上手に息を吸って、吐けますように。

矢神うた

上手に息を吸って、吐けますように。

 人はなぜ誰にも教わらずに上手に呼吸が出来るんだろう。

 佐渡薫さどかおるは上手に息を吸って吐いて命を繋ぐ、他人から見たら当たり前のことが、ふと、たくさんの人間に囲まれた時、突然出来なくなってしまう。

 忘れた瞬間、うずくまっては両手を口に当て、呼吸の仕方を思い出せるように落ち着くのを待つ。

 その様子を周りから奇異な目で見られるのも苦しく、自分の心臓の音と視線に堪えられなくなるごとに、クラスから離れる日々を続けていた。


 以前、忘れ物を取りに放課後クラスに入ろうとしたら、クラスの中で男子クラスメイト二人に

「佐渡さ~身体大きいのにさっき虫の息みたいだったね」

 と意地の悪い笑みを浮かべて話されていたのを聞いてしまい、教室に入ることが出来ず、また呼吸ができなくなる前に、逃げるように教室を後にした。


 家に帰ってから虫の息と言われてのが引っかかって、衝動的にスマホで虫の呼吸器官について調べると、虫に、肺が無いことを知った。

 気門と呼ばれる小さな穴から酸素を取り込んでは二酸化炭素を吐き出し、肺の代わりに気管を使って上手に呼吸をしているらしい。

「虫のほうが私より上手く息しているんだな」

 じゃあ私の呼吸は虫以下か。

 苦笑交じりにスマホをベッドに放り投げると、投げた衝撃でベッド隣に隠していた茶色い紙袋が横に倒れ、中に入っていたワンピースが出てくる

 ネットのセールでこっそりと買って、まだ一度も袖を通していない白いワンピース。気まぐれで、そのワンピースを手に持ち、今ではすっかり埃の被った全身鏡を見る。

 百八十センチある長身と短髪。バレー部のせいで張っている腕と足。

 そもそも性別が男というだけで、学ランの上にワンピースを当てた私は、ずっと上手に息が出来ない。



 日曜日。

 梅雨が明けて、夏が始まろうとしていた新緑の輝くまぶしい朝のことだった。

 私はリビングにあるテーブルで食パンをかじりながらぼんやりとテレビを眺めていた。

 女性アナウンサーがいつもより早い海開きへの喜びについて伝えている。

 綺麗な張りのある声だった。くぐもった声を出す私とは真反対で、うらやましいとも思った。

 しかし喜々として伝える女性の笑顔は、ぶつりという音とともに、突然暗闇へ消え去る。

「薫、おはよう」

「……うん」

 振り返ると母が、眉間にしわを寄せながらテレビのリモコンの電源ボタンを押していた。

 母は、リモコンを机に置き、コーヒーの入ったマグカップを持って机を挟んで席には座らずに、私と向き合った。

 真面目な話が始まるのだろうと私は口をぬぐって、食パンを白い皿の上に置く。

「薫は学校で何がストレスなの?」

 真っ直ぐに見つめる母の視線に耐えきれず、俯きながら私は言葉を選ぶ。

「わた……僕、みんなと同じが、苦しくて」

「例えば?」

「学ラン、とか……」

「だったら転校でもして服装自由なところに行けばいいじゃない」

「そういうことじゃ、なくて」

 もちろん親にも誰にも私が女装をしたいと思っているなんて知らない。

 ずっと自分の性別が男子なのかも女子なのかもわからない。

 苦しくて吐きそうで、それでもどうにかみんなと同じになろうと頑張って、頑張ろうとして、また空気を吸いすぎてしまう。

 そう言えたらどんなに楽だろうか。

 何も言えずに黙っている私に、母は、大げさにため息を吐いた。

「早くどうにかしてちょうだい」

 私は自分のコーヒーカップのふちを指でなぞりながら、か細い声で「わかった」とつぶやいた。




 気の重い朝食を抜け出し、自室の戸を閉めてから、私はスマホを取り出した。

 自分の部屋のベッドに寝そべり、スマホでラジオ番組を聴けるアプリを起動して、ワイヤレスの黒のイヤフォンを耳につけ、選んだ番組は、「あちこちモーニング」。通称「あちモニ」だ。

