第29話 おじいちゃんの店の看板

 おじいちゃんの店の看板は、扉にぶら下がっていた。看板はおじいちゃんの手作りだ。外壁と同じ赤色の木製で、大きさは大学ノートくらい。「フレンチ・デン」と書かれていた。

  

 店が開いているときは、看板が表を向いている。営業が終わると裏を向くので、わかりやすい。

  

「どうしてフレンチ・デンって名前なの?」


 わたしは小さかったころ、おじいちゃんに聞いたことがある。おじいちゃんは「大好きな本から取ったんだよ」と教えてくれた。そうだ。その後に、おじいちゃんから初めて「十五少年漂流記」の本を読ませてもらったんだ。

  

 お客さまからたずねられることもよくあった。フランス料理のお店だから「フレンチ・デン」なのだと、勘違いしていたお客さまもいた。

  

 いい名前だよね。

 わたしは、おじいちゃんの店が大好きだけど、店の名前も大好きだ。

  

 でも、あの日、店の看板は外された。

  

 そうだ。わたしは思い出した。

 この世界にやってくる直前のことを。

  

「嫌だ。ぜったいに、嫌だ!」

 わたしは大声をあげた。看板を外そうとするパパとママに、嫌だと言って、泣いて騒いだ。


 でも、看板は外された。

 なぜなら――。

  

  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


「ヒカリ?」

 ガーネットがわたしを呼ぶ声で、ハッと我にかえる。

 わたしは、漂流者フランソワ・ボードアンの洞くつの中で、みんなに囲まれていた。

  

「ヒカリ、どうしたの? 大丈夫?」

 心配そうなガーネットの言葉を背中に受けながら、わたしはひとり、ふらふらと洞くつの外へ出る。

  

 外で待っていたファンが、わたしを見てしっぽを振った。わたしはファンの横を通りすぎると、湖へ向かって走った。

  

 足もとは草原から砂地に変わった。湖が目の前に見えてきたところで、砂に足をとられてつんのめる。


 転がったわたしの目の前に水しぶきが迫っていた。立ち上がり、さらに水辺に近づいたところで、手を引っ張られた。

  

 ドノバンだった。

 わたしは手を振りほどこうとしたが、ドノバンの力は強くて、振りほどけない。


「バカ野郎! 何を考えているんだ!」

  

 そこにガーネットが走ってきて、わたしに飛びついた。ガーネットに腰のあたりに抱きつかれ、わたしとドノバンは転がった。

  

「ヒカリ、いったい何なの? もう!」

 ガーネットがわんわん泣いていた。

  

 わたしも涙を流していた。涙と鼻水で、わたしの顔はグズグズになっていた。

  

 ドノバンが立ち上がって言う。

「お前は湖に飛び込みたいのか?」

「違うよ。そうじゃない」

「ヒカリ、飛び込んだら嫌だ!」

 ガーネットがまたわんわん泣く。


「大丈夫だよ。飛び込まないよ。びっくりさせちゃって、ごめんね」

 わたしはガーネットの背中をなでる。

  

 ブリアン、ウィルコックス、サーヴィスも追いついてきた。

 ウィルコックスがわたしに言う。

「何が起きたのか分からなかった。すぐに反応したのはドノバンだけだ」

 ドノバンはウィルコックスをにらみつけた

「そんなことはない!」

  

 そのドノバンのけんまくがおかしくて、わたしは申し訳ないけど吹き出した。

 ガーネットから水とうの水をもらって飲む。ようやく気持ちが落ち着いてきた。


  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎

  

「あのね、わたし、大好きなおじいちゃんが、亡くなったんだ」

  

 わたしはみんなにそう打ち明けた。


 湖に向かって走ったのは、飛び込みたかったからじゃない。思い切り走らないと、心が悲しみでつぶれそうだったから。

  

 わたしは、話を続けた。

「今までずっと、そのことを忘れていたんだ。さっき洞くつの中で、とつぜん思い出すまで。ううん、本当はちゃんと覚えていたんだけど、信じたくなくて、忘れたふりをしていたんだと思う」


 おじいちゃんが当然倒れちゃって、入院したのだ。「若いころからの無理がたたったんだ」と自分で言っていた。

  

 わたしは毎日病院へ見舞いに行った。でも、おじいちゃんの症状はどんどん悪くなる。

  

「もう厨房に立てないのが、残念だ」

 おじいちゃんは、病室のベッドで横たわりながら、ポツリとつぶやいた。

  

「そんなこと言わないで。きっと良くなる。大丈夫だから!」

 わたしは泣きそうになるのをこらえて言った。

  

 おじいちゃんは手を伸ばすとわたしの頭をなでた。

「わかるんだ。自分のことは、自分がいちばん」

  

 おじいちゃんの骨張った手は細かった。むかしはもっと、それこそ船乗りみたいに太かったのに。

  

 おじいちゃんが厨房に立てなくなったら、あの店はどうなってしまうんだろう。そう考えると、胸がキュッと縮こまった。

  

「わたしが代わりに厨房に立つよ! おじいちゃんの代わりに、あのお店のシェフになるから!」

 わたしはそう宣言した。思いつきではない。これまでもずっとそう考えてきた。


 おじいちゃんはうれしそうに笑い、そして言った。

「楽しみにしてるよ。ヒカリがシェフになる日を」

  

 その夜、おじいちゃんはこんすい状態になり、翌朝亡くなった。

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