第3話 窓ガラスに映った女
学内は、大学祭で活気に満ちていた。
11月にもなると、日中は暖かくても夕方には冷え込んでくる。模擬店が立ち並ぶキャンパスの正門には、たて看板が所狭しと立て掛けられていた。その傍らで、洋子、里奈が上映会のチラシを通り過ぎる学生達に配っている。
あの夏の日以来、洋子は、紗枝子のためにも、一生懸命に『窓ガラスに映った女』を完成させた。後期試験の忙しい中で、みんなのスケジュールに合わせてアフターレコーディングを行った。どうしてもスケジュールが無理なときは、映像を見ながらの録音が出来ずに、渡したカセットテープに台詞を吹き込んでもらった。そして、やっと、この学祭に上映出来るまでに仕上げたのだった。
「先輩、寒いですねー」
里奈がチラシを抱えて小さく足踏みをした。
「うーん。寒いわね。あそこの模擬店の豚汁、美味しそうだから、ちょっと、いっしょに食べようか?」
「わーっ、嬉しい!」
里奈は、両腕を洋子の腕に絡ませて喜んだ。里奈は、サークル活動中は洋子の傍を離れなかった。洋子は、一人っ子だったが、里奈の姉になったような気分を味わっていた。
学生会館の2階ホールでは、雨宮、岡部が映写機のピント調整をしていた。8ミリ映写機と16ミリ映写機を2段に積み上げた長机の上に並べてある。『窓ガラスに映った女』だけの上映では、観客は集まらないのではないかという心配から、メジャーな作品と抱き合わせ上映としたのだった。
洋子と里奈は、雨宮と岡部のために豚汁をデリバリーした。
岡部は、豚汁を食べながら洋子に親指を立てて言った。
「準備オッケー!」
雨宮は、映写機に注意しながら豚汁をすすっていた。
上映開始時間には、観客も集まり、用意した折りたたみ椅子をほぼ全部うめることが出来た。里奈がマイクを使って『窓ガラスに映った女』の上映案内を行うと、岡部がホールの電灯を壁スイッチにより消灯した。そして、ホール全体が暗くなると、雨宮が8ミリ映写機のスイッチを入れた。
『人、人、人、この世界、冷たい金属音の中から発生する呻き声、葛藤、そして、この世界、人、人、人』
洋子自身のナレーションで映画は始まり、メインタイトルがスクリーン一杯に映しだされた。
『窓ガラスに映った女』
すると、ロバータ・フラックの「やさしく歌って」の音楽にのせて、無数のヘッドライトの流れがオーバーラップした。
洋子は、映写機がカタカタと音を立てている長机を振り返った。その傍らで、雨宮、岡部、里奈が、映写機から毀れる光の中で、上映スクリーンに見入っていた。そこには、紗枝子の姿も見えたような気がした。
洋子は、暫く、その光景を見つめた。その光景こそが、洋子にとっては、みんなで作り上げた映画作品のように思えた。
「みんな、ご苦労様でした。お蔭様で上映まで漕ぎ着けることができました。天国の紗枝子もきっと喜んで観てくれていると思います。でも、この映画サークルは、これで解散します。お疲れ様でした。そして…… 有難うございました」
洋子が頭を下げた。里奈は、目に涙を貯めて洋子の顔を見つめていた。
「先輩、やっぱり、解散なんて寂しいです……」
映写機から漏れる光は、断続的に里奈の姿を照らし出し、今、スクリーンに映し出されている女役の里奈が、そこにいるかのようであった。
「続けても良いと思うんだ」
今では、岡部も映画サークルに愛着を持っていた。
「しかし、村野紗枝子は、もう、いない。俺は、この映画サークルを解散したい」
雨宮は、テーブルの上の映写機を見上げ、フィルムを巻き取るスプロケットの回転を見つめて言った。
「そう、みんなで決めたことよね。解散すること」
と、洋子が言った。
里奈は、こくりと頷いた。洋子は、里奈の涙をハンカチで拭き取ってやった。
「まだ、上映中よ。最後までしっかり……」
洋子も感極まって言葉が最後まで続かなかった。
映画
人、人、人、この世界、冷たい金属音の中から発生する呻き声、葛藤、そして、この世界、人、人、人。
地面に落とした糖蜜に群がり集まる蟻の如く、一つの大きな物体としての人間たち、この中に姿を消す者は数多く、そして、また、この中から新たに発生する者も少なくない。そうなのである。ここに一人、発生したとしか思えない女がいた。
透明な窓ガラスに映った女が一人。
その女は、夜の窓ガラスから音もなく浮き出てきたようであった。青年は驚いたが声は出ない、驚きには違いなかったが、恐ろしさではなかった。青年の部屋はビルの七階、窓の外には何も無い。それは、人工的な絶壁であった。夜のとばりの降りた街には、赤や青のネオンサインが瞬き、高速道路を走る自動車のヘッドライトの流れは、まるで河のようだ。そして、大きな窓ガラスには、飾り気の無い青年の部屋が一杯に映っている。
