Tr.9 スターライトと星の海

 


 少し時間を遡り、ターミナルにて。


 ヴァルとノワールが、時雨を現世に送ったことも。入れ替わりでやってきたライラが、ルナに会うために第三街区へ行ったことも。

 その一部始終すべてを、寧々は他人事のように眺めていた。 

 いつも通り、何もイレギュラーはない。

 三百六十五日、五年、十年とそうやって、何もない毎日を監視して過ごしてきた。第九街区から一歩も出ずに、ただ画面だけを見つめて。たまに来るノワールや時雨と少しだけ話をして。

 つまらなくて寂しくて、何の希望もない馬鹿みたいな時間。もう何年前からここに居るのかも、忘れてしまう程に。大切なものも全部、忘れてしまう程に。

 ふと気になって、画面を切り替える。

 時雨と入れ替わりでこちらの世界に来たライラは、第三街区でルナと楽しげに過ごしている。

「…どうせ、あと少ししか居られないのに」

 呟いてから思った。大切な誰かと過ごす数時間は、独りぼっちで過ごす十年よりずっと価値があるんじゃないだろうか。

 寧々がそれを、一番よく知っている。


「…君もああなりたい?」

「…いつから、そこに居たの」

 背後から聴こえた声。驚きはしたけれど、ヴァルの神出鬼没にはもう慣れた。変わらない不敵な笑みを浮かべたヴァルが、ゆっくりと近づいてくる。脇に、二冊の本を抱えて。

「んー?ほんの数秒前さ」

「…どうやってここに来たの」

「勿論、第七街区から真っすぐ上がってきたんだよ?」

「…なんで?」

「えー?…抗った結果を見届けようかと」

 ニヤッと笑って、ヴァルは寧々の机に緑色と薄紫、二冊の本を置く。

「…さてと、どこから話そうか…まずは君に、思い出してもらうところからかな?」

「…思い出す?」

「うん。…現世の詠って子の様子を、見てごらんよ」

 ヴァルはいつも意味深な笑みを張り付けている。仮面のようだと、寧々はいつも思う。指図され深く考えもせず、画面を操作して現世の詠を探した。

 ターミナルでは現世の様子も勿論見ることが可能だ。最初にノワールからそう説明されていたし、やり方も知っていた。但し、必要に駆られない限り寧々はあまり見たことがなかった。寧々の役目はあくまでこちらの世界の監視。現世で何が起きていようと関係なかったから。

「…あ、いた…」

 見つけた。

 詠は、ここで寧々と別れた姿のままで。隣に時雨もいた。時雨は服装も背格好も入れ替わった相手の…ライラの物なので、少し変な感じがした。

 二人が佇んでいるのは、どこかの屋上。真っ暗な闇の中、色んな色の小さな光が瞬いている。詠が話していた、夜景とはこれのことだろうか。

 詠と時雨の視線の先には誰かが居て。その人物に、必死に話しかけているようだ。画面を操作して、寧々はその人物の顔が見えるように調整する。

「…え…?」

 その奥に立っている人物を認識した時。寧々の心臓がドクン、と跳ねた。

 緑色の髪。強気を絵にかいたような、切れ長の赤い眸。

 その後ろには夜空。手に握られた…お揃いの、星のピン。


「…あ…」


 記憶の鍵が揃う。失くしていた最後の針が、廻る。


◇◆◇


 寧々の大切な片割れ。双子の姉、璃々。

 いつも明るくて天真爛漫で、強気でかっこいいお姉ちゃんだった。寧々と生まれた時間がほんの少し違うだけなのに、性格も正反対で。いつも寧々の手を引っ張って、色んな場所に連れて行ってくれる璃々が大好きだった。

