Tr.10 輪音-Rinne-



『~♪君の名前も、思い出さえ。忘れてしまったとしても。

この約束が またいつか 僕らの行く先を 繋ぐから』


 小さい頃、ずっと歌っていた曲だった。祖母の前で、スターになった気分で歌って踊って。憧れて憧れて、いつか自分もこんな風に歌で人を感動させられるようになりたい。誰かに幸せをあげられるようになりたいと願った、その原点。

 幼い頃やっていたアニメの曲。詠はずっと、この曲が好きだった。好きだったのに。年を取って、日々に溺れる中でいつの間にか忘れていた。

 思い出の曲の、メロディーも歌詞も。

 だからその歌を、時雨の声で聴いた時。驚いて、戦慄して、衝撃を受けたけれど。

 詠の中で最後の扉の鍵が、開く音がした。


 (…私は、やっぱり。)


 璃々ちゃんと共に落ちた後。夢を見た。時雨と旅した道筋を辿る夢。ルナや藍珠さんにもらった言葉を辿る夢。ノワールや寧々ちゃんと、もう一度出逢う夢を。走馬灯というものがあるなら、こんな感じなんだろうなと他人事のように考える。

 ルナとライラちゃんのことを想った。

 理不尽な運命によって夢を叶えられなかったルナと、親友の死という苦しみを背負ったまま生き続けるライラちゃん。二人はこの約二日間、少しでも幸せな時間を過ごせただろうか。

 璃々ちゃんと寧々ちゃんのことを想った。

 大切な妹の未来を奪った自責の念に囚われていた璃々ちゃんと、大切な姉の為に自分の存在すら消してしまいたいと願った寧々ちゃん。二人の憂いを、痛みを、悲しみを…自分は拭えただろうか。変えられただろうか。

 藍珠さんとノワールのことを想った。

 最後まで詠のことを娘のように心配してくれた藍珠さん。世界の真理と大切な命のことを教えてくれたノワール。

 二人はこれから先もずっと、あの世界に居続けるのだろうか。

 そして、時雨のことを想った。

 詠の為に、危険を冒してまで現世に来てくれた時雨。第二街区の森で、詠を拾い上げて知らない世界を見せてくれた時雨。誰よりも音楽に誠実で、音楽の楽しさを私に思い出させてくれた時雨。

 時雨はこれからもずっとあの世界で。旅を続けるのだろうか。


 (…それじゃあ、私は)


 ◆◇◆


 目を覚ますと、美しい雪景色が広がっていて。

 上からはらはらと落ちるぼたん雪が、頬にあたってじゅわっと溶ける。…デジャヴだった。

 ゆっくり体を起こせば、そこは見覚えのある第二街区の森で。再び詠は、あの世界に落ちてきたのだと悟る。

「…大丈夫?」

 頭上に降り注いだ声。視線を上げればそこには、初めて出逢った時と同じように詠に手を差し出す時雨の姿があった。もうライラちゃんの服装ではなく、元通りの白いマントに戻っている。

「…うん。大丈夫」

 微笑んでその手を取る。時雨の手は冷たかった。ゆっくりと立ち上がり、スカートについた雪をパンパン、と払う。

 少し先から誰かの話し声がした。聞き覚えのある声。詠は時雨と顔を見合わせる。

「…行こうか」

 穏やかにそう言って、時雨は声のした方向に歩き出す。

 音の少ない、静かな懐かしい風景を、大好きな背中について、歩く。



 少し開けた森の真ん中に、ノワールと、ヴァル…らしき男の人が立っている。彼が一番最初に詠たちに気づき、少し遅れてノワールもこちらを見た。

「…おかえりなさい、時雨。それに…詠ちゃん」

「ただいま…ヴァルには言いたいことが色々あるけど、あとでね」

「ええ…面倒だな…」

「ここで待っててくれたの?寧々ちゃんと璃々ちゃんは?」

「二人はね…」

 そこで詠たちは、双子の哀しい運命が変わったこと、二人が無事現世に返っていったことを聞いた。その場に立ち会えなかったことを時雨は嘆いていたけれど、詠は満ち足りた気持だった。屋上で、自分の言葉が璃々ちゃんに届いたのかどうかは分からない。だけど少なくとも、自分の行動一つで二人の哀しい運命が変えられたのなら思い残すことはない。