 あちモニは去年の春から始まった日曜毎朝八時から十時までの二時間やっている地方ラジオ番組だ。

 パーソナリティである細井さんが毎朝朗らかに語り掛けるこの番組を聴くことは、朝の暗い気分を和らげてくれる、癒しだったのだ。

 今までは聴くだけのリスナーだったが、その日は何を思ったか、気分転換にラジオ番組にメッセージを送ってみたくなった。

 スマホの左上の時刻を確認すると、あと五分で番組が始まる。

 Xを開き、ラジオ番組専用のSNSアカウントを作ってみた。

 ハンドルネームに迷ったが適当に本名である「薫」から「かおるこ」として動かすことした。


 八時ちょうど、あちモニが始まった。

 細井さんのそよ風のように心地いい声が耳に届く。

「みなさんおはようございます! 今日もメールやXでたくさんのご感想お待ちしております~! Xではハッシュタグをつけて「あちモニ」で検索しますよ~! さて今回のトークテーマは「最近驚いたこと」です!」

 私は、投稿を作成する画面を開き、文面を作る前にハッシュタグをつけて、あちモニと打つ。

 どうせ読まれることもないだろうし、と高をくくる気持ちと、もしかしたらという期待を込めて投稿すると、その文面は案外早く私の耳をくすぐった。

「続いては「かおるこ」さんの投稿です」

 なめらかな声で紡がれた自分のハンドルネームが、イヤフォンをつけた耳の奥にまで流れこんだ驚きで大きくせき込んだ。

「『初投稿です。最近驚いたことは化粧水と乳液の他に導入化粧液もつけなくてはいけないということを知ったときです。高一でメイクも初心者なのですが、クラスメイトでおしゃれな人の言葉を聞いて驚きました』。「かおるこ」さん初投稿ありがとうございます~! 高校生って言ってたのでまだデパコスとかは難しいかもしれないけど、ドラッグストアでよく売ってる~……」

 細井さんが私の投稿で話を広げている。ラジオ番組に貢献できたことが嬉しくて、すぐさま「かおるこ」としてSNSのアカウントを開く。

『まさか、読まれるとは! 細井さん、おすすめの美容液も教えて下さりありがとうございます!』

 書いてから踊るように人差し指で投稿すると、私の投稿文に返信機能が反応した。

 この世の誰かが「かおるこ」の発言を見かけ、声を掛けた現実に驚いて恐る恐る送られてきた文面を読む。

『わたしも同じようにこの前驚いたので運命!? と思ってしまいました! スキンケアって種類多すぎてわけわからなくなりません?』

 送ってきたのはめいかと名乗るアカウントだった。

 突然の距離の詰め方には慣れがなく、私は戸惑ったが、自分のコメントが読まれた喜びの勢いでそのままめいかさんに「かおるこ」として返信した。

『めいかさんはじめまして! スキンケア一生わかりません……』

『わかります~! あっフォローしました!』

 SNSでの繋がりなんて初めてでどうしたらいいかわからず、とりあえず同じくフォローボタンを押した。

 彼女のくまの絵のアイコンをタップすると私が作成した「かおるこ」と同じラジオ番組専用のアカウントで、投稿内容もあちモニへの投稿か、他のラジオ番組への投稿だけがずらりと並んでいた。画像欄にはたくさんのカフェのケーキの写真や、購入した可愛らしいバッグやネックレスなどがキラキラと輝いていて、リアルとデジタルの境目があまりない印象を受けた。




 それから「かおるこ」はあちモニによく出没した。

 未だに学校へは十分に登校できず抜け殻のようだったが、日曜日朝の二時間だけ生き生きとした顔になった。

「かおるこ」は毎日学校生活で忙しいけど、日曜日はあさモニを聴いてからカフェのバイトに行っているという設定で文章をXで投稿している。

 トークテーマが「最近食べて美味しかったもの」というときはさも自分が食べたかのように

『バイトの先輩に連れられて行った銀座のホテルで食べたアフタヌーンティー! 全ておしゃれで凝っていたものばかりだったのですが、一番おいしかったのはイチゴのプリンで、先輩にまだまだ子供舌ねと笑われました』