振り返った青年の前には、白い薄手のドレスを着た女が一人立っていた。
「きみは……」
「ごめんなさい…… 人は、みな、明日も生きていると思って当たり前のように生活しているの、たとえ、今日の生活がくだらないものであっても、明日も明後日も、1年後も生きていると安心しているの」
「ごめんなさい…… 怒ってはいけないわ。それを言うと、誰でも怒るのだから… 話題を変えてはいけないのよ、忘れようとしてもいけない。たとえ、あなた自身、忘れられたとしても必ず一定の距離で、追い続けられているの、あなたが生きている限り」
女の冷たく反響する声が止むと、静けさが、青年を襲っていた。
「人間は、夢を負い続け、生きなくてはいけない」
女は、ソファーに腰をおろした。
「そうなの、だから人間かもしれない」
「ぼくには、夢がある。今のぼくには、その夢が生きている証しだ。そりゃ、夢と現実の間はなかなか狭めることはできない、けれど、少しでも夢に近付こうとして、向上心をもって努力するんだ。それが生きている人間の課題だ」
青年は続けた。
「現実からの逃避はいけない、絶対いけない。夢は、現実があるからこそ夢なのだ。
「たとえ泥のような社会でも、明日死ぬ自分であっても最後まで夢を捨ててはいけない」
青年は、雄弁になっていた。すると、女は、とつとつと言葉を発した。
「夢は、あくまでもその人のもの、まわりのことはお構い無しになるわ。あなたは、生きている限り、あなたにはあらゆる人間が関係しているのよ。それらを考えていたら、あなたは身動き一つとれない筈ね。いくら羽を羽ばたこうとしても、周りの小枝にじゃまされて、せっかくもっている羽でも広げることは出来ないの」
冷たくなった部屋の中は、すべてが静止していた。その中で二人だけ、いや一人かもしれないが、荒波の小舟のように流動的だった。
「あなたは、周りのことに目をつむって、それを気にしながらも夢を追う人なのでしょ」
青年は、女を抱きしめた。しかし、その女は、張り子の人形のように頼り無く、また、重量感溢れるコンクリートの塊のよう動かなかった。女の声は、それも高い笑いとともに響いた。
「好きなようになさい。ホホホ……」
女は、両膝を抱えて床に座り込み、壁に寄り掛かっていた。女は、青年を寂しく見上げた。
「今のも、あなたの一生懸命に追っている夢でしょ? それとも生きている証拠かしら」
青年は、自分を恥じた。そして、黒い窓ガラスに映る部屋と自分を見つめた。しかし、女の姿は認められない。
「そんなに人を好きになってはいけないのよ。あなたには、大切な夢があるんでしょ。その夢の邪魔になるわ」
「夢は、捨てるさ。それよりも人間には大切な心がある」
言葉は、ある感動をもって優しく響いた。
「あなたの夢は、そんなに、たわい無いものなの?」
青年は、寂しかった。
「でも、そんなにがっかりしなくてもいいのよ。時は、すべてを解決して、ある結論を出してくれるそうね。その時というのも、たとえ永遠に続くものであったとしても、あなたには、そして、この全ての人間達一人一人には永遠に続くものでは無いわ」
その時、青年は、はっきりと自分というものがちっぽけなことを知った。ちっぽけな人間、それも、生きる時間のそれぞれ異なった人間の寄り集まったこの大きな社会と、それと、自分のものでは無い長く続く時間を……
女は、再び言葉を発した。
「なげやりにならなくてもいいのよ。可哀想だけど楽しみなさいな。夢を追って将来に不安を感じたり、人を好きになったり、そして、これは別だけど、死を見つめたりして」
青年は、何かが自分の将来を、いっきに照らし出したような気がした。
青年にとっては、別の次元にある社会、それを構成している数多くのちっぽけな人間達、それだけに、身近にも感じた。
僅かに高まった耳鳴りの音が、女の声で消えた。
「ごめんなさいね。人間って、そんなちっぽけな人間一人によって、大きく変えられてしまうことがあるのね。罪なことね」
青年は、言った。
「きみは、死神じゃないの?」
「そうよ」
女は、静かにあっさり答えた。
青年は微笑した。
女は、窓際に立った。
