子供の頃に心が壊れて大人になって人を殴りました

逆おにぎり

子供の頃に心が壊れて大人になって人を殴りました 短編

 生まれた時からなのか、ある時を境になのか、拭えない違和感と自分から見ての周囲の不自然さをずっと抱えている気がする。28歳、周囲から見れば”大人”なのかもしれないが精神的には若輩も若輩である。しかし長いのか短いのかよくわからない28年という期間の中で人並み以上に心がへこたれてしまったことが恐らくは多い。


 1995年生まれ、男性。阪神淡路大震災の起きたその年にこの島国の片隅で生を受けた。出生時体重その他至って健康。母子ともに予定通りの退院。保育園や幼稚園に通っていた時の思い出は今もかすかに残っているが、お遊戯会、お泊り会、みんなで鶏を飼育していたことなど楽しかった事しか覚えていない。毛色が変わってきたのは小学二年生から地域のスポーツ少年団でサッカーを初めた時だと思っている。いいコーチだった、良い監督だった。しかし、私自身が気弱で暗い性格のためか試合でミスをしたり気の強いチームメートと練習でコンタクトプレーをした時、かなり強い言葉や侮辱を周囲から受けた。その時の私には”反撃する”という選択肢がなく、ひたすら圧力に耐え悔しくて涙を流すことしかできなかった。私は当時から今に至るまで性格は気弱で臆病ではあるが、身長が高かった。が、当時はかなりのやせ型であり、その姿を私の名前をもちいて「OOエイリアン」と言われていた。繰り返しになるが本当に悔しかった。いくら試合に出ようとも、いくら表彰を受けても、一度できた「皆であいつを攻撃しても構わない」雰囲気は確固として崩れることがなかった。

その時が違和感を自覚したはじまりだと思う。何故攻撃されるのか、なぜ侮辱を受けるのか、何故それを見ているだけの大人がいるのか、小学生ながら抱えた違和感。あるいは周囲への不信感。当時を振り返ると、自分に問題があったのかもしれないし、コミュニケーションが元来苦手な性質なので小学生という善悪や個性についての理解が成熟していない集団の中では浮いてしまっていたような気もする。

しかしそれでも攻撃対象にされていたことは悔しく感じるし、今の自分の立ち回りの根底にあるような気持ち悪さがある。所謂「ガリガリ」体型の自分は特に暴力による脅しも受けやすかった。

サッカー部のほかに、小学校生活の中にも今でも鮮明に思い出せる出来事がある。

小学四年生のある日の終わりの会での出来事だった。よくある係分けの「生き物係」であった私は当時教室で飼育していた金魚の餌やりや水替え、水槽の掃除を同級生のS君と二人で担当していた。S君とは関係性もよく、”普通”に係の作業をこなしていた。そして件の終わりの会の日、担任の先生から本日水替えをしていないことを注意された。実際、作業を忘れており、早く帰りたいであろう教室のみんなからの罵声を浴びながら二人で急いで水槽の水替えをした。一通り終わり教室に戻ると、もうクラスメイト達は帰宅していた。そして黒板は隅から隅まで私だけに向けた暴言や容姿を揶揄した侮辱の言葉で埋まっていた。S君に関するものは無かった。そしてその黒板の前で担任ともう一人、別のクラスの担任が談笑していた。


私は一人で黒板の文字を消し、泣きながら帰った。


また違和感。また不信感。正直、その時は暴言を書かれていたことやその内容についてよりも、”先生、教師”と呼ばれる立場を持つ大人がこの事態について気にも留めていない様子に対しての違和感が強く出ていた。


私が間違っているのだろうか。このくらいのことは耐え忍んで当たり前なのだろうか。大人のやることなんだからすべて正しいのだろう。

そう思うと自分の心の根の部分が腐っていくような、あるいは周囲による過度な剪定によりやせ細っていくような、そんな気分になった。


中学生に上がると、私はまたサッカー部に所属していた。最初はサッカーから離れたいと思っていたし、実際にそうしようとした。理科の授業が好きだったので科学部に入りたかった。

だが、”周囲の大人たちの親切なアドバイス”により私はまたピッチに立つことになった。

二年生でレギュラーになったとき、私の身長は176㎝になっていた。それに対して体重は50㎏と少し、まぎれもない「痩せ」である。

私はまたやり玉にあがる事となった。私はまた周囲に対して拭えない違和感を抱えることになった。私の体型でチームに迷惑をかけたか、サッカーも関係ないところで私が痩せていることにより誰かに不利益を生んだか。当時の私には分からなかったし、いまも自覚はない。それでも最後の夏の大会までやり切り、ようやく競技から離れることができるようになった。


