やなぎらっこ

第1話

「この話は、しない方がいいかもしれないが」

 前置きして、その人は話し始めた。


 ライブの打ち上げで訪れたその店は、極端に暗い照明の中、ロック調の讃美歌が爆音で流されており、スタッフなのか関係者なのかお客さんなのかわからない人たちが狭い店内を浮遊するように漂っていて、自分は呼ばれたから来たライブの出演者ではあったのだが、知り合いは誰も居ないし何しろ薄気味悪いから、もう帰ろうかと思っていた。

 ちょうどその時に、背後から肩を軽く叩かれたので、振り返ると、どこで会ったかわからないが、確かに見覚えのある顔の持ち主が立っていた。

「やあ!久しぶり」

「あ、どうも。しばらくです…」

 自分はその人の名前も会った場所も思い出せないでいたので、相手が何かを言うのを待とうと思った。ところが、その人は口角を上げ笑みを浮かべたまま何も話し出そうとしない。自分は沈黙が苦手な方である。慣れ親しんだ家族や友達の間ですら、沈黙が怖くて興味のないYahoo!トップニュースなどを読み上げてしまう。ましてや名前も呼びかけられない相手なら尚更である。自分は仕方なく口を開いた。

「どだい、今日のライブは徹頭徹尾パンクな成り行きでしたね。釈迦無行さんの演奏といったら弾いているというより、ぶち壊していましたし。そもそも、弦がひとつも張られてなくて。あ、あのギターは26万円らしいですよ」

 両頬に笑みを貼り付けたその人は、ウンウンと頷きながらも押し黙ったままである。

「アメリカ帰りのボーカルの彼も、流血が酷すぎてせっかくの整ったお顔が台無しでしたね。あとMCのスラング英語はかなり危険な内容で、テレビだったらずっとピー音が流れっ放しでしょうね…」

 自分は2度ほどしか見たことのないバンドの噂話を、得体の知れない相手に対して続けることが少々苦痛で、また同時に、自身が矮小で卑俗なモノに感じられたため言葉を詰まらせた。

 すると、漸くその人は口を開いて冒頭の言葉を発したのだ。

「この話は、しない方がいいかもしれないが」

 自分は思わず身構えた。今日のライブパフォーマンスへの批判だと思ったのだ。与えられた30分間の持ち時間、自分は延々と同じリフのインストゥルメンタルを演奏していた。20名弱の客は何かが始まるのを期待して10分程は黙って聴いていたが、やがて待っていても何も始まらないことを悟った様子で隣近所の人間と勝手な話をガヤガヤと始め、ステージに飲み終ったプラスチックのコップを投げつける輩までいた。澱んだ空気の中、緩みきった時間だけが無為に流れていった。

「其れは、ある意味『怒り』という自然発生的に生じる人間の原生的な感情の顕れを、あの場で人々に喚起したかった訳で、ある種のアート感?みたいなものを自分は既視的に表現してみることに挑んだ前向き、且つ前衛的な演奏であったから此れは己への革命っつうか、云々…」と、自分は批判された時の言い訳を胸の内で考えていた。

 だが、しかし、その人の話は全く予想外のものだった。いわば、ストレートかカーブしか想定していなかったのに、ナックルボールきた、みたいな。

「先日、貴女とNさんを見ましたよ。鴨川沿いを歩いてましたね、親しげに」

「はぁ。いえ、そうですね。偶々。あの、烏丸通りで出くわしたもので」

「座りますか?」と、その人は暗がりの方向を指して尋ねた。

 促され後を歩いている時、自分は唐突に今朝家で飼っているデメキンが水面に浮かんでいた景色を思い出した。『クロール』と名付けられたそのデメキンは昨夜までは元気よく泳いでいたのに、今朝は白い腹を見せて浮かんでいたのだ。毎晩エサをやるのを楽しみにしていた夫は、きっと悲しむだろうなと思った。

「Nさんは、最近書いてらっしゃるんですかね?」

 椅子に座ったその人は、独り言のように呟いた。

「さぁ、知りません。昔のモノは随分と話題になりましたよね。私の学生時代でも熱狂的な読者の方はいましたし。あの…」

「Nさん、4度目の結婚なのはご存知ですよね?前の奥さんのことも?」

 自分は、話しているその人はNさん関係の人だろうかと訝ったが、Nさんとの共通の知人など浮かんでこなかった。というか、そんな人は居なかった。

「ええ。前の奥さんとは、其々うまくいかなかったようですね」

「3人とも亡くなっているのは、ご存知ですか?」

 自分はギョッとして、思わずその人の顔を2度見した。

「1人目の方は自殺です。2人目は車の事故死です。3人目の方は…」

 その人は、間を推し測るように口を一瞬つぐんだ。

「両手首がない状態で発見されました」

「ヒッ」という音が自分の喉から漏れた。

「変死とされ、警察もずいぶん調べたようですが、結局何も発見できず、謎のままです」

「そ、それ。本当なんですか?」

「1人目の奥さんとの間にお子さんもいるみたいですね。貴女にはおそらく言っていないでしょう。もう成人しているはずです」

 自分とNさんは、あるイベントで知り合い、半年前から2人きりでお茶を飲んだり、こっそり会って夜の散歩を楽しんだりしていた。自分の中に敬慕にも似たNさんへの恋愛感情があるのは否定しがたい事実で、夫への背徳感を覚えながらもNさんと過ごす甘い時間に酔っていた。Nさんの方も、ひと回り以上年の離れた女と付き合うことは満更でもないのだろう。喫茶店のテーブルの下ではいつも手を握ってきたし、別れ際不意に抱きしめられたこともあった。私たちは男女の関係に至っていないから疾しいことは何もない、とは言い切れない、グレーな関係であることは紛れもない事実だった。