 引っ込み思案な寧々は、学校で友達が一人も出来なかったが。璃々がずっと一緒に居てくれて、寧々も璃々が居ればそれでいいと思っていた。

一方で璃々が友達と居られるはずの時間を奪っている気がして、申し訳なくて。それを璃々に言うといつも怒られるから、口にしないことにしたけれど。


 一緒に流星群を見たあの日。

『ねえ、先に願い事決めようよ!次出てきたら、一緒に願い事唱えよう!』

『そうだね…璃々は何お願いするの?』

 寧々も考えてはみたものの、思いつく願い事はたった一つで。璃々の願い事が気になるな…と尋ねてみる。すると璃々は一瞬も迷わず、言い切った。

『勿論、寧々とずっといられますように、だよ!』

 お揃いの願い事は、流れ星に届いただろうか。


 それが叶わなかったと知ったのは、それからまもなく。十四歳の冬、寧々は父と乗ったバスで事故に遭った。

 そして…この世界に、落ちた。


 ◆◇◆


「…どうして、ボクは…こんな大事なこと…」

 現世で、璃々と詠が何か話している。それも耳に入らないくらい寧々は動揺していた。今の今まで自分は、誰よりも大事だった璃々のことを忘れて。

 思い出しも、しないで。

「それはねえ…これだ」

 ヴァルが薄紫色の人生録を、机の上に置いた。パラッと捲ったその一ページ目が、黒く焼け焦げている。全部が焼けているわけじゃないが、前半の部分がごっそり抜け落ちていた。

「これって…もしかしてボクの人生録?」

「そ。途中がごっそり焼け焦げているだろう?…この世界に落ちて来た君は時雨に拾われて、少しの間この世界を旅した。だけど君は現世の時間にして七年間、目を覚まさないことが運命られていた」

 ヴァルの三日月のように細い目が、寧々を射貫く。説明を聞きながら、微かに記憶の断片が脳内で再現されていく。


 寧々が落ちたのは、今いる第九街区の雨の街だった。訳も分からずぼーっとしていたら、暫くして偶然通りかかった時雨が寧々を拾ってくれた。

 事故の記憶は曖昧で、でも自分が死にかけたという事実は覚えていて。摩訶不思議な場所に一人放り出されて戸惑っていた寧々を、時雨が暫く一緒に連れて行ってくれた。詠の時と同じように。

 第七街区、第八街区、第五街区…と順に回って。最終的に第四街区までたどり着いた。寧々は一目で第四街区を好きになった。だって、一年中星空だけを見られるなんて夢みたいだ。

『…璃々にも見せてあげたいなあ』

 そう呟いた寧々を、時雨が切なそうな目で見ていたことは覚えている。

 旅をして回った数日の間、時雨に一度尋ねたことがあった。どうして旅をしているのか、何故自分を拾ったのか。時雨はその時遠い目をしながら、古傷に触れられたみたいに顔を歪めて答えた。

『…昔、昔ね。僕の命を救ってくれた恩人がいたんだ。』

『…救ってくれた?』

『そう。僕が無鉄砲な行動をとって、自分の人生録を燃やしかけてね…人生録の焼失は即ち完全な消滅を意味するから。僕は本来、この世にもういない筈だったんだよ。転生もできず、本も燃えて、跡形もなく消える筈だった。だけど吟遊詩人だったその人が、自分の命を賭して助けてくれたんだよ』

 曰く、その人に命を救われて今があるのだと。だから自分は吟遊詩人として、音楽を作りながら旅する使命を受け継いだのだと時雨は話した。

 

 寧々がこの世界に落ちて、十日ほど経った頃。時雨が突然、第九街区の塔に行くと言い出した。最初に落ちた、あの雨の街のことだった。時雨に連れられて塔の中に入り、プラネタリウムみたいな部屋で時雨が探し物をする間待った。

 その場所はターミナルといって、唯一こちらの世界と現世が繋がっている場所なのだという。

 しばらくして時雨は、本棚から薄紫色の本を取り出した。真剣に読み耽るそれを、横から覗き込んでみたけれど。見たことのない文字で書かれていて、寧々には読めなかった。何でもこの世界の住人にしか読めない文字らしい。

 随分長い時間をかけて、時雨はその本を…寧々の人生録を読み終えた。何もできない寧々はその間ずっと、ただぼんやり色んな街を眺めながら待っていて。

 やっと立ち上がった時雨に、「遅い…」と苦言を呈そうと振り返って。やけに暗い表情の時雨と目が合った。

『…どうかした…?』

『…寧々、落ち着いて聞いてね』

 そして寧々は自分が、暫く現世に帰れない運命だと知った。


 それから一か月くらい経ったある日。時雨は、少しだけ人に会いに行く…と朝早くどこかへ出かけて行った。後から考えると、ノワールに会いに行ったんだと思う。その時は第四街区の塔にいて、寧々はひたすらに星空と、時雨が探してきてくれた璃々の人生録を交互に眺めた。