 と投稿文を作成してみると、投稿文に細井さんから「あら可愛い体験談ね」と反応をもらい、SNSでは好感触なメッセージがめいかさんを筆頭に届いてくる。

 「ハプニング」というトークテーマでは

『遊園地でお化け屋敷に友達と入ったとき、出口に行けずに、二時間ほど彷徨い気付けばスタッフ口に入ってしまいました!』

 と書いてみると、また細井さんは笑いながら好んで読んだ。

 常日頃あさモニのための投稿のネタを考えており、思いつけば何をしていても手を止めて、スマホのメモに投稿に使えそうなネタを逐一書き込む癖がついていた。


 ひと月経っても私がスマホにかじりついて成り立つ「かおるこ」の発言は止まらない。

「かおるこ」として存在することはとっても楽だった。

 嘘はいけないことかもしれないが、誰も傷つけないみんなが楽しめる嘘だ。と、自分に言い訳をして、私がリアルでくすぶっていっても、デジタルなアカウントの「かおるこ」は輝きを増していく。

 「かおるこ」は愛されるのだ。みんなに求められる。その感覚が私の脳内も体内も快感でしびれさせた。

 深く息が出来る。私のいるべき場所はここだったのだ。

「かおるこ」を支持するフォロワーは、あちモニへの投稿だけで百人を超えて、いつしか誰にとっても私にとっても憧れの存在であった。


 DMを確認すると、めいかさんから通知が来ていた。

 あれからめいかさんとは時折、偽名同士でありながらも個人でメッセージを送り合っていて、ときにはめいかさんの初々しい恋愛相談も送られてくる。

 そんなとき、私は「かおるこ」として答えると、めいかさんは喜んだ。

 めいかさんは素直でいい人だった。きっと現実世界でも話し方は同じで、友達が多くて誰とでも仲良くなれるような人。

 今日送られてきた内容は「いつか双子コーデして歩きたいですね!」という嬉しい文面だった。

 私は「かおるこ」としては頷けるが、一生来ないだろうなと曖昧な気持ちになりながら「歩きたいです!」と文字を打って最後に微笑む顔文字をプラスした。




 日差しがカーテンを強く射していた土曜日の午後。

 父は休日出勤で仕事へ向かい、母は友人とランチだと言って家を離れたので一人で冷凍のたらこパスタをレンジで解凍してからゴムのような麺を啜っていると、スマホに通知が来た。

 送り主はめいかさんからのDMだった。

『この土日どちらかでオフ会をしませんか? 一度「かおるこ」さんとお会いしたいです!』

 地方ラジオ番組で知り合った仲なのだし、会える距離にいると思ったのだろう。

 人望があり尊敬する「かおるこ」に直接会いたい、ということか。

 そりゃあそうだ。私だって「かおるこ」に会ってみたい。

「会えるわけないじゃん」

 リアルで会えば、美しく社交的な女子高校生「かおるこ」ではない。私は身長だけが高い、気弱で心と身体がちぐはぐな佐渡薫なのだ。

 突然、現実に引き戻される思いでスマホを強くきしませながら握りしめる。

 行けたらどんなに良いだろうとも思った。

 けれど、きっとめいかさんは私の角ばった顔と一重の細い目を見たら落胆する。


 返信から逃げるように、なんとなくあちモニで検索してSNSを眺めていると、どこの誰とも分からないアカウントの発言に「かおるこ」という文字が見えたので、うっかり読んでしまった。

『あちモニで出てくる「かおるこ」って奴、絶対虚言癖だろ。朝から気持ち悪いんだよ』

 背筋がこわばった。

 アカウントを覗くと、私への言葉以外の投稿文が見つからず、わざわざこの発言ひとつするためだけに、作ったかのようだった。

 反射的に画面を叩き割るほどの強さで壁に投げると同時に耳鳴りが鼓膜を突き刺す。

 久しぶりに呼吸がうまく出来ず、ソファーにあるクッションを口に押し当てた。

 意識的にゆっくりと呼吸をしながら、抜けられない苦しさの波に飲み込まれる。

 深く息を吸い、息を吐くことを繰り返し、ようやく安定してからだらりと力を抜き、天井を見上げる。

 何もかも嫌になり、そのまま沈み込むようにソファーの上でまぶたをゆっくりと落としてしまった。




 母が帰宅してドアを閉めた音で目が覚めた。

「ただいま。あら寝てたの」

 時計を見ると、十八時頃。太陽はとっくに沈んでいる。

 ぼんやりとした思考で上半身を起こした私に、母は呆れたような顔で見つめていた。

「ごめん」

「謝ることないわよ。というかなに、あなた泣いているけれど」

「え」

 頬に触れると、確かに一筋涙で濡れた跡がついていた。

「なにか、あったの」

 母がしゃがみ込んで私の目を見ている。

 優しさは嬉しい。でもこの感情を吐き出すには、言葉がまだ見つからなかった。

「大丈夫。きっと嫌な夢でも見たんだよ」

 顔洗って来るね、とだけ言って、私はソファーから洗面台に移動した。


 顔を洗って、スマホを確認してみると、思い切り壁にぶつけた衝撃でケースはかけて、運の悪いことに、画面が下になっていたことで中央から左上にかけて蜘蛛の巣のようなヒビが入っている。

