あの夏に帰るとき

がんぶり

第1話 夏合宿

 潮風が二人の頬を優しく撫でていた。

船べりの波しぶきは、強い陽射しを反射してきらきらと輝いていた。

 「洋子、波が静かで良かったね。私、船酔いを心配してたんだ」

沢田洋子(さわだ ようこ)の隣で、デッキの手すりにもたれた村野紗枝子(むらの さえこ)が少し丸く見える水平線を見渡しながら言った。

 「うん、お天気で良かったわ。私達の日頃の行いが良かったからかな」

洋子が紗枝子の顔を覗き込んで微笑むと、紗枝子も微笑み返した。

紗枝子は、自主制作映画の撮影では助監督をしているだけあって、細かいところにまで気配りのできる性格をしていた。したがって、この映画サークルの夏合宿におけるフェリーの乗船切符や民宿の手配など事務的なことは、しっかり者の紗枝子が行っていた。

映画サークルと言っても、人数は、たったの5名で、洋子が発起人という形で始めた同好会程度のものであった。そして、春からはじめてまだ4か月にも満たなかった。この合宿は、スポーツ合宿のように身体を鍛えるつもりは無く、単に親睦を深めるのが目的であった。だから、合宿では、ロケ撮影を行うとか、8ミリフィルムカメラを回す予定は全くなかった。

 「おーいっ。写真撮ってやるよ!」

雨宮信吾(あめみや しんご)が手を振りながらこちらに駆けて来た。そして、その後から1回生の渡瀬里奈(わたせ りな)が長い髪をなびかせて、岡部良太(おかべ りょうた)と笑いながら走って来た。洋子と紗枝子の間に息を切らせている里奈と岡部を入れて雨宮の構える一眼レフカメラのレンズを見つめた。里奈以外の4人は、学科は違うが3回生であった。

 「みんな表情が硬いよ。畑に転がってるカボチャじゃないんだから! はいっ、チーズ!」

一浪している一つ年上の雨宮は、サークル内で兄貴的な存在だった。

カメラのシャッター音の後、里奈は、潮風に乱れる髪を両手で押さえるようにして

 「先輩! 私、小豆島ってはじめて。あーん、早く泳ぎたいなぁ」と、甘えるように言った。

 「民宿で釣りの道具を貸してくれるんだってさ。俺、釣りに励むぞう」

岡部が、竿を振る真似をしていると、

 「まず、民宿に着いたらミーティングよ。これ合宿なんだからね!」

紗枝子が、はしゃいでいる里奈と岡部を制した。紗枝子は、スケジュールを頭の中に全てインプットしていた。

 「そうね。簡単なミーティングをしましょうよ。今、撮影している『窓ガラスに映った女』の進捗確認も兼ねてね」

洋子がこのサークルの代表だからという訳でも無いが、洋子の言葉には全員が頷いた。

 『窓ガラスに映った女』は、洋子が、一年前から温めてきた映画シナリオであった。もともと、この自主制作映画を作るために、学生掲示板にキャストとスタッフを募ったのがきっかけとなり、映画サークルが発足したのだった。

洋子たちの通う城南工業大学は、理科系の大学のためか、文化系サークル活動はあまり盛んでは無かった。

しかし、映画に出演したいと言って真っ先にやってきた里奈に続き、映画を観る事が好きな紗枝子、カメラ好きの雨宮が学生寮跡に開設した映画サークルの部屋の扉をノックした。

けれども、それ以降は、全く人は集まらなかった。作品中に登場する青年役を演じるキャストがいないため、雨宮が友達の岡部を無理やり誘い込み、なんとか撮影ができる状態になったのであった。

ただし、活動実績の無いサークルなので、学生課から支給される予算が少なく、金銭的には非常に厳しかった。そのため、8ミリフィルム代とその現像料は、ほとんど洋子のアルバイトによるものであった。洋子自身、自主制作映画への情熱が全てを支えているという感じだった。

そして、サークル全員の協力もあり、ロケ撮影の交通費は各自が自費で負担してくれていた。おかげで、『窓ガラスに映った女』の撮影は、ほとんど終わっていた。

 「えーと、俺は、少し二日酔いでして、しばらく船内で休憩致します」

雨宮は、洋子に対して敬礼をして見せた。雨宮の顔色が冴えないのは、そのためだったのかと洋子は思った。すると、

 「雨宮くん、昨晩、合宿前なのにお酒飲んでいたの?」

紗枝子が、訝しげに言った。

 「ああ、アルバイトの仲間とね。ちょっと飲みすぎちゃってさ」

 「しょうがないわね。水分とって、早くアルコールを身体から出してしまいなさいよ」

紗枝子は、あっさりと言った。

 「はーい。了解しました」

そう言って雨宮は、船内に入って行った。洋子は、紗枝子と雨宮の自然なやりとりを見て二人が似合いのカップルに思えた。

昼過ぎにフェリーは、小豆島の土庄港に着いた。そして、5人は、路線バスに乗り、合宿先の民宿へ向かった。

バスの走る道の両側がオリーブ園だった。それはまるで、オリーブ園の園内をバスで突っ切っているようだった。車内では、いつの間に買い求めたのか、オリーブ酒を手に、雨宮がにこにこしていた。