「今の奥さんは、元々はNさん担当の編集者で経済的なサポートも含めずっと彼の創作活動を支援してきた方のようですね。ただ、あるトークイベントでは主催者とトラブルも起こしたこともありますし。まぁ、人間的というか、感情的な女性なのかもしれませんね」

「あの。失礼なんですが、あなたは」

 その人は問いかけには答えず、微笑んで言った。

「ああいう方に恨まれると、ずいぶんな目に遭うこともあるのかもしれませんね」

 自分は膝に乗せた自身の両手をジッと見つめた。10本の指がきちんと揃っていた。人気も才能もないがギターを弾くのは自分の唯一の生き甲斐で、手がなければギタリストとしては終わりである。というか、それ以前にヒトとしても終わりだ。

「すみませんね。貴女の耳に入れておいた方がよいかと思ったもので。それでは」

 自分は、その人が立ち去った後も座ったまま暫く動けないでいた。


 Nさんは会うと、こちらの話ばかり聞きたがり自分の話は殆どしない。夫と話す時とは違い、否定されない喜びから、あけすけにプライベートな夫婦関係のことや実親との確執や新しい曲の構想など、自分は何でもかんでも喋っており、逆に話していないことが見つからないほどだった。にも関わらず、私はNさんのことを何も知らない。自分はNさんに対する不信と理不尽さが急激にこみ上げてくるのを感じた。と、同時にNさんという人間が、底の見えない正体不明の『沼』であるような恐怖に襲われた。とんでもないモノをこの半年間相手にしていたのではないかと初めて思った。

 別れよう、と自分は決意し急いでその店を出た。店から出たところで、やっとその日初めて、知っている人間、音楽友達のラッコに出会った。

「あれ?玉子、もう帰るの?飲み放題やのに。あ、今日のライブ、あれヤバいっしょ。ずっと『胸いっぱいの愛を』のリフやん。みんな呆れてたよ。平成生まれにツェッペリンはキツいやろ。ま、私は面白かったけど。そうか、帰るんか。ほな、ほな、またね」

 手を振るラッコに見送られ、自分は地下鉄の駅に向かった。地下鉄に揺られ窓に映る自分の顔を見ながら、胸辺りまで伸びた髪を切ろうと思った。手を切り落とされるには程遠いが、自分も何かを切り落とさなくてはいけないと感じていた。


 玄関を開けると、シャワーの音が浴室から聞こえてきて夫が帰宅していることがわかった。ギターバッグを肩から床に下ろし、居間に置いてある水槽の中を覗くと、朝死んでいたデメキンはそこにはおらず、空気を送る小さな機械からブクブクと小さな泡だけが吐き出されていた。壁際のステレオからは絞った音量でストーンズの『サティスファクション』が流れていた。

 シャワーの水音が止まり、浴室から「ウィーン」というバリカンの音が鳴り始めたので、自分は浴室の扉を開いた。夫は定期的にバリカンで頭を剃髪している。1度坊主にすると、少し伸びてきただけでも気になるとのことで、割と頻繁に夫はバリカンを使う。

「ただいま」と、自分が言うと夫は顔を上げずに「あぁ」と答えた。

「あのさ、私も髪を切ってくれない?」

 夫は、その言葉に驚きもせず「いいよ。俺、すぐ終わるから。入ってきて」と言った。

 夫は、浴室の椅子に座った私の髪をハサミを使って数10センチ切ってくれた。

「うん、いい感じやな」

 自画自賛しつつ、夫はクセのない髪を肩の上あたりで切り揃えてくれ、浴室の床には切り落とされた黒髪が広がっていた。これで大丈夫だ、と私は意味なく安堵を覚え夫に話しかけた。

「残念やったね。なくなって」

 私は今朝浮かんでいたデメキンの話をしたのだ。しかし、ハッとした表情の夫はこちらの顔を凝視している。そして、その後フッと脱力したように力のない声で呟いた。

「Kのこと、覚えてくれてたんか…」

 自分は思わず声をあげそうになった。

 その瞬間、思い出したのだ。さっき店で会った人が、3年前に亡くなった夫の友人、Kさんだったことを。今日はKさんの命日で、さっき居間で流れていたのは、おそらくKさんと一緒に演奏したことのある曲だったのだろう。Kさんは私のところに来る前に夫の前にも現れたのではないか、と自分は足元の床が抜けていくような恐怖を覚えた。切り落とされた黒髪が水面を漂うようにユラユラと揺れている。

「玉子、なんで震えているの?」

「ぬ、沼が、こわくて…」

「沼? あんま、ないやろ。この辺には。ウチの地元にはあったけど。毎年誰かハマって死んでんの。急に、どしたん?あー、つげ義春の『沼』って漫画も全然意味わからんかったけど。お前も、なぁ」


 沼はこんなところにもあったのだ。


「だから、あれや。今週日曜日に3回忌やから、行ってくるわ」

 夫は坊主頭を撫でつけながらそう言って、浴室を出て行った。

 髪を切ったくらいではどうにもならない、沼から簡単に逃れられる筈がないのだ、と自分はその時はっきりと悟った。そして、何度髪を切ったところで、この先も違った形で私の前に沼は現れる。そんな確かな予感がしていた。

 沼はどこにでもあるのだ。

 家の中だろうが、街中だろうが、何処にでも。

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やなぎらっこ @racco-death

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