才能を見抜けずに取りこぼしたなら、自分の愚かさを嘆くだけで済む。だけど真の才能を己の手のなかで腐らせるなんて、私には許せない」
「勝手です」という叫び声とともに、なにかが鞠のように飛び出してきたので、私は危うく椅子から転げ落ちるところだった。ぽかんと口を開いて固まっている澤城さんの真正面で停止し、またしても、「本当に勝手です、あなたって人は」
真野さんだった。部室の奥、琉夏さんの築いた聖域に最初から身を潜めていたのだと、私はようやく悟った。日々重厚感を増して要塞化しつつあるあの場所は、部室の入口付近からでは内部の様子がまったく分からないのだ。
「私が腐るとか腐らないとか、なんであなたに決めつけられなきゃならないんですか。なんにも知らないくせに。私のことなんか、なにひとつ分かってないくせに」
普段の彼女からは予想もできない、凄まじい権幕だった。突然の出来事に完全に面食らったらしく、澤城さんはしどろもどろに、「なんで、あんた」
「倉嶌さんに招待されたんです。真実を知ってほしいからって。びっくりしましたよ。まだ受け入れられないくらいです。なにかの間違いじゃないかって思ってます。でもきっと、どれだけ考えたって私の結論は変わりません。私は澤城円のために脚本を書きつづけます。喜劇でも悲劇でも、どんな物語だって、ペンを握ったら最後、あなたのことが頭から離れないんですから。こんなふうになるなんて、考えてもみなかった。だって私、演劇部に入るまで脚本なんて書いたことなかったんですよ」
「嘘でしょ」
「本当です。こう見えて最初は演技志望だったんですよ。ついでに秘密を教えてあげます。私、緒賀さんに憧れて演劇部の見学に行ったんです。平凡だなんてぜんぜん思わない。誠実で、勇敢で、美しい人。大好きです。でも変ですね、あなたを一目見た瞬間、ぜんぶ狂ってしまった。この人を自分の物語の一部にしたいとしか考えられなくなった。ほんと最低、最悪。なんでこんなことになっちゃったのかな」真野さんは指先で目元を拭い、澤城さんをまっすぐに見つめた。「やっぱり澤城さん、演劇部を辞めるべきなのはあなたですよ。そして私は後を追う。どこまでだって。同好会の名前、なにがいいですかね。文芸部で考えてもらえませんか」
小説家どうぞ、と琉夏さんが即座に役目を押し付けてきたので、茫然と話を聞いているばかりだった私は慌てた。文芸部員のくせに、琉夏さんは小説を書かないのだ。彼女の担当は評論。「ええと――澤城円さんと真野千織さん、一字ずつ組み合わせて真円、パーフェクトサークルっていうのは?」
「劇団パーフェクトサークル」響きを確かめるように発声し、真野さんは深く頷いた。「これから生徒会室に行きます。逃がしませんから」
言いおいて、悠然と部室から出ていく。澤城さんはしばらく、彫像よろしくその場で立ち尽くしていたが、やがて諦めたようにドアへと向かっていった。
「どうすんだよ」
と琉夏さんが尋ねたので、澤城さんはゆっくりとこちらを振り返った。透き通った顔に完璧な微笑を浮かべ、片眼を瞑ってみせながら、
「続きは、劇場で」
バイバイ、ビューティフル 下村アンダーソン @simonmoulin
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