バスは、暫くして海岸道路に出た。ライトブルーの海と、バスの窓から吹き込む潮風は、心地良いものであった。

程無くして、バスは、民宿近くの停留所へ到着した。

民宿では、男2人と女3人の部屋に分かれた。各自、荷物を置いてから、ミーティングのために食堂に集合することになった。

岡部が厨房の中で、民宿の主人に釣竿を予約している。洋子、紗枝子、雨宮は、テーブルの両側の椅子に着席して『窓ガラスに映った女』の撮影台本を開いていた。

 「里奈ちゃん遅いわねえ」

紗枝子が、眉間に皺をよせた。

 「私が部屋を出るとき、彼女も、荷物の整理が終わっていたのよ」

洋子が、そう言って覗き込むように食堂の入り口に目をやると、そのとき、里奈が入って来た。

 「すみませーん。お待たせしましたー」

スリッパの音をぺたぺたとさせて、小走りに走って来ると、椅子にちょこんと座った。そして、洋子の顔を見てきょとんとしている。里奈は、髪をポニーテールにして、はちきれんばかりの身体を真っ赤なビキニで被っていた。洋子は、同性でありながら、官能的な里奈の身体が眩しかった。

 「ちょっと、里奈ちゃん、ミーティングに水着を着て来るなんて、非常識だと思わない?」

紗枝子の口が、きゅっとヘの字になった。洋子は、そんな紗枝子の形の良い唇が可愛いと思った。

 「里奈ちゃん、上に何か羽織ってね。男性諸君が目のやり場に困っていますよ」

と、洋子が言うと、雨宮も岡部も同時に撮影台本へ目を向けた。里奈は、舌を少し出して、持っていたタオル地のパーカーを羽織った。

 「先輩、ミーティング終わったら海で遊びましょうね。民宿の裏がすぐ浜辺なんですよ」

と、里奈が楽しそうに言うと

 「顔あんまり焼かないでよ。今まで撮ったカットと繋がらなくなっちゃうから」

紗枝子は、相変わらず憮然として言った。

 「私の持って来たUVカットのファンデーション貸してあげるわ」

洋子が言うと、里奈は、

 「ありがとうございます。先輩」

と言って首を少し傾けてにこりと微笑んだ。

 「さあ、はじめようぜ。はやくミーティング終えて釣りしたいよ」

岡部が言った。

 「うん、釣りに行こうぜ」

と、雨宮も調子を合わせて言った。

『窓ガラスに映った女』の撮影は、夜のマンションでの撮影が多く、そのほとんどを、岡部の住む阿佐ヶ谷のマンションを使って撮影していた。撮影場所では、かなり無理が出来たので、撮影は順調に進んでいたのだった。かたちばかりの撮影進捗確認が済むと、ミーティングは、30分程で終わった。

 暫くして、洋子がTシャツにショートパンツという格好で浜辺に出ると、すでに里奈は、ビーチボールを膨らませて待っていた。浜辺には、他に人影は無く、まるで、民宿のプライベートビーチのようであった。洋子と里奈がビーチバレーを始めると、海水パンツを穿いて、釣り竿を担いだ雨宮と岡部が、手で合図して浜辺の向こうにある岸壁に歩いて行った。

 「ねえ、海に入りましょうよ」

紗枝子の声に振り返ると、紗枝子は、洋子の傍らを駆け抜けて波打ち際へ走って行った。紗枝子は、イエローにブルーのチェックの水着を着ていた。洋子は、はじめて見る紗枝子の水着姿であった。

紗枝子の脚は、長くてとても綺麗だと思った。紗枝子は、里奈といっしょに、押し寄せては返す波と戯れている。

洋子は、水が苦手であった。要するにカナヅチだったから、砂浜で2人を見ていた。紗枝子は、再び洋子のそばまでやって来ると、ショートヘアの濡れた髪を両方の耳に掛けて、言った。

