ワンダーランド・ダージリン
紗淑
琉美
このタイトルが目についたということは、過去に一度でも魔法を信じた、もしくは魔法を信じたかった経験をお持ちだろうか。そうでなくとも、きっと魔法に興味がおありだろう。
それならもしかすると、幼い頃に木の棒やおもちゃのステッキを使って魔法使いごっこをしたり、映画やゲームのキャラクターが使っていた魔法に憧れたりした人もいるだろう。
もしも本当に魔法が存在したら、何をしたいだろうか。童心に返っておとぎの国に行きたい、もう会えないあの人に会いたい、回復魔法を使いたい。いろんなことが思い浮かぶだろう。もしかしたら魔法はこの現代にも必要なものかもしれない。
そんな現代の日常のちょっとした休憩に、とある魔法の話をしよう。
のんびりとした昼休みの空気が流れる、都内の大学のキャンパス。晴れた春のほんのり暖かい風が吹く中庭。ここの2年生の琉美は、一人パソコンと向き合いながらサンドウィッチを食べていた。
そよ風になびく、肩につく長さのオレンジがかった茶髪。淡いベージュのカーディガンに、片手にはハムとレタスのサンドウィッチ、メイクをしていない目元に華奢なフレームの眼鏡。パソコンの画面には文字の羅列が見える。課題のレポートだろうか。
彼女は医学部生で、いつも学校で忙しくなかなか遊びに行けない日々を送っていた。医学部に入るからには、このように講義やレポート、課題で忙しくなるのは覚悟していたものの、想像をはるかに超えていた。高校生の頃に夢見ていたキャンパスライフとはかけ離れていたのだ。
平日は毎日朝9:00に始まる1限目から、夕方17:00に終わる4限目まで講義に出る。各講義でたいていいつも何かしらの課題が出されるので、家に帰ったら毎日4つの課題に追われる。もちろん全てが難しい、時間のかかる課題ばかりではない。しかし月に1、2回ほど不定期で土日にも課外活動がある。
もちろん彼女が夢見ていたのは、ほどほどに忙しい講義の合間に友達を作り、すこしだけアルバイトをしてお小遣いを稼ぎ、学生らしい遊びも大切にできるよくある大学生活だった。
それでも諦めずに日々頑張っているのは、昔からの夢があるからだ。琉美には小学生の時に入院してお世話になった医師がいるのだが、その人に憧れて医師になりたいという夢を持ったのだ。その人は琉美の部屋によく来て話し相手になってくれる女医で、琉美にとって入院中の数少ない楽しみの一つが、その女医と楽しい話をすることだったのだ。彼女は琉美にいつも優しく、面白い話をしてくれた。琉美は後で知ったことなのだが、その女医は腕もよく医師の間では少し有名な人なんだとか。
琉美の忙しい生活を羅列してしまったが、実は彼女にはとっておきの気分転換方法があるのだ。それがもしかしたら、あの忙しい生活で頑張れる秘訣になっているのかもしれない。ここからが本題なのだ。
とある水曜日の夜のこと。パソコンと向き合っていた彼女は、画面から目を放してキッチンへと向かった。夕食の洗い物が残るシンク、インスタント食品やお菓子のストック。一人暮らしの経験がある人なら、もしかしたら少し親近感の湧くキッチンだろうか。
シンクの斜め下にある少し重たそうな引き出しから、彼女が何か取り出した。それはクリップで封をされた銀色の小さな袋で、続いてそれをシンクの脇のスペースに置くと、電気ケトルに水を入れた。お茶を淹れるようだ。
電気ケトルが湯の湧いた合図をした。すると彼女は戸棚から赤いマグカップとガラスのティーポットを取り出し、さっきの銀色の袋の茶葉でお茶を淹れた。
ティーポットに湯を注ぐと、フルーティで甘い花のような香りが湯気とともに琉美の目の前に広がった。ガラスのポットの中では粒になっていた茶葉が跳ね、解け、ピンク色や青色の花びらが踊るのが見える。すると、厚いレンズの奥で彼女の目がとろっとした。いつもの知的でしゃきっとした眼差しから、幸せそうな眼差しに変わったのだ。