「…さて…」

 静寂が辺りを包む中、口火を切ったのは時雨で。真っすぐに詠の目を見つめて、時雨は優しい笑みを浮かべている。

「…詠は、どうしたい?」

「私は…」

 色んな人の顔が浮かんだ。現世で見た色んな景色がよぎった。時雨がくれた沢山の音楽が反芻した。言葉を探す。答えを、探す。

 詠が言葉を紡ぐまで、時雨は待っていてくれた。いつもと変わらない、優しい笑顔のまま。

 大きく息を吸う。

「…現世に戻った時。絶対にここに帰るって、時雨と永遠に旅をするんだってそう決めてた。未練を失くして、心置きなくここに来るつもりだった。だけど…おばあちゃんに会って、ほんの少し決意が揺らいだ自分に気づいて。大切な人が一人でも現世に居るのに、残してきていいのかなって…」

 視線が下がる。時雨の足元に、はらはらと積もる雪。

「見ないフリをしようとした。現世の…私が居なくなった後の世界のことは、私には関係ないって。でも…ここに来て私は、死んだ後も世界は続いてるって知った。娘を見守ってる藍珠さん、約束のために待ってるルナ…関係なくなんてない。全部私の人生録の続きになってる」

 いつか時雨が見せてくれた、赤茶色い表紙の…詠の人生録が脳裏をよぎる。

「そう気づいたら怖くなった。私のしようとしてること、本当に正しいのかなって」

 命の責任は自分にしか取れない。感じたこと、苦しみも喜びも自分だけのもので。

 責任も捨てて、自分だけの宝物も思い出も感情も全部捨てて。

 本当に、それでいいのかって。

 顔を上げる。自然とこみ上げてくる何かがあって、詠は溢れそうになる涙を必死で留めて、声を震わせながら。それでも、まとまりのない自分の感情を言葉にする。

「…時雨が現世に来てくれて、嬉しかった。また一緒に旅をして、現世にもまだ私の知らない場所があるって知った。見えてなかっただけで、知らなかっただけで。」

 誰も、自分を知らない場所。自分も、誰も知らない場所が、まだあるんだって。そう思えるだけで、少し胸がスッとして息がしやすくなった気がしたのだ。

「何よりもね…っ、一緒に現世で『あまりある残像』歌って、聴いてもらえて…楽しかった。救いだって言ってもらった。…涙が出る程嬉しかった。私が時雨の音楽に救われたように、私の音楽が誰かにまだ届くんだって。あの時に、私まだちゃんとやりたいことがあるって気づけたの」

 勝手に涙が頬を伝っていた。必死で、何を話しているのかも分からなくて。それでも今の思いの丈を精一杯伝えたくて。

「…時雨が…落ちる前に時雨が歌ってた曲ね。私が音楽を好きになったきっかけの曲なの。おばあちゃんの前でずっと歌ってた曲」

 穏やかに聞いていた時雨の顔に、初めて驚きの色が浮かぶ。

「…え、そうなの?ああ…だから詠も驚いてたのか…僕は寧々がよく口ずさんでたから…璃々に信じて貰いたくて」

 ああ…と詠も納得の声を漏らす。璃々ちゃんはあの時、あの歌を聴いて時雨の言葉を信じかけていた。柵さえ壊れなければ、あの時留めることが出来たかもしれない。

 一つ謎が解け、清々しい気持ちで詠はあの曲に思いを馳せる。

「実はね、私にとっても大事な曲だったんだ。…不思議だよね、寧々ちゃんと私、年齢も生まれも違う。生きてきた環境も違う。現世では出逢ったことも無いのに…同じ音楽を知ってた」

 涙に濡れたまま、不格好に詠は笑いかける。

「ノワールの言った通り、人間の生は繋がってる。失われたものは、消えるわけじゃない…私も、時雨みたいに、大切な誰かの心に寄り添えるような音楽を奏でたい。歌いたい。…だから、だからね」

