そんな奴いない

後前未芥

第1話 否定マン

十二月十九日、午後七時。

軽い面接と、借金して集めた学費で入学した専門学校。

大金を払ってまで何を学ばされているのか未だに分からない空間を後にし、校舎の向かいにあるコンビニで、割引の唐揚げ弁当を買う。

大粒の雨が降り始める中、傘を刺し、一キロほど離れたアパートに向かう。

耳につけたイヤホンは、壊れてしまったのか、左右から流れてくる音量に差がある。

弁当の入ったエコバッグの中に雨が入り込み、小さな水たまりができている。

背中を丸め、俯きながら歩き、アパートの駐車場部分に入る。

それと同時に、地面と接触した足が予想外の方向に滑り、体のバランスが崩れる。

濡れた地面に腰が落ち、両手をつく。

持っていた傘と弁当の入った袋は自然と手を離れ、足元に投げ出される。

傘は開いたままコマのように地面を数回転し、弁当は蓋が外れ、中に入っていた五百円分の具が地面の砂利と絡まり合う。

「……」

 同じく砂利まみれの手でそれをかき集め、ゴミ同然となった空の弁当の器に戻し、袋に入れ直す。

 立ち上がり、横に落ちた傘を閉じる。

 自室に力無く歩きながら、左ポケットを探り、鍵を取り出す。

 そのまま錆びかけの鍵穴に鍵を強く差し込み、扉を開ける。

 誰もいない、暗く寂しい六畳半の部屋。

 扉を閉め、帰宅の言葉を発する代わりにため息をつき、呟く。


「死にたい……」



弁当だった物を袋ごとゴミ箱に突っ込み、気力を振り絞ってシャワーを浴びる。

冷蔵庫を開け、大量に詰め込まれた栄養ゼリーをおもむろに一つだけ手に取り、口に流し込む。

 食欲の失せた状態では、これで十分だった。

 そして、ベッドに倒れ込む。

 明日は朝早くからバイトがある。

 少しで疲れをとって……。


 もう何も考えたくない。


 目を閉じ、壊れたイヤホンをつけ、再びの音量をできる限り大きくする。

 早く意識を失ってしまいたい。

 ──死んでしまいたい。

 つまらない、色のない人生。

 生きているだけで精一杯だ。

 生きている価値を、自分に見出せない。

 自然と流れてくる涙を垂れ流しにする。

 手で拭うことさえままならないくらい、体に力が入らない。

 だけれど全身にしっかりと意識が行き渡り、頭は回転、思考を強制される。

 考えるのは大体毎日同じこと。

 なんで生きてるんだとか、将来の不安とか、恨みつらみばかり。

 もう嫌だ、こんな世界。

 疲れた。


 三時五十二分。

ベッドに入り、考え事を始めてから九時間。

奇田(きた) 乃波琉(のばる)は涙の乾いた跡を残したまま眠りについた。



──ピーーっ! ピーーっ!