そして高校では晴れて帰宅部になった。また攻撃されることもあったが、断然ましに感じた。


高校一年生の冬休み、いまでも鮮明に覚えている。最初の人生の分岐点。


長期休暇中の課題の中に自己採点する国数英の模試があった。


それを解いた。自己採点をした。答えを確認して間違いの部分を頭に入れた。


何十回も。


変わることのない同じ模試の問題。そして一つしか解答用紙がないので都度消しゴムですべて消してまた解いた。自己採点をした。答えを確認して間違いの部分を頭に入れた。


何かがおかしくなった。


国語であれば漢字一文字線一本、文章の回答は一言一句。

数学であれば途中式の導出、解答の順序。

英語では文法,意味、綴り(これは解答としては当然ではあるが)

更に定められた時間を1秒でも越える。

すべてが完璧になるまで終われなくなった。終わらなかった。


違和感。自分の中で何かが現在進行形で壊れている。


壊れた理由。

それは今に思うと「失敗への恐怖」の蓄積だったと思う。


失敗=攻撃の的になる

失敗=周囲の”親切な大人たち”からの多種多様な助言を受けることになる

失敗=自分に価値がなくなる


その蓄積が自己採点の模試というあまりに些細なきっかけで爆発した。


数年後、適応障害及び不安障害及び強迫性障害と診断されるが、当時は訳が分からなかった。

明らかにおかしい。絶対にここまでやらなくてもいい。それは理解できていた。

なのに完璧になるまで繰り返す。起きてから寝るまでほとんどの時間をその”作業”に費やす。そして高校一年生レベルの模試でも一言一句すべて完璧な回答を”暗記”し時間内に用紙に書き込むことは不可能に近い。

冬休みがはじまり終わるまで繰り返した。痩せるというよりかはやつれていった。

両親は精神的な病気についてあまり知識がなかったようだ。責めるわけでもないが両親ともそういった病気からはあまりにかけ離れた人生を送ってきたらしい。近くにそういった人がいたことが無かったらしい。気づいていないだけかもしれないが。

丁寧なことに誰にも自分からは言わなかったこの事態は”何故か”友人たちに広まっていった。友人。中学サッカー部のチームメイトや何かと茶化すのが好きな友人。

「○○ってノイローゼなんやろww」。何人かに直接揶揄われた。「ww」という表現がエッセイという場でふさわしいのかは不明であるが感覚的にはかなり実際の雰囲気に近いと思う。


まただ。違和感。そしてまたはじまった。


無論、仲の良い友人は普通に接してくれた。感謝しかない。

反面、「自分のことはさておき」人のことを攻撃したり馬鹿にするのが好きな”友人”は「攻撃しても文句を言わないやつ」を再度認識でき、実行できることに嬉々としていた。また悔しかった。仲の良い友人の励ましが聞こえなくなるほどに攻撃したい友人の声は大きかった。

当時身長184㎝体重62㎏。声の小さな私は、物理的にも反撃ができない、しようと思わないくらい痩せていた。


突如発現した精神症状。やまない”一部の人間”からの嘲笑。反撃により、弱さのレッテルを剝がすことはほぼ不可能。

なにかに没頭しないと本当に気が狂いそうな日々が続いた。そして没頭するなにかは突然、当時の担任により示してもらえた。


バレーボール。いきなりの新天地。高校二年生からの挑戦。

担任曰く「身長高いし向いてるやろ?」と軽く勧めたつもりであったらしい。


男子バレーボール部の顧問との面談を経て即入部、翌日から練習に参加した。

バレーボール部のチームメイトはみな優しかった。久しく忘れていたスポーツへの情熱と没入感がよみがえる。

無論どの競技にも共通して言えることだが、初心者が経験者の中に飛び込んですぐに活躍できるほどスポーツは甘くない。入部間もないころに練習試合のピンチサーバーとして24対22の場面で投入され、放ったサーブは力なくネットにも届かなかった。一人、経験不足を補うため女子バレーボール部の練習にも参加した。本当に、本当に悔しかった。だが、この悔しさは今までの攻撃され、反撃もできない状況とは違い、「やるしかない」と覚悟を決める必要な悔しさだった。


バレーボールに没頭した。授業が終わりそこから毎日3時間の練習。帰宅してからは近所の公園でひたすらトスと壁打ちの練習もした。土日も練習、試合。

楽しかった。

何か月後かには試合に出れるようになり、公式戦の緊張感や練習試合の「何を試そうか」というワクワクした気持ち、そのすべてが壊れた自分をほんの少しづつ修復していくような感覚だった。


