第28話 ファンが吠える声がする
ファンが吠える声がする。
湖とは反対側、森の近くの丘からだ。
声はするけど、姿が見えない。みんなは周囲を警戒しながら、ファンの声がした方にそろそろと移動する。
その途中、わたしはあるものを見つけて立ち止まった。
「みんな、ちょっとこれ見て」
わたしは声をかけた。
みんながわたしのそばに来た。
地面からブナの木が生えている。
その表面が大きく削りとられていて、ちょうど目の高さに、文字が彫られていた。
「1807」
「F.B.」
そんな風に読み取れた。
「番地じゃないよね」
サーヴィスがおどけて言ったけど、誰も笑わない。
ウィルコックスが言う。
「漂流した年。それとイニシャルだ」
いまは一八六〇年だから、五十三年前ということになる。
沈黙が流れた。
しばらくして、サーヴィスが、またおどけて口を開く。
「FBさん、まだ生きているかな」
「サーヴィス、あなたはもう黙っていて!」
ガーネットが怒って言った。
この文字を彫ったとき、漂流者は何歳だったんだろう。わたしはいま十四歳。五十三年後には六十七歳だ。若い漂流者なら、生きていてもおかしくない年数なのかな。わたしはこの漂流者が亡くなっていると知っているけど。
突然、ガサガサと音がして、目の前のしげみからファンが飛び出してきた。
「ファン!」
わたしが呼ぶと、ファンが飛びついてきた。しゃがんで頭をなでると、顔をペロペロとなめられた。
「ファンはどこから出てきたんだ?」
ドノバンがしげみを調べる。
そこは丘のふもとだ。ドノバンが木の枝を取り払う。岩肌が見えて、そこにぽっかりと穴が開いていた。
洞くつの入り口だった。
間違いない。
かつての漂流者の隠れ家だ。
入り口は縦長の四角形で、人間が立って出入りできる大きさだ。岩のふちが削られて整えられ、明らかに人の手が入っているとわかる。
ブリアンがかわいた草のたばに火を付け、入り口から放りこんだ。
草はパチパチと軽い音をたて、穴のなかで燃えている。
「空気は悪くないようだ。入ってみよう」
よかった。洞くつがなかなか見つからなかったらどうしようかと、内心では心配していたのだ。原作に描かれた通りに、物事が展開している。
うん。
よかったはずなんだけど。
あれれ。何だろう、この気持ちは。
わたしは、思わず自分のシャツの胸のあたりをつかんだ。予想通りの展開なのに、なぜか胸がしめつけられる。
この先に進んだら、だめだ。
そんな気がした。
「ヒカリ、外で待っていてもいいぞ」
ドノバンが言う。
急に立ち止まったわたしが、怖がっていると思ったのだろう。
「ううん、わたしも行く」
わたしは迷いを吹き飛ばすように首を振ると、みんなについていく。
洞くつに足を踏み入れたとき。
なぜか、わたしはとつぜん、おじいちゃんの店を思い出した。
わたしが大好きな、あの店。
赤色の外壁と、水色の窓わく。住宅街の小さな洋食レストランを――。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
洞くつの中は、かわいていた。
カビくさくもない。
どこかにたぶん通風口があって、空気がじゅんかんしているのかもしれない。
ドノバンがろうそくに火を付けた。
薄明かりで、中の様子が浮かび上がる。
かなり広い。天井の高さは三メートルくらい、幅は六メートルくらいある。奥行きもあって、六人が入っても余裕があった。
中ほどに、木のそまつなテーブルがあった。テーブルの上にはブリキのコップやさびたナイフがころがっている。
「漂流者はここに住んでいたんだ」
ブリアンが感慨深げに言う。
「だけど、最近のことじゃないな」
ドノバンが返事をした。
テーブルには土ぼこりがつもり、もう何年も時間がとまっているように見えた。
「ねぇ、時計があるよ」
ガーネットが壁に手を伸ばす。
壁に打ち付けられたくぎに、懐中時計がかかっている。銀のくさりに銀のふた。そまつな室内では、かなり上等なものに見えた。
ガーネットが懐中時計のふたを開けようとした。だが、さびついてなかなか開かない。ブリアンが受け取って、こじ開けた。
ブリアンが言う。
「ふたの内側に文字が彫られている。サン・マロと読める」
「サン・マロって?」
「フランスのブルターニュにある街の名前だ」
わたしは壁ぎわにあった寝台のそばに行く。床にノートが落ちていた。
ノートを開くと、紙がバリバリしている。鉛筆の文字は消えかけていたものの、ところどころ残っていた。
わたしはみんなが話す言葉はテレパシーのように意味が分かるけど、みんなが書く文章はよくわからない。会話はできても読み書きが出来ないのだ。
「ねえ、これもフランス語かな?」
わたしはフランス人のブリアンに渡す。
ブリアンはしばらく眺めた後で言った。
「うん、確かにフランス語の日記だ。漂流者はフランスから来たらしい。たぶんこれが名前だろう」
みんながブリアンのそばに集まる。
「名前は何?」
ガーネットがたずねる。
「フランソワ・ボードアン、と書かれている」
「FBだ! あのイニシャルと同じだ。当たりだよ」
サーヴィスが勢い込んだ。
ブリアンが言う。
「なるほど。ここは『
その言葉に、わたしは凍りつく。
胸のこどうがドキドキと早くなる。
わたしはブリアンにたずねる。
「ブリアン、いま、何て言った?」
ブリアンがキョトンとして答える。
「え、何って、『
わたしは震える声で繰り返す。
「聞いたことがある。フランス人の洞窟。フレンチ・デン。それって、何だっけ……」
「どうしたの、ヒカリ。震えているよ」
ガーネットが近寄ってきてわたしの肩を抱いた。
「フレンチ・デン、フレンチ・デン……」
「ヒカリ、しっかりして!」
そして、わたしはようやく気付く。
どうして今まで忘れていたんだろう?
「思い出した――」
「ヒカリ?」
フレンチ・デン。
そうだ、フレンチ・デンだ。
それは、おじいちゃんの店の名前だった。
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