不快な電子音が、奇田の無意識に割り込んでくる。

「うるっさいな……」

 乾いてひび割れた唇でそう漏らしながら、スマートフォンを手に取り、時間を確認しようとする。

 しかし、昨晩から充電していないスマホに光が宿るはずもなく、仕方なく充電用ケーブルを挿す。

 操作ができるようになるくらいまで、寝起きの奇田は身動き一つせずに待つ。

 ようやく画面に明かりがつき、表示された時刻を見て、奇田は目を見開いた。

 午前十時。

 バイトの開始時刻はとっくに過ぎていた。

 奇田は何とか上半身を起こし、壁を見つめる。

 そしてスマホを手に取り、電話帳の中からバイト先の電話番号を見つめる。

 ここまできたら休んでしまった方がいい。

 でなければ心が保たない。

「……」

 スマホをポケットにしまい、床に散らばった服から適当なものを拾い上げ、身に纏う。

 何日前からあるのか分からないペットボトルに入った水で喉に通し、奇田は家を出た。


「すいませんでした。すいませんでした。すいませんでした」

 道を歩きながら、情けのない発声練習を行う。

 胸の奥に重苦しい泥が詰まったような息苦しさを覚える。

 土曜日ということもあってか、すれ違う人たちの顔はどこか浮かれたような、余裕のあるような表情だった。

「乃波琉?」

 聞き馴染みのある、滑らかで美しい声が奇田の足を引き止める。

 顔を上げると、整った顔立ちの、奇田と同じくらいの背丈の少女と目が合う。

「カナミ?」

 肩甲骨くらいまでの長さの黒髪の中に、オレンジのメッシュを入れた少女は、名前を呼ばれると笑顔を作り、奇田に歩み寄る。

「いつもこのくらいの時間は家に籠ってるのに、どうしたの?」

「バイトだけど……カナミこそ何してるの? 今日のシフト同じ時間帯でしょ?」

「ん……? あぁ! なるほどね」

 カナミは口角をあげ、奇田の肩を叩きながら、

「今日は午前中はお店休みだよ。忘れちゃやってた?」

 二人は同じスーパーで働いており、今日は年末年始準備のために午前休業だった。

「そういえばそんな話あったような……」

「やっぱり忘れちゃってたか〜……ひょっとして疲れ過ぎだったり?」

「いや……」

「隠すなよ〜、私と乃波琉の仲でしょ?」

 カナミの両親は共に容姿端麗のエリートで、若くして起業、大成功している。

 しかしその分カナミとコミュニケーションを取る時間が不足していた。

 カナミはそれに不満を覚え、両親との仲は芳しくなかった。

 それもあってか、成績は校内トップレベルにも関わらず、問題児だったカナミは周囲に避けられ、孤立していた。

 そんなカナミに奇田が声をかけ、親しくなった二人は、そのまま同じ高校へと進み、今では学科こそ違うものの、同じ専門学校に通っている。

「また何かあったの?」

「別に……いつも通りだよ」

「あ〜……死にたい感じか」

 カナミは頬をかきながら困り顔を作る。

「どうして死にたいの?」

「……」

「また自己否定しちゃってる?」

 カナミの声音は優しいままだ。

「大丈夫だよ」

 奇田はいつも通り、分かりきった嘘をつく。

 カナミは優しい。

 乃波琉にとって、たった一人の友達だ。

「バイト無いなら、俺帰るよ」

 このやりとりは何回繰り返すのだろう。

「……うん、そうした方がいいよ。ゆっくり休もう」

「じゃあね」

「またね」

 きっと。

「もう私のいない所で自殺なんてしようとしないでね!」

 俺が本当に死ぬまでだ。

「わかってるよ!」

 奇田は親指を立て、カナミに笑顔を作った。


 帰宅する前に、奇田は昨日と同じコンビニに寄った。

 家には冷蔵庫に詰められた味気ないゼリーしかない。

 食べるかどうかは分からないが、買っておいて損はない。

 どちらにしろ、奇田は月曜日まで外に出るつもりもなかった。

 商品棚の端に寄せられていた百十円のパンを引き抜き、レジに持って行く。

 土曜日だというのに、赤子を連れた女性しか並んでおらず、店内に他の客もいない。

 店側もそれを理解してか、店員はレジに一人新人アルバイターがいるだけだ。

 女性の後ろに並び、会計を待つ。

 その時だ。

「おい! 今すぐレジの金全部寄越せぇ!」

 刃物を持った覆面の男が大声でそう叫びながら店内に入ってきた。

 赤子は泣き叫び、母親は必死の形相でそれを宥め、アルバイターはパニックで泣きながら失禁している。

 そして奇田は、動けなかった。

 呼吸が乱れ、手足が震える。

 自分も人並みなのだなと思った。

「早くしろノロマがぁ!!」

 警察が来るのを恐れてか、覆面男は焦っている。

「大丈夫、大丈夫だからっ!」

 母親が耳障りな泣き声を撒き散らす赤子を涙目になりながらあやすが、覆面男はそれを睨みつけ、

「今すぐ黙らねぇと殺すぞ!」

 刃先を向け、呼吸を荒げる。

「お、おい! 言うこと聞けよ!」

 恐怖で息もままならないアルバイター、泣き喚く母子。

 そして、ただ立ち尽くす男子学生。

 覆面男の凶器が向かう先は明白だった。

 最も罪悪感が少なく殺せる相手。

 

 奇田の腹部を、刃物が貫いた。


 ふざけんな。

 奇田は恐怖や痛みよりも先に感じたものは、憎悪だった。

 刺した男にも、泣き喚く赤子にも、それを連れてきた母親も、対応の遅れたアルバイターも、自分がこんな目にあっているのに何も知らず、変わらない人たちも、虐待してきた父親も、それに黙って耐え続ける母親も、助けてくれない誰か全員も。

 生きにくい。

 何より、自分が嫌いだ。

「っ……死にたい」


 

 空が割れる。

 そして、何かが落下。

 半径四十三メートルが吹き飛んだ。


 奇田が目を開けると、周囲は瓦礫と血の混じった赤い煙に満ちていた。

 腹部の傷は塞がっている。

「は……?」

 理解できなかった。

 目の前には、アルバイター、知らない無精髭の男の頭が並んでいた。

「大丈夫かい?」

 背後から、聞き馴染みのないの声がした。

 反射的に振り向く。


「私の名前は否定マン! 君を助けに来たよ」

 マントを羽織り、マスクを被った華奢な少女が堂々と、まるでヒーローのように立っていた。

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