 「楽しいわよ。洋子も水着に着替えておいでよ」

 「私、泳げないんだ。だから、見ているだけでいいの」

洋子は、笑いながら答えた。

 「ふーん。これでも私、高校時代は水泳部だったの。だから、泳ぐのが大好き!」

なるほど、スポーツをやっていたという身体つきだ。肩幅も結構ある。でも、全体的に均整のとれた美しさがあった。

 「3人でビーチバレーやりましょうよ」

紗枝子は、そう言って、砂の上で活発に動き回った。里奈がレシーブすることができなくて、へなへなと座り込むと紗枝子は、それを見て大笑いしていた。

洋子は、この夏合宿を企画して良かったと思った。合宿先を決めるのには、洋子を除く全員が海と答えた。洋子にとっては、海よりも山が良かったのが本音であった。

しかし、こうして、みんなの楽しそうな顔を見ていると海にして良かったなと思わずにはいられなかった。

夕方、遊び疲れて民宿に帰ると、全員が疲れ以上の空腹に支配された。みんな夕食の時間まで待ちきれなくて食堂に集まった。テーブルの上には、ガスコンロと鉄板が用意されており、野菜が山のように皿に盛られている。焼肉だと思い、心が躍ったのは洋子ばかりでは無かった。

厨房から民宿の奥さんがこちらを覗いた。

 「おなかへったでしょう。今、お肉持って行くから、コンロに火を点けて待っていて下さいね」

 「はーいっ」

と言うなり、雨宮がライターで点火した。

民宿の食堂に冷房はなかった。しかし、開け放たれた窓からは、波の打ち寄せる音とともに、爽やかな風が吹き込んで来ていた。

焼肉の準備が出来ると、全員の箸が鉄板の上に集中した。そして、焼き上がるそばから、次々に肉や野菜が鉄板の上にのせられていく。こうして大勢で食べると、特別な物で無くても美味しいものだと洋子は感じた。

雨宮は、肉が良く焼けていないのにも関わらず、がつがつと口に運んだ。それを見て紗枝子は、

 「もうっ。少し、落ち着いて食べなさいよ!」

と怒って、焼けた野菜や肉を雨宮の皿にとってあげていた。洋子は、やはり、二人は似合いのカップルだと思った。

暫くして、大皿に山盛りの煮魚が運ばれて来た。

 「どうだい。今日の釣果は!」

岡部が、自慢げに言った。

 「わーっ、すごーい! これ全部釣ったんですか?」

里奈が感動して叫んだ。

 「なんていう魚か知らないけど、美味そうだろう」

雨宮が言うと、紗枝子が心配そうに言った。

 「小ぶりだけど、こんなに沢山食べきれるかしら」

 「先輩、この魚、毒もって無いでしょうね?」

里奈が疑うと、

 「馬鹿言っているんじゃ無いよ。大丈夫だよ。ほらっ」

岡部が一匹を丸ごと口の中に詰め込んだ。するとむせたらしく、がはっと叫んだ。みんなは、その表情が可笑しくて大声を出して一斉に笑った。


 就寝時間は、特に決められてはいなかったが、洋子は、遊び疲れていち早く床についた。

 「先輩、先輩……」

ぐっすり眠っていた洋子の肩を里奈が揺り動かした。眠りの闇から覚醒した洋子は、薄明かりにボーッと見える里奈の妖艶な顔を目の当たりにした。すると、チカチカと稲光のように天井の蛍光灯のグローランプが光り、部屋は明るくなった。

 「先輩、海亀の産卵! みんな浜辺に行きましたよ」

 「えーっ、1時じゃない。私、眠いなぁ」

洋子が、そう言うと、里奈は右手で髪を押さえて首を傾けると洋子の頬に、唇を押し付けた。洋子は、一瞬何が起きたのか戸惑ってしまった。

 「ねっ、目が覚めたでしょ? 先輩」

洋子は、里奈の行動に躊躇した。しかし、あっけらかんとしている里奈であった。

それから、洋子は、里奈に手を引かれて浜辺に向かった。浜辺では、岡部が民宿の主人と海亀の産卵を見ていた。

 「海亀が泣いている」

里奈は、海亀の目から流れ出る涙を見て、心配そうに言った。洋子は、海亀がピンポンの玉みたいな卵をぽこぽこと、砂の穴に産み落とすのを後ろからじっと見ていた。

半分は、夢の中にいるような洋子であったが、里奈の声が聞こえてくる度に、さっきの唇の感触が頭の中によみがえった。里奈の行動に対して、洋子の心の奥底にある何かが刺激されるような感覚は、形容し難いものであった。分析できない心の動揺を里奈は、あたかも見透かしているように思えてならなかった。

暫くして、洋子は、岡部と里奈を浜辺に残し、民宿に帰ることにした。洋子は、月夜の浜辺を砂に足を取られながら歩いた。

そして、洋子が民宿の裏庭まで来たとき、前方に二つの人影が重なっているように見えた。それは、雨宮と紗枝子がキスをしている瞬間であった。紗枝子には、少し嫉妬を感じたが、良かったなと思ったのだった。洋子は、回り道をして部屋に帰った。


 翌朝のミーティングでは、自主制作映画のことについての話題は微塵も無かった。しかも、雨宮が主導権を握ったミーティングになった。

 「えーと。本日のスケジュールは、遠泳を行います」

洋子は、雨宮の発言に対して嫌悪感を持った。

 「遠泳って、そう言ったって、いったい何メートル泳ぐの?」

 「はい、昨日、岡部と岸壁で釣りしているとき、見つけたのですが、200メートルぐらい沖に小島がありまして、そこまで、泳いで行くってことです」

 「大丈夫? 危なくない?」

洋子は、絶対に反対ですと言わんばかりに大声を上げた。

 「はい、沢田さんは、民宿から借りるボートでレスキュー役をお願いします。村野さんから、カナヅチであることは、伺っております」

紗枝子は、にやっと笑って洋子の顔を見た。

 「紗枝子は、泳ぎに自信あると思うけど、里奈ちゃんは大丈夫なの?」

と洋子が言うと、里奈は、暢気に

 「はいっ。大丈夫でーす」

と、岡部にVサインを送っていた。


 1時間後、洋子は、昨日と同じTシャツにショートパンツといういでたちで、ボートに救命用の浮き輪など乗せて岸壁で待機した。

オールでボートを漕ぐことでさえ、洋子にとっては、大変なことであった。あれこれと考えていると里奈が走って来た。今日の里奈の水着は、派手なショッキングピンクのビキニで、昨日よりさらに身体を隠す面積の小さいビキニであった。笑顔で洋子の前まで来て立ち止まり、肩で息をしている。

洋子は。里奈がグラビア・モデルのように思えた。

 「レスキューお願いします。先輩」

里奈は、微笑むと首を傾げて見せた。

すると、里奈の後ろから紗枝子と雨宮が二人いっしょに走って来た。

 「ボート借りることできたの?」

紗枝子が笑顔で言った。

 「うん。浮き輪も借りたのよ」

紗枝子の水着は、競泳用のものであった。おそらく、高校の水泳部時代のものだろうか。少し小さ目のハイレグの水着は、紗枝子の長い脚をますます際立たせていた。

 「さあ、準備体操するわよ」

紗枝子の号令で、みんなが輪になって体操を始めた。

 「いちっ、にっ、さんっ、しっ」

紗枝子の号令は、板に付いた力強いものだった。

洋子は、ボートに乗り込むと岸壁を離れて待機した。波は、静かだったし何の問題も無いと洋子は思った。沖に見える小島もそんなに遠くには見えなかった。

 「よーしっ、出発!」

そう叫ぶと、雨宮が頭から海に飛び込んだ。続いて岡部も紗枝子も足から飛び込んだ。里奈は、岸壁の階段からゆっくりと海に入った。

雨宮の泳ぎっぷりは、力強いクロール、紗枝子は、しなやかな平泳ぎであった。二人の泳ぐスピードは早く、洋子は、左右のオールの扱いも儘ならない状態だった。

里奈は、20メートルも泳がないうちに、ボートに乗り込んで来た。

 「けっこう深いんですね。私、なんか怖くなっちゃって……」

と言う里奈とともに、洋子も海の底を覗き込んだ。透明度が高いために海底の様子が良く見えた。なるほど、じっと見ていると海の底に吸い込まれそうだった。

そして、小島の方に目を向けると、雨宮が小島に辿り着いたところだった。

紗枝子は、ペースダウンしたようで波間に頭が見え隠れしていた。洋子は、里奈といっしょにボートを急いで漕ぎ小島に向かった。途中で岡部を追い抜くときに浮き輪を投げてやった。

突然、里奈が叫んだ。

 「先輩! 村野先輩が見えない!」

里奈の言葉に洋子は、心臓を摑まれたような思いであった。小島では、雨宮が異変に気付き紗枝子の泳いでいた方角に向かって泳いで来る。

そして、ボートと雨宮は、紗枝子が姿を消した海上で落ち合った。雨宮は、激しく息を切らして、

 「岸壁に戻って助けを頼む!」

と叫ぶと、ボートから手を突き離し、海底に向かい潜って行った。洋子は、ただただ、大変だ大変だと心で叫んで岸壁に向かった。里奈は泣きそうな顔をしている。いち早く岸壁に戻った岡部が民宿の方に走って行くのが見えた。

重大なことが起きているのにも関わらず、波は太陽の光を反射してきらきらと美しく輝いていた。

その後、岸壁の上から3人は、不安の中で真っ青な海を必死に見つめた。

 1時間後、水深3メートルの海底で紗枝子は、発見された。

レスキュー隊の人工呼吸も虚しく紗枝子は、息を吹き返してはくれなかった。

この日、紗枝子は、20年の生涯を終えたのだった。


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