 恐る恐る起動して、人差し指で画面のヒビが入っていない画面に触れてみると、動作自体には問題が無いようだったので安堵する。

 しかし、さすがにヒビが大きい。

 保証サービスにもなにも入っていなかったことが災いして高くなってしまう金額と、世間的に休みの人が多い日曜日に修理をお願いしに店に行くには人混みを我慢しなければならない。

 想像するだけで気が重くなったので、とりあえず機能的には問題なさそうだし、また考えようと思った矢先に、待ち受け画面に現れていた通知に気付く。

 めいかさんからのDMだった。

『「かおるこ」さん? 大丈夫ですか?』

 既読機能があったので、見たあとになにも返信しない私が気になって連絡してきたのだろう。

 ちょうど、良い言い訳があったと思い、私は現状をそのまま返信することにした。

『ごめんなさい、さっきスマホを落として画面が割れてしまったので明日は修理に出さなきゃいけないの』

 うまくお断り出来たと思い、スマホを置こうとしたら、その間もなくめいかさんから返信がきた。

『だったらなおさら!! 私の働いている修理屋に来てください! 非正規店ですけど、腕は確かです! 今まで相談に乗ってくれたお礼として費用はいりませんから!』

 メッセージと共に送られた、お店までの道のりが載せられた「明華修理店」のリンク先を見て、家から歩いて二十分の距離にある場所だと知って驚く。

 ボロボロになってしまったスマホを無料で修理してもらうのと、私が想像違いの人だと知られることを秤にかけたとき、金銭的に余裕が無かった私に軍配が上がったのは修理してもらうほうだった。

『明日の十三時頃に伺ってもいいですか?』

『お待ちしてます!』

『ただ、とても驚くと思います、私文面とイメージ違うので……』

『ばっちこいですよ~!』

 そうだ。佐渡薫としてめいかさんと会って「かおるこ」の人生を終わりにしよう。

 短かったけれど良い夢だった。

 明日、めいかさんと会って「かおるこ」のアカウントを消すことにしようと決意して、最後の思い出にめいかさんに会いに行くことにした。




 朝、いつものようにあさモニを聴いたが、内容は全く入ってこず、コメントも投稿できなかった。

 その代わり、今日の服装についてずっと悩んでいた。ベッド横にある白いワンピースは見ないふりをする。

 結局、無難にラフな半袖ティーシャツにデニムパンツに履き替えて、昼ご飯を食べてすぐに、両親には図書館でテスト勉強をしてくると嘘を吐いて、外に出た。


 めいかさんが送ってくれた地図の場所は、駅の裏路地にある薄暗い小さいビルにあった。

 曇ったガラスの戸を開けて、入り口に設置された古びたエレベーターで二階に上がるとエレベーターの目の前に「明華修理店はこちら」と書かれ、小さくくまの絵も描かれた小さな看板が立てかけてあった。めいかさんのくまのアイコンはこれだったんだな、と気付き少し笑う。

 自分の左腕に付けた時計は十三時ぴったりを指していたので、一度深呼吸をして、恐る恐る中に入ると、店内ではやけにテンションの高い男女二人組が週末音楽ランキングを伝えるラジオ番組が流れていた。あさモニも仕事中にこうやって聴いていたのかもしれない。

