第8話 異性

 油田探査のセンサーに搭載するソフトウエアのデバグは、終局にあった。

工場の一角での作業のため、圧力試験用の油の臭いが強かったが、その臭いにも慣れてきていた。しかし、デバグのため通いなれたクライアントの工場ともそろそろ別れるときが来る。

洋子は、今までにもあらゆるクライアントのプロジェクトを成功させてきており、女性のプロジェクトリーダーとしては、社内でも一目置かれている存在であった。

そんな洋子の指には指輪は無く、マニキュアとも縁の無い爪をしていた。飾り気の無い洋子の指は、ノートパソコンのキーボードの上で軽やかに踊っていた。

 「さあ、今日は、圧力センサーのフィードバック信号をポートに読み込めたら終了にしましょう」

洋子が、そう言うと部下が答えた。

 「はい。わかりました」

洋子は、ノートパソコンの液晶画面を食い入るように見つめている年下の部下を見て思い出すことがあった。それは、彼が洋子に対して恋愛感情を持っていると感じたことであった。いつか、現場デバグ中の深夜、突然、彼に手を握られ見つめられたのだった。

洋子にとって、彼は、仕事上の部下であり、恋愛の対象には成り得なかった。そのとき、洋子は、彼の気持ちを上手にやり過ごして気付かないふりをした。

洋子は、これから先、女としての幸せを感じることは無くても良いのだと思っていた。キャリアウーマンの都市型生活とか、自己のスキルアップに、興味を持つことが出来ても男性に対する興味はこれといって湧かなかった。

あえて言えば、学生時代に恋した里奈の存在のみが、洋子の唯一の恋愛対象であった。

しかし、あの時の里奈は、もういないのだと自分に言い聞かせて今日まで生きてきた洋子であった。

洋子は、クライアントの工場から支給されている白いヘルメットを被り、ジーンズにトレーナーという格好で、デバッグ作業をしていた。現場作業に入ってしまえば、オフィスでの洒落た服装ではなかった。実際にトレーナーの下は、下着を着けているのみで屈み込めばトレーナーの間からは、肌が見えた。

しかし、デバッグ作業においては、プログラムの動きに全神経を集中させているため、洋子は、人の目などは少しも意識していなかった。

プログラムのビルドを一段落させた洋子は、作業場所を後にした。そして、工場のトイレに向かった。

男子トイレに比べてその半分の広さの女子用トイレに入ると、洋子は洗面所の鏡に自分の姿を映した。

ヘルメットを取ると、後ろでまとめていた栗色の髪の毛がぱらりと顔に落ちてきた。そして、少しウェーブのかかった前髪を手で掻き上げると、鏡に映っている顔をじっくりと見つめた。洋子は、これが、働いているときの自分の顔なのかとあらためて思った。

目鼻立ちがはっきりしていて、二重瞼の大きな目に長いまつ毛が印象的だ。薄いメークでも十分に華やかな顔をしていた。

しかし、人間いつまでも若さを保てないと感じた洋子は、このまま、一人で歳を重ねていくのだろうかと今更ながら不安感に襲われた。人生には、パートナーが必要なのだろうか。雨宮と素子のように味気無い夫婦生活もある。洋子は、素子のような生き方は、とうてい出来ないと思った。けれども、雨宮の失踪により、素子を気の毒に思わずにはいられなかった。

洋子は、もと映画サークルの代表者として、雨宮を一日も早く探し出したいと思った。

「でも、手掛かりが無い……」

鏡の中の洋子が一人呟いていた。


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