第2話 クランクイン
紗枝子の葬儀も終わり、少しずつではあるが日常が戻ってきていた。
夕陽が川の水面にゆらゆらと反射している。
橋を渡って商店街のアーケードを100メートルほど走ると、蔦の絡むレンガを模したデザインの喫茶店、プランタンがある。洋子は、息を切らせて従業員通用門に飛び込んだ。
「おはようございまーす」
2階の事務室に駆け上がり、タイムレコーダーにカードを押し込むと遅刻寸前の16時59分であった。更衣室で白い割烹着に着替えて、ゴム長靴を履くと3階の従業員食堂に向かった。
「おはようございます」
洋子は、笑顔でまかないのおばさんに挨拶した。
「洋子ちゃん、おはよう。はい、お味噌汁ね」
厨房のカウンターから熱い味噌汁が、差し出された。洋子は、お盆に取り、大きな業務用ジャーからごはんを丼ぶりによそった。
「わーっ、今日は、コロッケね。これが美味しいんだ」
洋子が、嬉しそうに言うと、
「洋子ちゃん、沢山食べてがんばるんだよ。女の子も、もりもり食べなきゃねえ」
まかないのおばさんは、手を止めて洋子を優しく見つめた。
「はーいっ。今日は、電気実験があってね。もう、おなかペコペコなの」
洋子は、そう言って食べ始めた。
「女の子のアルバイトは、大概は、ウェイトレスなのにねえ、洗い場で頑張る女の子は、洋子ちゃんがはじめてだよ」
と言って、にこにこしながら、再び洗い物を始めた。
洋子は、中野の親戚の家に間借りさせてもらっていた。自主制作映画のための8ミリフィルム代を、アルバイトで稼ぐことについて、誰よりも反対したのが伯父であった。若い娘を預かる立場としては、繁華街の如何わしい店と喫茶店のウェイトレスは、同じようなものだと考えているようであった。
しかし、どうしてもと言う洋子に根負けした伯父は、皿洗いなら許すということになった。喫茶店のアルバイトでも店には出ない奥の洗い場での作業にオーケーが出たのだった。
プランタンは、ケーキ職人も抱える規模の大きな喫茶店であった。したがって、客の数も多く、洗い場に押し寄せる洗い物の数は、半端な量ではなかった。お冷は、トレイにびっしりと並べたタンブラーに氷と水を流し込んで作り、それを幾段にも積み上げておかないと間に合わなかった。
いつか、ホットチョコレートのカップに前の客の付けた真っ赤な口紅が洗い落とせないまま、次の客に出してしまったことがあった。そのときは、客からのクレームもさることながら、洗い場のチーフにひどく叱られた。
それは、洋子にとって、仕事の厳しさを知る良い勉強になったと思ったのだった。洋子は、自分の中で、それをルージュ事件と呼んでいた。
流石に夜10時の閉店まで働くと、くたくたであった。
ふと、店のピンク電話に目を向けると洋子は、春のクランクインを思い起こした。
洋子は、洗い場の掃除が終わると、店のピンク電話に走った。
「もしもし、紗枝子? 私。明日の夜は、みんなスケジュール大丈夫?」
『うん、連絡とったわ。何、今バイト先?』
「終わったところ。明日のクランクイン、ちょっと心配になってね」
『何言っているのよ。助監督を信用しなさい』
「分かったわ。じゃ、明日ね。バイバイ」
『おやすみー』
明日は、洋子のアルバイトは休み、雨宮のアルバイトも休み、そして、里奈も都合が付くので、撮影は、阿佐ヶ谷の岡部のマンションで行う予定になっていた。
クランクイン当日、全員が岡部のマンションに集合した。
撮影機材は、至って簡単なものであった。洋子が高校時代に使っていたフジカシングルエイトのズーム付きカメラと、雨宮のスチールカメラ用三脚、照明は、アイランプが2個であった。同時録音は出来なかったので、編集フィルムを現像所で磁気コーティングしてもらいアフターレコーディングする予定でいた。
「本日は、この『窓ガラスに映った女』のクランクインです。読み合わせは、まだ不十分ですが、女役の里奈ちゃん、そして青年役の岡部くん、二人ともよろしくお願いします」
洋子がぺこりと頭を下げると雨宮がカメラを回した。すると、慌てた洋子は、
「ちょっとっ、雨宮くんフィルム無駄にしないでよ!」
「あーっ、ごめんごめん、メーキングのためね」
雨宮は、暢気に言った。
「先輩、私の衣装……、似合いますかぁ?」
里奈は、少し、ぶりっ子すぎるのでは無いかと、洋子は不安になった。
紗枝子は、シルクで女役の衣装を用意していた。岡部は、緊張してさっきからウィスキーの角をロックで飲んでばかりだった。洋子は、みんなが分かり易いようにと、シナリオの頭から順番に撮影していくことにしていた。
「まずは、この窓から見える……」
そこまで言って、洋子は見とれてしまった。
「綺麗ねえ!」
そして、気を取り直すと、
「この首都高のヘッドライトの流れからズームアウトするの」
「了解」
雨宮は、部屋にある家具などを利用してアイランプをクリップで固定した。洋子が、8ミリカメラのファインダーを覗き込んで確認していると、照明が点灯した。
「わーぁ、いいじゃない。この赤っぽい光の感じ、柔らかくて」
紗枝子は、そう言うと里奈の衣装を整えながら更に続けた。
「私、好きだなーっ」紗枝子は、夢心地で言った。
「俺、難しいこと出来ないからね」
岡部は、憮然として言った。すると、里奈は、
「任せて下さい。私がんばります。先輩」
と言って、洋子にVサインをして見せた。
みんな、ばらばらの個性が入り乱れていたが、全体の空気を引き締める声がした。
「はいっ、シーン1のカット1」
紗枝子がそう言って、カメラ前に差し出した手作りカチンコを鳴らした。8ミリカメラからジーッとフィルムを掻き落とす機械音が部屋中に響き渡った。
しばらくして、我に帰った洋子は、紗枝子のいない寂しさをあらためて感じた。
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