第3話 はがー!




 こんにちは、珠邑たまむらです。

 あほみたいに叫んでますねぇ。

 いや、違うんて。


 ただいまワタクシ、絶賛児童文学公募用原稿の推敲をしているわけですが、そこに出てくる一文で、ふと考えましてね。



「ガラス玉みたいな緑色のひとみをふたつ、らんらんと光らせながら、地面を見おろしていたその猫が、ふいに、あわてたように、塀の向こうへと飛び下りた。」



 こちら、その本文に出てくる文章で、ワタクシとしてはワザと冗長に書いている一文になるのですが、この中に出てくる重要な区分、つまりワタクシが引っ掛かった部分がこちら。


「が」


 はい。物を書く人ならば、あらためて問われると「あれ、どうだっけ?」となりがちなニクイあんちくしょう。



「は」と「が」の使い分け問題。



 ここでワタクシ、一瞬「は」にするか「が」にするか迷ったのですよね。それで結局「が」にしているわけですが。


 ワタクシ、個人的に興味があり、日本語学習をされる外国の方向けの教育について、ちょっと勉強していたことがあるのですが、そこですと明確に使い分けが説明されているのですよね。



「が」は、その一文の前部分を強調する(あるいはそちらにかかる)。

「は」は、その一文の後ろ部分を強調する。



 これを意識して見ると、この文章では「ガラス玉みたいな緑色のひとみをふたつ、らんらんと光らせながら、地面を見おろしていたその猫」つまり「猫」が「塀の向こうへと飛び下りた」ことに装飾が多数ついているということになるわけです。



 猫「が」塀の向こうへと飛び下りた。なら、強調して伝えたいのは猫です。

 猫「は」塀の向こうへと飛び下りた。なら、「塀の向こうへ飛び下りた」行動ないし情景を強調したいわけですね。



 ちなみに、この文章、本来的なワタクシの書き方ですと、


「(塀の上に、)一匹の猫がいる。ガラス玉みたいな緑色のひとみをふたつ、らんらんと光らせながら、地面を見おろしている。それが、ふいに、あわてたように、塀の向こうへと飛び下りた。」


 これ、「塀の上に猫がいる」ことについては、ここには未掲載の文章で触れてあるので、この一文からは割愛してあるのですが、要は読者に見せたい映像の手順から、文章としてきちんとわかりやすいものではなく、読者に優先して観測して欲しいもの順に書いてあるということなんですよね。


 つまりは、カメラワークです。


 文章を書く時、このあたりで生じるジレンマが大きい……!


 「は」と「が」の使い分けには明白な基準があるとして、それは文章技術の問題です。しかし、理解の順番を練り込むと途端に選択する分岐が増える。

 ここを選択する目こそが、書き手の持つ「文章力の幅」であり、ジャンル別で変更すべき文体なのですが、いや実に悩ましい。


 なぜかというと、昔の児童文学の文体と、今の児童文学の文体って、かなり変わっているんですよね。これは絵本や子供向けの本から、一般文芸にジャンプアップするための「橋渡しをするための作品」。つまり「読み方の新しいスキルを身につけさせるための、「一般文芸の読み方に為らすための作品」が、すぱーんと失われている点にあります。


 なんなら、かつてのそのポジションにあったジュブナイル系がそのまま一般文芸に食い込んでいるから。


 これは永遠のジレンマで、人間は慣れ親しんだ文体から離れることを嫌うのですよね。そしてその出版業界から提供されたスタイルや流行というものは、大抵失敗に終わるということです。


 これすなわち、ある年代へと提供するつもりで検討したジャンルが、そのままそれを体験した世代によって「持ち上げられてしまった」ということなので。


 年代によって循環させて、ファンを卒業させて、そのポジションを次世代に継承していってもらうことで固定させようとしたら、そのまま作品が読者ごと動いちゃったと。


 そらそうですよ。ビジネスですもん。

 新しい作品次々作って売らなきゃだから、作家も作品も増やしますやん。

 そうすると「作品の年代固定」とは真逆に作用する。


 でね? もう一つの問題点。

 多少お若い新規さんが入ってくるとしますやん。

 でも、流行れば流行るほどに、先鋭化したファンが古参風を吹かせてジャンル老害化するでしょう? そうして新規が敬遠して廃れるんです。利益追求を重視した「沼らせ」系ほどこれが如実に現われる。


 つまり、文化的貢献度と使命感が薄いものほど寿命が短いということです。

 そりゃそうですよ。急いでたくさん吸い上げようとすれば、なくなりますよ。お金。


 流行の作風や試みというものは、大抵その世代における、柔軟な年代の子たちによって受け入れられるものなのですが、その子どもたちに本を与えるのは親や教師やPTAなわけですよ。そして彼らお若い方々自らが元手(つまりお金)なくして容易に触れられるメディアは、今やYoutube やTikTokなわけですね。


 あれらは、瞬間性のきもちよさと、即効性の高い結論で出来ています。

 たくさんの情報が散りばめられた先に待つ収束の、要は大風呂敷を広げた先の「きゅっ」まで待つ忍耐力がない。というか、そこまでじっくり付き合うだけの時間と体力がない。


 みなさん、お忙しいのでね。


 さあ、ここで困るのが教育界。

 さて、どうやって子どもたちに「長い本」を読ませればいいのやと。

 たくさんの情報を取り入れた先でなければ、取捨選択もできない。結論がまとまる時の充足感も実感できない。



 これでは、人間が、細ります。



 ワタクシ、常日頃からこういうことを考えているわけですが、なぜかと言えば、読み聞かせや書籍提供や選出をするような方々と共にボランティアをやっているからですよ。


 PTAの皆様がたから出るご意見で多いとされる「読ませる本がない」という切実な問題は、本当に根が深い。ラノベがその表紙や外見から、オタク層ではない一般層の親から忌避される以上、スポンサーが出ないということです。譲歩したとして「活字を読む訓練のため」程度に留まります。そうなると次世代に現在のwebラノベ的作風は「慣れ親しんだ文体」として引き継がれないということになり、ジャンルや部門ごと衰退の一途ということになる。


 それはそうでしょう。

 世界観の独自性が薄弱なものであれば、どれでも一緒ということになり、同じ文体の摂取を好むジャンルオタ以外はリピしないのだから。


 ジャケ買いならぬ、ジャケ避けです。

 これは困る。


 しかし、このジャケを好む客層を逃がす訳にはいかない。だって顧客層は裏切れないから。

 エンタメ業界は、つねにこのジレンマと戦っているわけですね。

 ブランド力というのは、常にそういうものだとは思うのですが、品質と客層というものは、自ずとその上限を露呈させているものであり、そこから推測できるものも多数ある。

 継承される文化足り得るかは、少なくとも地球からは逸脱せんわけですが、文化の幹の先端たりえているか、によるでしょう。枝では続かないわけです。


 で、一般的に教育として本を読ませたい親というものは、枝ではなく幹を選定するわけですね。しかし今の若い子たちの土壌となっている「文体」は、かなりそこからも乖離している。それが先に言及した動画の件です。


 読ませたいものと読みたいものの乖離というのが、そのあたりの世代間格差やフィクションの許容量の差となって如実に表れている。



 ほら、今って、「タイパ」とかいいますやん。

 結論だけ見せろって。



 え、長い? あ、ほんまや長いな。

 はいはい。結論ですね。





 私「は」世界観に独自性があり、記号化されていない人間性でできたキャラクターによってその世界が観測できる作品「が」好きです。

 

 なので、そういうもの「が」書けるよう努めてます。


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