数回、揶揄うことが大好きな友人たちが練習中、体育館の小窓から覗いていたのがわかった。授業が終わり帰ってもやることが無いからまたサンドバックを叩きにいこう。主観ではあるがそういった趣旨だと私は捉えた。しかし、意にも介さず私は練習に打ち込んだ。正確には意にも介さず練習を続ける姿勢を見せることで見返すことができると思った。


少し期間が過ぎた後、揶揄うのが大好き”だった”友人たちにご飯に誘われた。ファミリーレストランで何人かで集まった。


「○○ってアルバイトしてないから金ないやろww」そんなことを言われた気がする。「ガリガリでもバレーボールならできるんやなww」。


憤った。 違和感。


見返したつもりになっていた。今の言葉でいうとマウントをとられた。

スポーツがまた好きになり、没頭している人間に関係のないところから揶揄われる気持ち悪さ。周囲の不自然さ。なんと自分が返したかはもう覚えていないがそこから彼ら”友人”との関係は切れていった。


大半の人がそんなこと気にするな、と思うだろう。しかし当時の私にはまたショックな出来事であり修復中の心に不純物が混ざったような感覚になった。


さらにバレーボールに没入する。


三年生を迎えるころには強化合宿などにも参加するようになった。

仲のいい友人との関係は良好そのものであり、お互いの大会に応援に行き合うなど楽しいことも多かった。


だが、三年生の秋口、春の高校バレー予選直前にまた心が壊れるような出来事が起きる。

練習中に右肩の安定感が無くなり「ゴリッ」と激痛が伴う音が鳴るようになった。

それでも予選に強行出場したが第一セットを終えた時点で右肩が挙がらなくなり、交代を余儀なくされた。最後の大会は初戦敗退。泣くような悔しさも味わうことなくあっけなく高校バレーが終わった。

病院での診断は右肩関節唇の損傷。関節同士を繋ぐ膜のような軟骨組織が破れてしまっていた。原因はオーバーワーク、そして痩せているが故の筋肉による保護が不十分だったこと。手術は回避することになったが関節の中に潤滑の役割を果たす薬液の適宜な注射とリハビリがはじまった。

同時に大学への進学も本腰を入れて取り組む時期になった。工業高校だったため、周囲は早々に企業から内定をもらい、仲のいい友人も、揶揄うのが大好きな友人もみな残りの高校生活を存分に楽しんでいた。


大学に行くことも、リハビリをして競技復帰を目指すことも一部を除いてみな多種多様、十人十色に否定の意見を並べてくれた。特に再三の登場になる揶揄うことが大好きな友人と聞いた覚えがないのに”親切”なアドバイスをくれる大人たちの声は大きく聞こえた。


また違和感。そしてその正体に少しずつ迫ってきているような朧げな感覚。


結局、大学には一般推薦受験で合格し、地方の国公立大学へなんともあっけなく進学することになった。あっけなくと書くと簡単に思えるがあくまで周囲から見たらそう見えただろう、と思うだけで私なりの努力は惜しまなかった。


大学入学と同時にバレーボール部の練習に参加した。工業系の大学ではあったがスポーツ推薦制度もあり私以外の部員は皆輝かしい実績とそれに違わない実力を持っていた。練習は週六日、残りの一日は公式戦か練習試合。スポーツ推薦組は工業学科ではなく、競技に専念できる用負担の少ないスポーツやマネジメントなどの学科が殆どであった。ただでさえ実力で劣る私は更に工業系の科目を勉強しながら練習についていかなければならなかった。


そして大学一年生のゴールデンウィーク、右肩の怪我が再発する。


もう駄目だと思った。怪我がなくとも相当な努力を積まないとレギュラーなど夢の話のような環境なのに、ブランクが空くことは引退の勧告に等しかった。


没入するものが無くなってしまった。肩のリハビリはしているが心が折れてしまった。当時身長186㎝対して体重64㎏。筋肉がつきにくい自分の体を呪った。


人生二回目の大きな分岐。


精神障害がみるみる再燃していった。


涙を流す日も少なく無く、ひたすら単位を落とさないための勉強をするだけの日々。


モチベーションなどなく、留年への恐怖から強迫観念に襲われ、また異常な精神状態で勉強を続けていた。


とある日、同じ学科の友人とゲームをした。その友人は所謂オタク、であり、スポーツの経験がほとんど無かった。こうは言っているものの私自身もサブカルチャーは大好きであり、れっきとしたオタクであり、そしてその趣味自体を否定する気も更々ない。


その日は対戦系のゲームで遊んでいた。慣れ親しんでいたゲームだったので、殆どのマッチを勝利していた。

その時、その友人が一言、「現実の喧嘩なら俺が勝つのに調子に乗るなよ」、そう言った。スポーツ歴もなく、トレーニング等もしていなかった彼が突然口調を荒げ暴力的な脅し文句を放った。挑発などはしていなかった故に、何故私は小学生のころから今に至るまでずっとひたすら攻撃的なことを各年代、付き合う人間が変わっても言われ続けているのだろうか。そう疑問に思った。