 現世で生きている人間が何をしているのか、人生録を通して見ることが出来る。事故の後、父が自分の治療費を払い続けてくれていて。璃々も責任を感じてずっとふさぎ込んでいるらしい。毎日寧々の病室に通い詰めて、返事もしない寧々に話しかけていると。

 ただ、申し訳ないと思った。すぐに戻れないことも、この先ずっと迷惑をかけ続けることも。心の中に重たい雪のような罪悪感が積もっていく。

 自分が璃々の足枷になりたくない。璃々を縛って、幸せを奪ってしまうなんて嫌だ。それならもう、いっそのこと。

 何時間経ったか分からないが、コンコンと真鍮の扉をノックする音が聞こえて。時雨が帰ってきたのだと思った寧々は、扉を開けた。

『…おや、珍しい。君が例のイレギュラーなお客さんかい?』

『…だれ?』

 シルクハットに、マント。手品師みたいな風貌の男が、寧々に語り掛ける。

『オレはヴァル。旅商人をしてる。…時雨は?』

『…今はいない』

『行き違いか。仕方ない、出直そうか』

『待って』

 踵を返した背中を、呼び止める。ヴァルは胡散臭い笑みを消さずに、眉を上げて促すような眼差しを向けた。

『…旅商人。時雨が言ってた、取引をする人?』

『へえ。時雨がオレの話をしたのかい?』

『うん。前に一緒に旅してた人の話の時に』

『ああ…セツナのことか』

 納得して頷いたその人…ヴァルは、再び閉じた扉に背を預け腕を組む。

『で?オレに何か用かい?』

『…頼み事したら、何でも聞いてくれるって本当?』

『ああ、ただし代償は支払ってもらうよ?タダでの取引はしない主義だ』

 ヴァルの目がギラリと光る。寧々はほんの一瞬躊躇した後、その願いを口にした。

『…ボクという存在を、現世から消すことはできる?』

『…何故?』

 予想外の頼みだったのか、初めてヴァルは驚いた表情を見せた。

『ボクは、暫くここにいなきゃいけない。だけどそれは、現世で家族が眠ったままのボクの面倒を見たり、治療費を払い続けるってことでしょう』

『…まあ、そうなるね』

『…それは嫌だ。璃々には、ボクのことなんか気にせず幸せになってほしい』

 璃々に迷惑をかけて、お荷物になるのだけは絶対に嫌だ。今この瞬間も、自分の存在が璃々を苦しめている。

 どれだけ待っても、何年待っても、自分は目覚められないのに。報われない希望だけ持って、生き続けるのは一番辛い。

 璃々と一緒に居られないのなら、璃々だけでも幸せになってほしい。璃々が自分の為に身を削るより、百倍も。例え、自分が死んでしまったとしても。

 寧々の頼みを聞いたヴァルは、真剣な面持ちのまま口を開く。

『…悪いけど、それだけはオレも出来ないんだ』

『どうして?』

『ここの決まりでね。人生録に加筆は出来ても、人間の存在を…命そのものをどうこうすることは出来ない。命は、例えどんな理由があっても本人にしか操れない』

『…だったら』

 寧々は入り口のすぐ傍の壁に差し込まれた、一冊の本を手に取った。時雨に許可を得て持ち出した、自分の人生録。自分には読めない、薄紫色の人生録。

 思い出したのは、いつか時雨が話してくれた過去の話。


『僕が無鉄砲な行動をとって、自分の人生録を燃やしかけてね…人生録の焼失は即ち完全な消滅を意味するから。僕は本来、この世にもういない筈だったんだよ。転生もできず、本も燃えて、跡形もなく消える筈だった。』


 人生録が燃えてしまったことで、自分の存在が消える所だった…と時雨はそう言っていた。それを聞いた時、ふと思いついてしまったのだ。

 人生録が燃えれば、自分の存在ごと全部消せるのではないか。

 それは今の寧々にとって…璃々のお荷物になりたくない寧々にとって。最適解のような気がした。

 バッとそれを抱えて駆け出した。目指したのは応接室、ピアノと暖炉のある部屋。後ろから足音が聞こえる。ヴァルが追いかけてきているようだ。名前を呼ばれている。それでも振り向かずに走った。

