第29話 おじいちゃんの店の看板
おじいちゃんの店の看板は、扉にぶら下がっていた。看板はおじいちゃんの手作りだ。外壁と同じ赤色の木製で、大きさは大学ノートくらい。「フレンチ・デン」と書かれていた。
店が開いているときは、看板が表を向いている。営業が終わると裏を向くので、わかりやすい。
「どうしてフレンチ・デンって名前なの?」
わたしは小さかったころ、おじいちゃんに聞いたことがある。おじいちゃんは「大好きな本から取ったんだよ」と教えてくれた。そうだ。その後に、おじいちゃんから初めて「十五少年漂流記」の本を読ませてもらったんだ。
お客さまからたずねられることもよくあった。フランス料理のお店だから「フレンチ・デン」なのだと、勘違いしていたお客さまもいた。
いい名前だよね。
わたしは、おじいちゃんの店が大好きだけど、店の名前も大好きだ。
でも、あの日、店の看板は外された。
そうだ。わたしは思い出した。
この世界にやってくる直前のことを。
「嫌だ。ぜったいに、嫌だ!」
わたしは大声をあげた。看板を外そうとするパパとママに、嫌だと言って、泣いて騒いだ。
でも、看板は外された。
なぜなら――。
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「ヒカリ?」
ガーネットがわたしを呼ぶ声で、ハッと我にかえる。
わたしは、漂流者フランソワ・ボードアンの洞くつの中で、みんなに囲まれていた。
「ヒカリ、どうしたの? 大丈夫?」
心配そうなガーネットの言葉を背中に受けながら、わたしはひとり、ふらふらと洞くつの外へ出る。
外で待っていたファンが、わたしを見てしっぽを振った。わたしはファンの横を通りすぎると、湖へ向かって走った。
足もとは草原から砂地に変わった。湖が目の前に見えてきたところで、砂に足をとられてつんのめる。
転がったわたしの目の前に水しぶきが迫っていた。立ち上がり、さらに水辺に近づいたところで、手を引っ張られた。
ドノバンだった。
わたしは手を振りほどこうとしたが、ドノバンの力は強くて、振りほどけない。
「バカ野郎! 何を考えているんだ!」
そこにガーネットが走ってきて、わたしに飛びついた。ガーネットに腰のあたりに抱きつかれ、わたしとドノバンは転がった。
「ヒカリ、いったい何なの? もう!」
ガーネットがわんわん泣いていた。
わたしも涙を流していた。涙と鼻水で、わたしの顔はグズグズになっていた。
ドノバンが立ち上がって言う。
「お前は湖に飛び込みたいのか?」
「違うよ。そうじゃない」
「ヒカリ、飛び込んだら嫌だ!」
ガーネットがまたわんわん泣く。
「大丈夫だよ。飛び込まないよ。びっくりさせちゃって、ごめんね」
わたしはガーネットの背中をなでる。
ブリアン、ウィルコックス、サーヴィスも追いついてきた。
ウィルコックスがわたしに言う。
「何が起きたのか分からなかった。すぐに反応したのはドノバンだけだ」
ドノバンはウィルコックスをにらみつけた
「そんなことはない!」
そのドノバンのけんまくがおかしくて、わたしは申し訳ないけど吹き出した。
ガーネットから水とうの水をもらって飲む。ようやく気持ちが落ち着いてきた。
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「あのね、わたし、大好きなおじいちゃんが、亡くなったんだ」
わたしはみんなにそう打ち明けた。
湖に向かって走ったのは、飛び込みたかったからじゃない。思い切り走らないと、心が悲しみでつぶれそうだったから。
わたしは、話を続けた。
「今までずっと、そのことを忘れていたんだ。さっき洞くつの中で、とつぜん思い出すまで。ううん、本当はちゃんと覚えていたんだけど、信じたくなくて、忘れたふりをしていたんだと思う」
おじいちゃんが当然倒れちゃって、入院したのだ。「若いころからの無理がたたったんだ」と自分で言っていた。
わたしは毎日病院へ見舞いに行った。でも、おじいちゃんの症状はどんどん悪くなる。
「もう厨房に立てないのが、残念だ」
おじいちゃんは、病室のベッドで横たわりながら、ポツリとつぶやいた。
「そんなこと言わないで。きっと良くなる。大丈夫だから!」
わたしは泣きそうになるのをこらえて言った。
おじいちゃんは手を伸ばすとわたしの頭をなでた。
「わかるんだ。自分のことは、自分がいちばん」
おじいちゃんの骨張った手は細かった。むかしはもっと、それこそ船乗りみたいに太かったのに。
おじいちゃんが厨房に立てなくなったら、あの店はどうなってしまうんだろう。そう考えると、胸がキュッと縮こまった。
「わたしが代わりに厨房に立つよ! おじいちゃんの代わりに、あのお店のシェフになるから!」
わたしはそう宣言した。思いつきではない。これまでもずっとそう考えてきた。
おじいちゃんはうれしそうに笑い、そして言った。
「楽しみにしてるよ。ヒカリがシェフになる日を」
その夜、おじいちゃんはこんすい状態になり、翌朝亡くなった。
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