 お客さんはおらず、道具が後ろに積み重なったカウンターには、椅子に座ってスマホを触っているオーバーオールを着た若い女性がいた。

 根元が黒くなりつつある金髪を一つで結び、肌は浅黒い。私を見るとつけまつげを付けた大きな目を何度も瞬かせた。

「いらっしゃい……ませ?」

 本当に私が「かおるこ」だと名乗って良いのだろうか、と思い言いよどんでしまう。

 ここまで来て、「かおるこ」は来なかったことにして、名前を伏せて偶然修理に来た人ということで終わってもいいんじゃないだろうか。

 私が後ずさりをしようとすると、突然両手で持っていたスマホが震えた。

 いつもの癖で通知欄を確認すると、ヒビ割れた画面の奥にめいかさんのDMの通知が表示される。

『「かおるこ」さん?』

 通知欄に並ぶ、めいかさんの送った文字列を見てから、こちらをうかがう目の前の彼女に私は小さくうなずくと、めいかさんの顔はぱっと華やいだ。

「会いたかった~!」

 もっと他に言うべきことがありそうなはずなのに、めいかさんはうさぎのように飛び跳ねながら私に近づいてくる。彼女の身長は私の腰あたりだった。

「初めましてめいかで~す! お茶入れてきますね! 座ってください!」

 めいかさんは心の底から楽しそうな笑顔を見せたので正直面食らった。

 おかしい、予定では私は今、ネカマだとか、嘘つきだとかと罵られ、追い出されているはずだったのに。

 彼女に勧められた緑色のパイプ椅子に遠慮がちに座ると、店の扉を閉めためいかさんは、急ぎ足で奥に入った。

「どうぞ! 暑かったでしょう!」

 すぐに戻ってきためいかさんから紙コップに入った緑茶を差しだされたので、おずおずと両手で受け取った。

「ありがとうございます」

「いえいえ! 画面割れちゃったんですよね。お預かりします!」

 めいかさんに促され、私はスマホを差し出すと、彼女はうやうやしく持ちながらも真剣に見つめた。

「三十分くらいで修理出来るんでちょっと待っててくださいね!」

「よろしくお願いします」

 早速修理作業を始めためいかさんに、作業の邪魔になったら悪いなと思いながらもどうしても気になって声をかけた。

「私……きっとめいかさんの予想とは見た目が大分違う姿だと思います。驚かないんですか」

 重く、低い声で私は問いかけた。

 背も高く、筋肉質のがっしりとした肩幅を、現実では隠し切れない。

 めいかさんの瞳に映る私はひどく威圧感があり、雄々しい私であろう。

 それなのに、めいかさんは一切気にしてはいないようだった。

「あっはは、雰囲気はイメージ通りですよ」

「雰囲気?」

「優しそうな人だな~って」

 あっけらかんと笑いながら彼女は私のスマホの画面を取り外していく。

 彼女の言葉が信じられずに、持っていた紙コップに力を入れる。

 私はカチャカチャと聞こえる音を背景に、ゆっくりと弁明し始めた。

「でも私、あちモニで話していたのもほとんど嘘なんですよ。本当は男子高校生で、クラスも馴染めなくて……」

「「かおるこ」さんとしてあなたが書く投稿、聴いていて楽しかったですよ」

 彼女はドライバーを動かしながら、私の言葉を遮って話し出した。

「聞き手を楽しませたいって思いでいっぱいで。だから細井さんだってラジオ内で選んで読んだはずです。DMでのやりとりも一生懸命わたしを励ましたい思いが伝わって。良い人なんだろうなって。でもどうして「かおるこ」って名前で活動し始めたんですか?」

 手を止めて、めいかさんは私の瞳を真っ直ぐに見つめたので、私はこれから食べられてしまう獲物にでもなった気分で委縮しながら小さく答える。

「本名の「薫」からっていうのと……小さくなりたくて「小」って」

「「薫小」で「かおるこ」なんですか!?」

 ケタケタと楽し気に言われたので自分でも顔から火が出るくらいに恥ずかしかった。

「身長、確かに高いですもんね。何センチです?」

「百八十センチ近くです」

「わ~お」

「体が大きいだけで怖いってイメージされるんですけど、そんなことなくて。むしろ怖がりです」

「あはは。「かおるこ」さんっぽいですね」

 スマホの画面がどんどん分解されていく。

 私も、私の心を整理するように、口に出していった。

「見た目がたくましいから、ずっと大きな身体らしいことをしなければ変な目で見られていたんです。今も勧められるままバレー部に入りましたけれど、本当は裁縫部に入りたかった」

「良いですね、裁縫」

「細かい作業が好きなんです」

 今めいかさんに初めて吐き出して気付いた。私が過呼吸を起こすストレスの原因は、私に求められているものが、自分の気持ちと反していて、ずっと無理をしていたからかもしれない。

 大きい身体ばかりが見た目を先導して、自分自身を出すことが出来なかった。

「だから、「かおるこ」はそんな私とは全く違う人になろうと思って作ったんです。ちょっと頑張りすぎちゃって、いつの間にか私でさえ手に負えないキャラクターになっていましたけどね」