違和感。その核心が近い。


相も変わらず、精神障害は私の心を蝕み続ける。肩の怪我は時間をかけて良くなっているがバレーボールに復帰する気はもうなくなっていた。


高校一年生の冬を思い出す。あの時はバレーボールに救われた。

また何か自分を奮い立たせなければ心が死んでしまう。


突飛としてボクシングジムに入会の手続きの電話をした。やせ細り、力の弱い私は強さに小さなころから憧れていた。


ボクシングに取り組む日々がはじまった。


無論、私のような才能と根性のなさでは厳しい世界である。

それでもまたスポーツをできる喜びがあった。

一年程度通ったある日、ジムの方から紹介で空手、キックボクシング、総合格闘技を教えている道場に体験練習に行った。即日そこに移籍した。


人生三度目の分岐点。二人の感謝してもしきれない師範代との出会い。


とにかく食事を沢山とった。更にはプロテインもタイミングを考えて摂取した。

全体練習の後、居残りでサンドバックを打ち続けた。

ウエイトトレーニングにも取り組むようになった。

技術練習、サンドバックによるフィジカルの強化、ウエイトトレーニングによる馬力の底上げ。

大学四年生になるころには身長189㎝体重94㎏になっていた。30㎏の増量。見た目以上の変化を自身で感じた。


しかし、私には格闘技をやる上でとして最も必要なものが欠如していた。

心技体でいう所の心。根性と勇気と闘争心。圧倒的に不足していた。

3年間趣味とはいえ格闘技をやってきて一度も本気で闘ったことが無かった。怖かった。


そしてその日は突然来る。


道場にはプロは少なかったがアマチュア選手は多く在籍していた。

私の後から入ってきたO君は経験は少なかったが凄まじい根性があり、普段は優しく、尊敬していた。そして仲も良かった。

O君はある日スパーリングをしていた。防具をつけているものの立ち技ルールでの本気のスパーリングである。そして経験が豊富なアマチュアの選手に酷くやられていた。O君が倒されたとき、中断し、幸いダメージは少なく怪我も酷くなかった。早めのレフェリーストップが本当に功を奏した。

問題はそのあと。相手が笑いながらO君を挑発した。そして私に向かって「見てるだけか?デカいくせに」と言い放った。


違和感の核心。ずっと臆病が故なされるがまま、言うことを聞いてきたまま過ごしてきた人生。その代償。「あいつは反撃がないから攻撃しようぜ」に対して本当に反撃が無かった故、あらゆる人に言いたい放題言われ、それを許す風潮を自ら作っていた。作ってしまっていた。親しい人が苦しそうな顔をしていることでようやく気付いた。


何かが吹っ切れた。


防具をつけその相手と相対する。体格は自分が有利。そのほかはすべて相手にアドバンテージがある。しかし、怒りが自分を奮い立たせる。


開始のブザーが鳴る。

最初の攻撃は決めていた。相手に合わせて柔軟な対応など自分にはできない。

何度もサンドバック相手に繰り返した1,2,ボディ。基礎中の基礎。師範代にミットを持ってもらいやる勇気のないくせに実戦を想定した自分の距離でのコンビネーション。


サンドバックに打つようにそれを繰り出した。


左のボディショットの感触は今でも覚えている。スパーリング用14オンスの分厚いグローブ越しの芯をとらえた感触。


開始10秒弱、相手はわき腹を抑え倒れ伏して私の初陣は終わった。


それからはその相手共々良好な関係になった。認められようとするのではなく認めさせることも時には必要であると痛感した。

大学院にあがっても格闘技は趣味として続けた。決して選手になれるような器ではなかったがスパーリング交流会にも参加したりするようになっていた。


身体が大きくなってから地元に帰った時、揶揄うのが大好きな友人たちと久々に出会ったがなんだかよそよそしく感じた。単に久しぶりだったからかもしれないが、もう揶揄われることはなくなっていた。


身体が大きくなったから攻撃されることが無くなったのではなく、ほんの少し自信がついていたからもう攻撃対象から外れたのだと思っている。


社会人になってから実業団でバレーボールを再開した。格闘技も就職先に近いジムで細々と続けた。


数年たったある日、バレーの練習で大怪我をした。左前十字靭帯と内側副靱帯の複合損傷及び半月板の損傷。全治約二年。競技は引退。


私は今、不自由になった足で自由に人生を歩いている。



流石に何も言われたことを聞かないと立ちいかないので注意しているが。



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