 もうその答えしか、寧々には見えない。

 バン!と応接室のドアを開けて、暖炉の前まで走ってそして。

 一瞬迷う。けれど、脳裏に璃々の笑顔が浮かんだ瞬間。

 寧々は自分の人生録を暖炉の火の中に投げ入れた。

 視界が真っ白になって…刹那。次に目を覚ました時、寧々は全ての記憶を失くしていた。赤色だった眸は、なぜか左右それぞれ違う色になっていた。


「オレはあの後、火の中から君の人生録を救出した。幸い燃え残った部分が多くて、君は消えずに済んだ。後からやってきた時雨とノワールに事の顛末を話した。時雨はオレに対しても怒っていたし、君に“人生録を燃やす”という方法を予期せず教えてしまったことも後悔してた。あれから時雨は『もう連れは作らない』って、誰かと共に旅するのを恐れるようになった」

「…ボクにここの管理をさせたのは?」

「…それは、寧々がここに居る理由を作ってあげたかったから…」

 いつの間にかもう一人。ヴァルの横に現れたノワールが、酷く申し訳なさそうに眉尻を下げて言う。

「為すべきこともなく、やりたいこともなく…希望になるような記憶もないまま十年以上の時を過ごすなんて、あまりに酷だから。せめて何か理由をあげたかったの。」

「…そうなんだ」

 結局寧々のとった行動は無鉄砲なだけで、消えることも出来なくて。自分だけが璃々を忘れて、生き続けて璃々に迷惑をかけた…その結果は同じだった。

 何とも言えない虚無感が、襲い掛かってくる。

 何もしなくても、璃々は十年間苦しんで。自分で自分の大切な記憶を葬り去って。

着々と同じことを繰り返す日々に嫌気がさして、一緒にいてくれる誰かを作ろうとして。詠に、間違った道を示した。

「…ボクは何のために十年もここにいたのかな…」

 ポツリと呟く。ノワールが何か言おうと口を開いた。

 刹那。

『…っ、璃々!詠!』

 後ろから酷く切迫した時雨の声。ハッと三人同時に振り向く。映し出された画面の向こうで、璃々と詠が一緒に夜の中に落ちていくその光景は。

 まるで現実味のない、ドラマでも見ているかのようで。

 一瞬の間のあと、少し遅れて現実が返ってくる。

「…璃々ッ、璃々ッ!」

 叫んだってどうしようもないのに、画面の奥に呼びかける。

「ヴァル、二人が落ちたのはどこ!?」

「ええと…ああ、いた。詠は前と同じ第二街区。璃々は…」

 動けない寧々を押しのけて、ノワールとヴァルが何か話している。璃々の居場所を聞いた瞬間、震える足で駆け出そうとした。

 パシッ

 腕を掴まれる。振り向けばヴァルが寧々の腕を握って、制止している。

「寧々はここに残るんだ。まだ話の続きがある」

「…っ、離して!ボクは璃々を…」

「璃々はノワールが迎えに行くから。どの道すぐに会える。その間に…君に話さなくちゃいけないことがあるんだ」

 ヴァルの紫色の双眸に、微かな優しい光が滲んだ。


◇◆◇

 

 真っ暗闇の中で、璃々は沢山の記憶を見た。


 これが走馬灯か…と半ば安らかな気持ちで、記憶を俯瞰する。どれも皆、寧々との思い出ばかりで。改めて自分には、大切な物が寧々しかなかったことに気づく。

 星空を見るたびに寧々を思い出して、泣いて。もう戻ってこないんだって、頭では分かっているのに我儘を言った。璃々だけが諦めずにずっと寧々を繋ぎとめようとして。父にも諦められて、私さえ寧々を諦めてしまいたいって思うようになって。 

 最後は不可抗力だったとはいえ、きっと自分は落ちて死んでしまったんだろう。一緒に落ちた赤い服の女の子は大丈夫だっただろうか。どうかあの子だけでも、生き残ってほしい。

(…それにしても、私は最低な姉だったな。)

 自嘲気味に笑った所で、ゆっくりと意識が浮上する。

 最初に目に入ったのは、鉛色の曇天。真っすぐに自分めがけて降り注ぐ、数多の雨粒。体中が濡れて、服が張り付いている少し気持ちの悪い感触。

 静かに身を起こした。退廃的なビル街のど真ん中に、自分は倒れていたようだ。人の姿は全く見えない。雨音以外に何の音も聴こえない。

「…あの子、は…?」

 一緒におちたはずの赤い服の女の子を探す。近くには見当たらなかった。やっぱりここは、自分の夢の中か。はたまた自分だけが死んで、ここに…天国に来てしまったのかもしれない。