 自嘲気味に言うと、めいかさんは新たな液晶画面に変更していた手を止めて、私を見上げた。

「「かおるこ」さんも「薫」さんの大切な一部ですよっ」

 がたついた前歯を見せて笑う彼女の笑顔に噓は無かった。

 めいかさんの言葉を受け止めた胸の奥がじんわりと温かくなって、私は話を続けた。

「それでも私、化粧とか、おしゃれとかの興味があるのは本当で」

「ですよね!? わたしよりもブランド知ってましたもん! この前「かおるこ」さんに教えてもらった落ちないリップ買ったんですけど発色すごく良くて最高でした!」

「買ってくださったんですか!?」

「次はおしゃれした「かおるこ」さんとまた会いたいです!」

 ぽかんと口を開けて、彼女の言葉を何度も頭の中で反芻する。

 数秒して理解し、また次の約束がある幸せを嚙みしめて、大きく笑みがこぼれた。

「……ええ、ぜひ」

 居心地の良い空間だ。心臓も焦ることなく規則的にとくとくと音を立てている。

 気付けば二十分近く話していた。スマホの修理も終盤に入っている。

 めいかさんによって布巾で磨かれたスマホが、私の元に新品同然の姿で戻って来た。

 光沢の見える私のスマホは、くすんで指の油まみれになっていた今までのものとは別物のようだった。




 日が沈んだ頃に私が家へ帰ると、机に置いてある「出かけます。夕食は買って帰ります」といった両親の書置きを確認して洗面所に向かう。

 手を洗うついでに、今まで目を逸らしていた顔をじっくりと見つめてみる。

 耳元まである硬い質の黒髪、寝不足でクマの出来た瞳、無精ひげに、顎に出来たニキビ跡。

 一通り確認した私は、手をタオルで拭いてからおもむろにカミソリに手を伸ばして伸びきった眉毛の形を整え、目元周辺の産毛も簡単に剃っていく。

 さらにはひげ剃りも取り出し顎に当てると、全体的に卵肌とまではいかないが、清潔さは取り戻せた。

 少し気分が乗った私はそのまま自分の部屋に戻り、クローゼットの奥深くにある化粧道具の入ったビニール袋を広げ、百均で買った折りたたみ式の四角い卓上鏡を開いて勉強机の上に立てる。

 化粧水と導入化粧液、乳液で潤いを保ち、リキッドタイプの下地とファンデーションを塗って、目元のクマとニキビ跡はコンシーラーで隠す。

 化粧崩れ防止用のフェイスパウダーで肌の呼吸を止めるごとに、不思議と私は深く呼吸がしやすくなった。

 ピンク色のアイシャドウを塗って、アイライナーで目元を描き、つけまつげを付け、チークもリップもローズ系の色を塗る。

 あらかた化粧が終わり、私は着る機会を失っていた、こっそりと隠し持っている白いワンピースを紙袋の中から手に取る。

 初めて袖を通すと、肩幅が隠れるゆったりとしたものだった。

 さらに、奥にしまっていたロングの茶髪のウィッグをつけて、改めて洗面所に向かって鏡を見つめる。

 私は、「かおるこ」も呑み込んだ「佐渡薫」になった。

 私のための「私」になった。

 不意に、私は「私」のまま、外へ飛び出したくなった。


 玄関の靴箱から、白い箱に入れたままのシルバーのパンプスを取り出す。

 ストッキングを履いた自分の足を滑り込ませると、ヒールが高いものだったのか、より視線が高くなる。

 一瞬迷うような気持ちが頭を横切ったが、今までのように俯かずに無理やり前を向いてみた。

 心と身体がちぐはぐではなくなる感覚が私を覆う。

 自分の背丈も、なりたい私の像も否定せずに、私は「私」でありたいと願った。

 緊張を振り払うように浅く息を吸ってから吐き出すと同時に、ドアノブを押して外に出る。

 歩き慣れないハイヒールのかかとがじんじん痛む。足の皮もめくれて、血もにじんでいるかもしれない。

 それでも、今までの痛みを思い出すように歩き続けた。

 不思議と口元は緩み、今まで必死に縮めていた背筋も伸びていく。

 私は息を吹き返すように、夕暮れ時の澄んだ空気を肺にいっぱい溜め込み、思いっきり吐き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

上手に息を吸って、吐けますように。 矢神うた @8gamiuta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