茶葉が踊ってポットの中が赤茶色に変わると、琉美はさっきの赤いマグカップに注いだ。この赤いマグカップは彼女のお気に入りで、太陽のようなオレンジ色の花が描かれている。全体の赤い色とこの花が、温かく情熱的で気に入っているのだそうだ。
そんなデザインのマグカップに注がれた、甘いフルーティな香りの紅茶。それは、琉美に暖かい日差しに照らされたカラフルな花束を連想させる。赤や黄色、オレンジやピンク、白や水色。鮮やかなオレンジ色の大輪のダリアや菊、それを引き立てる少し小ぶりでカラフルな花々、メインの下からのぞく甘い香りを漂わせる花。そのカラフルな花束を真っ白な陶器の花瓶に活けて、真っ白いテラスのテーブルに飾り、お洒落な茶器でダージリンやヌワラエリヤを淹れて、ゆったりとした時間を過ごしている。そんな風景が琉美の目に浮かんでくる。もちろんイギリスのアフタヌーンティーのように、お洒落で美味しいお菓子付きで。
ダージリンやヌワラエリヤは紅茶の銘柄で、なかでもフルーティな香りがすると言われる銘柄だ。特にヌワラエリヤは淡いオレンジ色や黄菊色をした紅茶で味わいも繊細なため、紅茶のシャンパンと言われることもあるらしい。
淹れたてのその紅茶とお菓子を持って、琉美は小さな一人用のソファに座った。肌ざわりのいいすべすべしたクロス、包み込まれるような柔らかさ。これも彼女のお気に入りで、疲れたときは必ずこのソファで休むのだ。
腰を落ち着けて、一息。天井を見ながらすぐ横のテーブルに置いた紅茶の香りを感じながら、ゆっくりと目を閉じる。
「疲れたなぁ…。」
そんな声が聞こえる。
そしてすぐに目を開け、紅茶を一口。すると、琉美はきれいなイギリスの庭園に招かれた。さっきのカラフルな花束の飾ってある、あの庭園のようだ。
まるでおとぎの国に迷い込んだかのような、メルヘンチックな景色。息を吸うと、甘い花やお菓子、紅茶の香りがする。空からはシルクのような柔らかい日差し、足元には緑の芝生にピンクのシロツメクサ、赤茶色のタイル。琉美のいるすぐ横のテーブルにはアフタヌーンティーの用意があり、その向こうには綺麗に整えられた深緑の生垣が見える。少し遠くに目をやれば、ダイヤモンドを敷き詰めたような小川も見える。おとぎ話が好きな子供だった人は、もしかしたらバラの花を赤く塗ろうとするトランプたちを連想するだろうか。
テーブルの上は、全て銀食器で用意されている。スタンドには可愛らしいサイズのスコーン、ピンク色をしたフルーツのタルト、カラフルな野菜が入ったサンドウィッチが乗っていて、ティーポットの注ぎ口からは湯気が出ている。もちろん、ぽってりとした砂糖壺とミルクのピッチャーも置かれている。
可愛らしく、綺麗な景色に心を踊らせる琉美は、景色をひとしきり見渡してからテーブルに着き、アフタヌーンティーを楽しんだ。紅茶はダージリンで、タルトのフルーツは桃だった。桃は彼女がいちばん好きなフルーツなのだ。
赤いマグカップから熱が消え、紅茶の無くなる頃。その横に置かれていたお菓子の袋も空になっていた。
琉美はそっとマグカップをテーブルに置き、深呼吸した。
「さて、またもうひと頑張りしよう。」
大好きなの紅茶の香りが見せてくれた夢が、彼女のやる気を起こしたのだった。
これが、現代にもあるちょっとした魔法の話である。香りとはもしかしたら魔法のツール、ワンダーランドへの鍵なのかもしれない。
この話が誰かの休憩になれますように。
ワンダーランド・ダージリン 紗淑 @sayo_570
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