「あなたにとって、私は死神であり魔女だわ。あなただって他の誰かから見たら、死神であり悪魔よ。みんなお互いにそう思うような時があるものなの。恋愛は、虚しいだけよ。どちらか一方が、死神あるいは魔女、悪魔にされてしまうんだから… でも、本当に好きになったらおしまいね。だんだん我が儘になって、相手をどこまでも追い続けて行くんだわ」
女は、青年の立っているソファーの横に来た。二人の姿が窓ガラスにくっきりと映っていた。
女は、ウィスキーの入ったグラスを優しく差し出した。青年は、一口あおると話した。
「きみとは、ずっと昔からの友達で、今ではかけがえの無い人のようにさえ思えるよ」
女は、今度は寂しそうに言葉を発した。
「そうよ、あなたとは、あなたがこの世に生まれた時からの付き合いだったの。だから、私は、あなたの全てを知っているの」
青年は、嬉しかった。しかし、暫く考えると不満げに言った。
「きみが、ぼくの全ての事を知っていてくれるのに、このぼくは、きみのことを何も知らないんだね」
「仕方ないわ。これだけは……」
青年は、その時、これ以上の会話は永久に交わされないような気がした。寂しいのだ。突然現れたものを敬遠するくせに、存在したものが無くなるのは、どうしようもなく寂しい事を知っていた。
心臓の高鳴りが喉まできていた。女は、大きなアルミサッシの窓を開けると振り返った。部屋に吹き込む風とともに、女の長い髪と、白いドレスは、静かになびいた。
女が去っていく!
青年が窓を、勢いよく開くと、女の姿は消えた。
急に青年の身体は軽くなっていた。
女は、無表情だった。
「ごめんなさい。私は……」
窓ガラスには、やはり同じ飾り気の無い部屋と白いドレスの女が映っていた。
青年は、言葉を発した。
「きみは、何も言わず、さっさと出て行ってしまうんだね。あっけないんだね。追いつけないんだ」
青年は、諦めたように言葉を発した。
「全てのものは、出会い、別れる」
「そうよ。何にも頭があれば、尻尾はあるの」
「では、ぼくの夢はいったい何だったのだろう?」
女は、優しく応答した。
「やっと気付いたのね。別に手遅れではないけど… つまり、あなたが男であり、ロマンチストであり、死を見つめなかったことなの」
青年は、疲労を感じた。
「幼い頃は良かった。全てが白紙で、これからだった。その頃の世界は、全てが有難く、自分に協力的で優しかった。でも、生きれば生きるほど、その白紙には真っ黒な文字が書き込まれていき、冷たい世界となっていった。同じ人間の造っている社会なのに」
「それは、当たり前よ」
青年は、お構い無しに言葉を発する。
「自分に関係してくれた人間が、煩わしくなってくる。そして、その人々は、この自分を、縛り付けよう心の中で考えている」
「もう、あなたは、それらから逃げ出せたのよ。全てから解放されて。その代わり、本当に全てのものを失ったの」
青年は、その言葉によって、寂しさを、そして、生への執着を強く感じていた。女は、優しく青年の顔を覗いた。
「どう? もう一度、あなたの夢を追ってみる?」
青年は、全てのことを心の中に押し込んで、この女と出会う前の自分に戻ろうと決心した。
青年は、自分が輝き出したように思えた。
女が言葉を発した。
「いつでも、あなたは主役でいいの。あなたのために、人々は、あなたの未来を造っていくのよ。その中で、あなたは、自分の好きな役を演じていいの。これから、出会う人々も、いろんな芝居をして、あなたに問題を投げかけてくるでしょう」
青年は、あの飾り気の無い部屋のソファーに座っていた。ソファーに座っている青年の身体が揺れた。女が立ち上がったのだ。
「今度は、窓ガラスに映った私じゃなくて、私自身を見送ってね。ごめんなさい。あなたを私は…… やめておくわ。あなたには、出来なかったの。でも、明日というのは、あなた自身にも分からないということだけは」
そう言い残すと、女は、ドアの外に消えた。青年は、女の後を追う気は無かった。ドアの外には、もう女の姿の無いことを分かっていた。青年は、急いで窓ガラスの方へ行った。夜の窓ガラスには、青年の表情に満ち溢れた顔が映っている。
青年の頭には、やらなくてはいけないあらゆることが浮かんだ。
心の底から込み上げてくる意欲と、未来への憧れ、そして、何よりも大切な自分自身の存在が、青年から発散していた。
『女 渡瀬里奈』
『青年 岡部良太』
『撮影 雨宮信吾』
『助監督 村野紗枝子』
『脚本・監督 沢田洋子』
『終』
エンドタイトルとともに会場からは、大きな拍手が沸きあがった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます