星を釣る

風船葛

第1話

誰かの歌が聞こえた。


知っている気がする。

聞いたことがある気がする。

なのに、どうしても思い出せない。




「うおっと」

足が濡らされて我に返った。もうここまで潮が満ちてきたのだ。

 見えるのはすっかり陽の落ちた海と、遠くに霞む船の明かりだけ。その灯すらもぼやけているのは、それだけ距離があるということなのだろう。

 辺りはすでに真っ暗だった。今夜泊まる予定のホテルに荷物を置いて、目の前の砂浜に座ったのが二時間は前だろうか。尻に敷いたビニール袋の下で砂が徐々に冷えてきている。

 暗闇に囲まれたのは、夏の陽の長さに油断したから。いや、違うか。それだけじゃないのは自分でよく分かっている。


『ごめん、俺は無理だ。お前はどうする』


あの声が、言葉が、今も耳から離れない。答えられない問いに耳を塞ぎ、消えていくのをじっと待った。

 波の音は優しく気長に、暴れる鼓動をなだめてくれた。その間にも空には星が顔を出し、船の明かりは輝きを強める。



 そろそろ戻ろうかと腰を浮かせたとき、目の端に何かが映った。今いる浜は左にカーブを描くように湾曲していて、その途中に桟橋がある。その上で何かが動いた、そんな気がしたのだ。真っ暗で何も見えないはずなのに。

 自分はもっと臆病な性格だと思っていた。それなのに今はその動く何かが知りたくて、橋に向かって駆け出している。怖いもの見たさというやつかもしれないが、久しぶりの冒険に体が止まらなかった。

 桟橋の入り口まで来てみると、そこに人がいることが分かった。手元から落ちる細い糸がかすかに光っている。こんな時間にこんな場所で、釣り糸を垂れているのだ。

 もっとよく見ようと一歩踏み出したところで、貝を踏んづけてしまった。静かな波は足元の小さな音をかき消してくれず、僕はまた足を止める。気づかれた、と思うのと同時に、その誰かが言った。

「こんばんは」

中年の男性といった印象の声だ。

「お邪魔してすみません」

慌てて帰ろうとすると、呼び止める声が聞こえた。

「どうぞここにいてください」

そう言って男はランタンに火を入れた。橋の上に置かれた小さな明かりが、その人物を幻灯のように照らし出す。

 彼は何とも不思議な外見だった。歳はやはり中年、いや、もう少し上と言って良いかもしれない。黒いタキシードに黒い帽子、赤い蝶ネクタイ。円い眼鏡が愛嬌あるな、なんて思えるその見た目は、あのフライドチキン屋のおじさんそっくりだった。

 怖い感じはしなかったので、とりあえず隣まで行ってみた。

「何か釣れるんですか。というか、見えるんですか」

「もちろん見えますとも。でも今日は、少し雲がありますからねぇ」

 男は楽しそうに言って、せっかく点けたランタンの火を吹き消した。周囲にまた暗闇が戻ってきたが、やがて目が慣れてくると、月明りで結構よく見えることが分かった。

 静かな海は黒く光って、とても美しかった。

「何が釣れるんですか」

邪魔かな、と思いながらも話しかけてみる。あのにこにこ顔がそうさせるのだ。

 男は笑顔のまま言った。

「星を釣っているのですよ」

しばらく返事に迷った。僕は海を見て、彼の顔を見て、そしてようやく口を開く。

「星が、海にあるんですか」

 僕は海をのぞき込んだ。ずっと見ていると黒い水面に飲み込まれるような気がして、すぐに見ているのが怖くなる。

「普通は空にありますけどね。たまに海に憧れた若い者が飛び込んでしまうのですよ。そうして空に戻れなくなって、釣りあげてもらうのを待っている」

「はぁ」

「でも私は、そんな星が好きですよ。無鉄砲で、勇気があって、それでいて真面目だから、今のままでいいのかといつも考えている。だから動かずにはいられないのです」

 何だろう。昔どこかで、そんな話を聞いた気がした。誰が言っていたのだろうか。

「あなたもいかがですか」

 釣竿を渡され、素直に釣り糸を垂らす。そういえば昔もこんな釣りをしたことがある。そう、そしてさっきの言葉を聞いた。



 そのままぼんやりしていたら、今度は向こうから話しかけられた。

「お上手ですね」

「いや、何も釣れてないですよ」

男は少し笑って言う。

「いえ、そうではなくて。さっき浜辺で歌ってらしたでしょう。良い声でした」

再び鼓動が速くなる。何とか落ち着こうと深呼吸したら、水面のルアーが小さな水音を立てた。歌っていた自覚はなかったから、無意識だったのだろう。

「プロにでもなれそうだと思いましたよ」

喜ぶべき言葉に浮かんだのは、自分への嘲笑だった。

「プロに、なりたかったんですよ。皆で」

「おや」

「僕以外は別の道を選んでしまって」

男はそれ以上聞かなかった。


『ごめん、俺は無理だ。お前はどうする』

何十回、何百回目の声が頭に響く。

「僕も――」

その先が、どうしても言えない。





 ゆっくりと闇は深まっていって、頭上の星はさらに輝きを増していた。その落ち着いた光はいつも以上に立派に見える。


 正しい生き方というのはきっと、定位置で落ち着いて輝くことを選んだ、彼らの生き方を指すのだろう。

 それが良いと分かっていても、それが正解だと分かっていても、そこにはいられない自分がいる。どうしても諦められない我儘な自分がいるのだ。


「一緒に諦めてしまえたなら、楽なのに」

進むことも戻ることもできない。それが何より苦しい。

 仲間と歌い始めた頃を思い出したら、星はぼやけて見えなくなった。

「あの人がいたら、何て言ったかな」

「ほう?」

「ああ、祖父を思い出して。親の実家が近くにあって、子供の頃によく来てたんですよ。この浜にも遊びに来ました」

 あの頃はまだ祖父が生きていて、よくここで釣り糸を垂らしていた。あれは何かを釣るためと言うよりも、考え事をしていたのだと思う。かまってほしい僕はよくその邪魔をしたものだった。話しかける口実が欲しくて、第一声はいつも同じ。「何か釣れるの?」なんて割り込んで、その度に祖父は釣竿を貸してくれたものだ。邪魔が入るのを知っているみたいに、祖父はいつも釣竿を二本持っていたっけ。

「それで暗くなってきて帰ろうって言われるんですけど、まだ帰りたくないってわがまま言ってました」

すると決まって言われたものだ。「このままじゃ星しか釣れなくなるぞ」って。

「そっか、その時だ」

思い出した。そう、確かにあの時、そんな話をした。




「星が海にあるの?」

「そうだよ。いつもは空にあるけれど、海に憧れた若い星が、時々飛び込んでくるんだ。それで戻れなくなって、釣りあげてもらうのを待っているんだよ」

「可哀想だね」

「そいつらはそうやってしか生きられないのさ。無鉄砲で、勇気があって、それでいて真面目だから、今のままでいいのかっていつも考えているんだ。だから動かずにいられない」

「ふうん」

「俺はそんな生き方、好きだけどな。さあ、帰ろう」




 祖父はそんな生き方が好きだと言った。隣の男も、同じことを言った。

それでも。

「そんな生き方は、すごく怖いと思うんです」

 つい口に出していた。自分は今もそんな生き方に憧れて、そうやって生き続けるだけの勇気はなくて。結局どちらの決断もできやしない。

 男は竿を少しだけ揺らした。

「星のすごいところはね、こんな暗闇の中でも、一本の釣り糸を見つけるところだと思うのですよ。浮上するチャンスを諦めないから、たった一本の糸を掴むことができる」

「はぁ」

自分はそんな生き方ができるだろうか。あの頃憧れた、祖父が言ったような生き方ができるだろうか。

「怖いと思うのは、自分が動き続けていようとするからですよ。あなたも星のようだ」

「僕は」

「星座の一角でなくても、星は星なのですから」

 横を見ると、男の姿はなかった。立ち上がって見回しても、彼のいた場所には竿もバケツもない。気づくと、自分が手に持っていたはずの竿もなかった。

「あれ」

 全て夢だったのだろうか。僕はぼうっとする頭を抱えたままホテルに帰ろうとしたが、足元が暗くてよく見えない。

 その時、月が雲から顔を出した。周囲が少しだけ明るくなってほっとする。

 ふと、地面にに点々と光るものが見えた。近づいてみると、下に落ちた水滴が月明りに光っているだけだったが、その滴は元来た道の方へと続いているのが分かった。

「帰り道、残してくれたのか」

 ゆっくり歩きながら鼻歌を歌う。知っているのに知らないその歌が、今は頭の中ではっきり聞こえる。



これはきっと、僕がこれから創る歌だ。

外に出ることを待っている、まだこの世にない歌なのだ。



 明日帰る前にもう一度来よう。でもって、思い切り叫んでやろう。

「僕は――」

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