【短編小説】餓鬼と煙草

綿来乙伽|小説と脚本

餓鬼と煙草

「俺と一緒に死んでくれない?」


全てが限界だった。仕事や人間関係や心の痛みのような、名前を付けてもらえる概念だけじゃなくて、そこに派生している物語やそこから広がる感情が私を強く締め付けて、もう終わりにしようと告げられた。


怖い話やホラー映画に恐ろしさを覚えることはなかった。むしろ嫌悪感の方が強かった。それぞれに登場する目に見えない「怖い」とされている者達は、自分達がそのような存在だと思ってそこに在るのだろうかと考えてしまうからだ。所詮は地球にいるだけの人間に、それ以外の人間を虐げる権利なんてあるのだろうか。ただここにいるだけなのに、ここにいない人間が自分達と違うという感覚に陥る意味が分からなかった。今の時代は多様性を訴えることが増えてきたけれど、それはここにいる人間が生きやすい、自分が生きやすいがために名付けているものばかりで、ここにいない人間を扱った多様性はどこにも存在しない。その傲慢さが、私は嫌いなのだ。


ビルの屋上に上がった。ここはいつでも鍵が開いている。このビルで働く喫煙者達がどうしてもニコチンを欲するあまり、ドアも遠慮して開けているのだと思った。ガチャガチャと音を立てて体を揺すられるよりも、素直に鍵を解錠し、屋内と屋上の線を繋げてあげた方が身のためだとドアは知っている。

私は鼠一匹がようやく入れるほどの隙間しか開いていなかったドアに手をかけ、ギイという音を立てながら屋上に足を踏み入れた。辺りにはたくさんのビルが立ち並んでいる。私が立っているこのビルはこの中では小さくて、辺りのビルがこちらを見下しているように見えた。前に屋上に来た時、それが怖くて周りを見ながら固まってしまったことがある。残業という蛍光灯の明かりや、欲望という紫の看板、地獄という電光掲示板が、私を大きな膜で包もうとしていた。だからこそこの光に染まってしまおう、全てをこれらの光のせいにして消えてしまおうと思うことが出来た。


屋上の端にいる彼は煙草を吸っていた。夜になればビルの喫煙者はいなくなり帰路に着く。だから夜の喫煙者は珍しかった。彼は辺りのビルを見ていたが、私の存在に気付き振り返り、視線を空に移した。


「餓鬼が来る所じゃないよ」

「貴方は餓鬼じゃないの?」


彼の言葉に反抗したのは言葉だけで、手足は震え、ドアから離れることも出来なかった。馬鹿にされた気がして、制服のスカートの裾を握った。


「あー……餓鬼かも」


何しに来たの、と振り返った彼の左手には吸い殻に変わった煙草がいた。私は少しずつ、彼に近付いた。彼は、一年前まで同じ予備校に通っていた池田くんだった。


________________



「なあ、俺と一緒に死んでくれない?」


予備校の屋上で、彼は私に伝えた。彼は震える右手で、私の左手を握っていた。


「……死にたいの?」

「……分かんない。でもここからいなくなりたい」


私より少し背の高い彼の顔は見えなかった。目に涙を浮かべていたかもしれない。私は歳上の男性を励ましたり慰めたりする力を持っていなくて、自分の経験値や年齢を初めて後悔した。


「俺、もう限界なんだ」


私の左手に掛かる圧が強くなる。彼はそのことに気付いていないだろう。自分の弱さを出すことで震えが止まらないこと、自分よりも小さな手を壊れそうなほど握りしめていること、それを気付かれていること。

私も彼も限界だった。親の敷いたレールに快く乗っていたつもりが、いつの日か自分に合わせて出来たものではないと気付いた。親が、世間が通りたかったレールを設置されていただけで、幅も場所も立地も全て私ではなく誰かの物だった。彼は酷く頷き、私達は友達になった。


「君のことは好きだけど、好きって伝えられない。そんな資格、俺には無いから」


震えた手は、さっきまで私の手を壊そうとしていた手とは違う物に見えた。違う意識を持った違う生物。生きていたいと願っていた手が、死にたいと諦めの手に変わった。その瞬間、私の手から離れて、彼は屋上から姿を消した。


そんなことないよと言えば良かった。彼の好きが、一緒に死んで欲しいだったのなら、私も好きだと伝えていれば良かった。ここにいない人間への後悔が募って、まるで彼がいるみたいにビルの屋上に、煙草の吸い殻を持った彼が立っている。


「池田くん。あの時の答え、言えてなかったよね」


私は彼の目の前に立った。屋上の柵はいつ壊れてもおかしくないほど錆び付いていた。


「ねえ、もう一度言って」


彼は笑った。ずっと一緒にいたのに、彼の本当の笑顔に出会えたのは初めてだった。


「俺と一緒に、死んでくれない?」


ああ、その顔が貴方の本当の顔なんだね。あの時、一緒にいけなくてごめんね。これからは、ずっと一緒だから。私も貴方が、好き。

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