第5話 記憶の中の導火線
仕様が決まらないのに納期ばかりが迫っていた。
油田探査の会社が、発注元のソフトウエアを開発することになった洋子は、このところ、気の重い毎日の連続であった。ソフトウエア開発と言っても、マイクロコンピュータを使った制御ソフトウエアという泥臭い仕事であった。
今回のクライアントは、世界的に有名な外資系の会社で、油田探査を行うためのツールであるセンサーを開発していた。地中深くボーリングして、センサーを投下し、油田のある地層を探査するのであった。
洋子は、打ち合わせのために、クライアントの工場のロビーを訪れていた。そこは、緑の芝生に囲まれた研究所のようだった。
「最新のソフトウエア仕様書、持って来てくれた?」
洋子が、部下に言った。
「はい、持って来ました」
洋子は、ロビーに展示してあるセンサーのモックアップや海底ボーリングの写真パネルを眺めた。洋子は、海底油田のボーリングのために、真っ青な海にそびえる建造物のスケールに圧倒された。
「お待たせしました」
担当者が現れた。洋子たちが、スーツを着ているのに対して担当者は、ジーンズにカジュアルシャツというラフな格好をしていた。
打ち合わせ中に出てくる言葉には海水、水深、圧力、海底というキーワードが続出した。
洋子が、大学卒業後にソフトウエア会社に入社して手掛けてきたものは、電流、電圧、電力の計測制御が中心であった。したがって、今回の開発品は、洋子の範疇から著しく外れていた。
しかし、それ以上に洋子は、不安というか心の動揺を感じていた。本来なら担当者が説明してくれる言葉を聞き逃さないように全神経を集中させるべきであるのに、洋子は、そのキーワードにより思い起こされる10年前のあの夏の日のことが、頭の中で膨れ上がっていた。海は、記憶の中の導火線であり、その先にあるものは、紗枝子の死であった。
打ち合わせが終わると、ひどく疲れた洋子は、部下に打ち合わせ内容のまとめをほとんど任せて、会社に戻らず自宅に直帰した。
洋子は、吉祥寺のマンションに暮らしていた。
学生時代は中野に暮らしていたので、同じ中央線沿線に引っ越すのが楽に思えたのが吉祥寺に住む理由だった。
部屋に入るとまず行うことは、留守電のチェックである。1件の記録があった。それは、定期的に入る実家の母親からであった。洋子は、毎回繰り返される、いつまで一人でいるのかという話の内容に閉口した。田舎での見合いの話もあったが洋子は頑固に断り続けてきたのだった。仕事柄、プロジェクトが男性ばかりという世界に身を置いていた。しかし、異性との出会いに恵まれながらも洋子は、あと一歩が踏み出せずにいることが多かった。
洋子は、スーツを脱いでTシャツとスウェットパンツに着替えた。冷蔵庫から缶ビールを取り出すとお気に入りのソファーに座った。アルコールが、あの担当者の口から出たキーワードを頭の中からデリートしてくれることは無かった。
「あれから10年か……」
洋子は一人呟いた。みんなどうしているのだろうか。雨宮とは、4年前の結婚式披露宴で少しだけ会話した程度、岡部や里奈とは、年賀状のやり取りが続いているのみであった。雨宮は、紗枝子の死は自分に責任があると言って憔悴していた。しかし、新たなパートナーとの出会いにより立ち直ることが出来たのだと思い洋子は安心した。
洋子は、10年を区切りとして、映画サークルの同窓会を企画することにした。今まで、しまい込んできたあの夏の日のことを、映画サークルの仲間が再び顔を合わせることによって、整理することが出来るような気がした。
洋子は、早速、アドレス帳や年賀状ファイルを開き住所を調べた。まず、雨宮、岡部、里奈の3人への映画サークル同窓会の招待状を作ることから始めた。
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