 真っ直ぐに、時雨の碧い眸を見て。

「私、帰る。私にしか作れない音楽で、誰かを幸せにしてみせる。あの曲が私を救ってくれたみたいに。そうやって生きて、生きて…全部終わった後、またここに来るから」

 時雨との思い出も、一緒に作った曲も、溢れ出して止まらなくて。大粒の涙を零しながら、それでも詠は時雨を見る。

「…詠」

「たとえ時雨を忘れても。時雨が居なくても。私には音楽がある。時雨がもう一度好きにさせてくれた音楽がある…それに、命に焼き付いた記憶は、消えない。ルナの約束や、寧々ちゃんにとってのあの歌みたいに。きっと、私はあの曲を…”あまりある残像”を忘れない。だから…」

 時雨の手を取る。冷たい手。詠に曲を書いてくれた手。

 美しい音楽を生み出す手。

「ありがとう…また、必ず」

 時雨の目が、見開かれて。ゆっくりと閉じる。その言葉を噛み締めるように。

「…うん、また必ず」

 そっと手を離した。雪は相変わらず、詠たちを見守るように静かに降り続く。

「…詠ちゃん、」

「ノワール…ごめんなさい。もう今度こそ、大丈夫だよ」

「ええ。…私が、詠ちゃんを送るわ」

 うっすら滲んだ涙を拭いながら、ノワールが微笑む。それを「待って」と時雨が制した。不思議そうに、時雨を振り返るノワール。

「どうしたの?」

「…僕が送る。詠…一つだけ。一つだけね、僕から最後に頼みがあるんだ」

「…頼み?」

 時雨が自分に何かを頼むなんて初めてで。戸惑いながらも手招きする時雨に近づく。耳元で時雨が囁いて、そっと詠のスカートのポケットに何かを入れた。ポケットに少し重さが落ちる。

 意味を咀嚼できないまま、詠は曖昧に時雨を見つめ返した。時雨は寂しそうな、それでいて酷く優しい笑みを浮かべて。

「…元気でね。ありがとう、詠」


 そう一言呟いて。詠が何か告げる暇もなく、すうっと息を吸った。


『~~♪』


 時雨の歌声が響く。雪降る森の中で、時雨の声だけが聴こえる。

 不思議なことに、言葉の意味は分からない歌だった。

 だけど心地よくて、優しくて、幸せな歌だった。

 風が吹いた。雪が舞った。視界が白く染まる。


 耳の奥に、最後まで。

 時雨の歌だけが、残っている。


 そして詠は、この十日間の記憶を全て失くして。

 現世へと、帰った。


 


 


 ◇◆◇


 


 


「…さてと。お別れの時間だ。」


 詠が帰っていった後。暫く沈黙が続いた森に、響くヴァルの声。ノワールだけが状況を呑み込めず、困惑した顔で時雨とヴァルを見比べる。

「…どうやってやったの?ここに迷い込んだ人を返せるのは、ターミナルからだけ…それも私か寧々だけだったのに…」

「時雨は彼女を返したんじゃない。救ったんだよ」

「…意味が分からないわ」

 説明を求めるように、ノワールの双眸が時雨を射貫く。時雨は答えられなかった。ノワールにだけは、自分から説明する勇気が無かった。俯く時雨の横で、ヴァルがいつも通りの飄々とした態度をとる。

「じゃあオレが、答え合わせ役を買って出よう…鍵はセツナが時雨に譲り渡した楽譜…永遠の歌”Paradisにある」

 片眉を上げて、肩を竦めて。変わらぬ飄々とした態度でヴァルが語り出す。


 時雨の人生録が燃え、セツナが時雨を救う代わりに消滅した、数百年前のあの日。譲り渡された永遠の歌”Paradis”の楽譜を、時雨はずっと完成させられずにいた。

 大切な人を想って綴り奏でることで、誰か一つの命を救うことが出来る。

 必要にな時が来たらすぐに使えるように、綴らなくては…そう思うのに、言葉がいつも出て来なくて。

 だけど。

 詠と旅をするようになって、少しずつ言葉が書けるようになった。詠が現世に返った後、ノワールと二人で第七街区を目指して歩いている間に楽譜は完成したのだ。

 セツナから譲り受けた万年筆で、詠のことを想いながら綴った言葉だ。

『必要な時が来たら使うといい』

 楽譜の裏に書かれたセツナからのメッセージ。何となく、必要になる時が来る気がした。そう遠くない未来に。


 そして時雨はその歌を詠を救うために、使った。


「…まさか今のがあの曲?でも、おかしいわ。だって詠ちゃんは死んでないのに…」

 言いかけたノワールの言葉は、途中で止まった。綺麗な青い眸が、衝撃で見開かれる。動揺した彼女の視線が、時雨に注がれて。

「…まさか…」

「そう。璃々が助かったのは、ヴァルが僕と詠を寄越したことで起きたイレギュラーだ。それによって璃々の運命は変えられたけど…代わりに、失われることになった命があったんだよ」

「…それが詠ちゃんだって言うの?」

「本来一緒に落ちる人はいなかったんだ。でも詠が璃々ちゃんを助けた。ノワールも分かっているはずだ。運命の天秤は残酷で、絶対に傾かない。誰か一人が生き延びる運命になれば、バランスを保つために誰か一つの命が奪われる」

 本来死ぬはずだった璃々は生き延びる運命へと、人生録に修正が入った。そのバランスをとるために…一緒に落ちた詠の命が、失われた。

 否、失われるはずだった。

 二人が落ちた時。時雨はそれに気づいてしまった。どの道誰か一人分、器を失くさなきゃいけないのなら。

 それは、あの日消滅するはずだった自分であるべきだ。

 だから時雨は、永遠の歌を使って時雨の命を詠に渡したのだ。

 何も知らせないまま、詠を現世へと返すために。

 絶句したノワールの唇が、言葉を失う。

「…そう。もう分かったかい?時雨はね、詠の命を救うためにさっきあの曲を歌った。だ…だから…ああ。もうお別れが近いね」

 冷静にまとめるヴァルの視線を感じて、時雨は自分の両手をかざす。うっすらとその手が透けているのを見て、ノワールがハッと息を呑んだ。

「…本当だ。意外と早いんだね。…セツナは…僕の為に消えるその瞬間、何を思っていたんだろう」

「最後までいつも通りだったさ。消えかけてるのにオレに取引を持ち掛けてきて、君に楽譜を渡すように言ってきたり…」

「ははっ、あの人らしいねまったく」

『君が必要になったら使うといい』その言葉と共に託されたあの楽譜。詠の為に使ったことを時雨は一つも後悔していない。元々、あの時失われるはずだった命だ。セツナが繋いでくれて、数百年も長く生きて。この世界を沢山旅して、沢山の音楽を作って、ノワールといろんな話をして。沢山の人に…詠に、出逢えた。

 幸せな旅路だった。

「し、時雨…」

「…ふふっ、ノワールが泣くなんてレアだね。そんな顔しないでよ。『刻まれたものは、なくなるわけじゃない』そう言ったのは君だろう?」

 もう消えかけの両手で、ノワールの手に触れた。微かに、まだ温かさを感じられる今のうちに。

「…寧々も詠も居なくなって、その上僕まで消える…酷いよね、本当にごめん。でも間違ったことをしたとは思ってないよ。…許してほしい」

「…許さないわ。何千年後まででも、絶対に覚えていてやるんだからっ…」

 綺麗な泣き顔のまま、恨めしそうにノワールが時雨を睨む。苦笑して、時雨はそっとノワールの手を離した。

「うん。忘れないで…僕の音楽だけ、ずっと覚えていて」

 そうすれば時雨自身も、永遠になれる。

 今度はヴァルに向き直る。最後まで何を考えているか分からない彼は、うすら笑みを浮かべたままだ。

「…どこまでが君の仕込みだったの?」

「…さあね。でも君が居なくなるのは想定外だ」

「そう。じゃあ一泡吹かせられてよかったよ。…ノワールを、よろしくね」

「まったく無責任だねぇ。…まあ、運がよかったらまたいつか会おう」

 ヴァルの含みのあるその言葉が聴こえた時、もう時雨の体は半分くらい感覚がなくなっていた。

(…ああ、ヴァルは僕が託したことが何か気づいてる)

 でも、何も答えることはしなかった。

 徐々に透けていく自分の体を眺めながら、時雨はふっと天を仰いだ。苦しくはない。夢の中に落ちていく時みたいな、穏やかで優しい温かさがある。


 涙がたまったノワールの碧い眸を、最後に見つめ返して。


「…ありがとう。さよなら…忘れないよ」


 目に薄い膜が張って、一滴の雫が零れ落ちた時。

 頭の奥で微かに、懐かしいピアノの音が聴こえた気がした。

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