「…バチが当たったのかなあ…」

 寧々に執着して、そのせいで寧々をひどい目に遭わせて。なのに寧々を諦めようとして…自分勝手だった自分の末路。

「…ふふっ、ここが天国なら寧々に会えたりしないかな…」

 諦めの笑みを浮かべながらそう、呟いた時。


「…璃々ちゃん?」


  背後からそうっとかけられた声に、振り向いた。

 銀髪に黒いドレス。変わった身なりの女性が、覗き込んでいる。差し出された手は雪のように白く、見つめ返す眸は吸い込まれそうな青だった。

「…璃々ちゃん」

「…どうしてあたしの名前…あなたは誰…?」

「歩きながら説明するわ…立てる?」

 神秘的なオーラを纏ったその女性に、見覚えは無い。だけど何か魂胆があるようにも見えず、悪意も感じない。少し迷って、一旦璃々はその手を取り立ち上がった。

 女性がふっと悲し気に笑う。

「ついてきて…少し長いはなしをするから」



「…死者の世界?」

 ノワール、と名乗った女性が開口一番にもたらした真実。ぽかんと口を開けた一方で、納得もしていた。やっぱり自分は屋上から落ちて、死んでしまったんだなと。

「そう。正確には死者が次の生に転生するまでの間過ごす世界。だから天国とは違うのだけど…」

「…なるほど」

 相槌を打てば、驚きの眼差しでノワールが璃々を見る。

「信じるの?」

「え…だって屋上から落ちたのは覚えてるし…それにさっきから、貴方雨にあたってるのに濡れてない…」

 隣を歩く私がずぶ濡れなのに対して、ノワールのドレスは出逢った時も、一緒に歩く間も全く水を含んだ様子が無かった。璃々の答えを聞いたノワールは何故かぱちぱちと瞬きした後、苦笑する。

「ふふ…こんなに早く信じてもらえたのは初めてよ。じゃあ今からの話も、落ち着いて聞いてね」

 一つ大きく息を吸って、ノワールが話し始める。

 この世界には人生録という本があり、その中に全ての人の人生や運命が綴られているのだという。運命られた始まりと終わりは変えられない。命が一つ燃え尽きて、次の生へと転生するまで綴られた物語は、その人の記憶と共に閉じられる。そして新しい人生録へと移る。

「本来ならね、璃々ちゃんの人生録は今日終わるはずだったの」

「本来なら?」

「ええ。…結論から言うとあなたは死んでないわ。助かったの。…詠ちゃんと時雨というイレギュラー分子の介入によってね」

 飛び降りる直前にやってきたあの二人は、この世界から遣わされた謂わば異分子だったそうだ。あの屋上から飛び降りて死ぬはずだった璃々の運命は、あの二人によって曲げられた。

「…そんなに簡単に運命って変わるものなの?」

「簡単に…そうね。一つ糸を掛け違えれば、全てが壊れる。全てが変わる。人の縁も運命も、そういうものじゃない?それに、簡単にって訳じゃないわ。普通はこちらの世界から介入することなんてまず出来ないから」

「…じゃあどうしてあたしを助けたの?」

「あまりにも悲しい物語の結末を、変えたいと願った人物がいたからよ」

 いつの間にか、目の前にとてつもなく高い塔が聳えていた。迷わず入り口のドアをくぐるノワールを、慌てて追いかける。

 塔の内装は真っ黒で、緑の光が所々点滅していた。不気味なその空間を、ノワールは躊躇いなく進む。奥の部屋に入ると、長い螺旋階段が上に伸びていた。カツ、カツと二人分のヒールの音がこだまする。

「貴方は今日死ぬ運命だった。でも人生録ではね、明日寧々が現世に戻ることが運命られていたの」

「…あっ、」

 屋上から落ちる直前、青髪の人が似たようなことを言っていたのを思い出す。

「え…じゃあ…」

「そう。本当ならあなたたち双子は行き違いになる運命だった。寧々が戻っても、貴方はもういない。貴方はあと一日待てば、寧々に会えたかもしれない…」

 言葉を失う。七年間眠り続けて目を覚ましたら、大切な人が皆居なくなっていた時の寧々の気持ち。想像もしたくない。恐ろしくて、でもそれすら知り得ずに死んでいた筈の未来を想って、身震いする。

「…じゃあ、じゃあ、あたしは死んでないんでしょ?助かったんだよね?寧々も明日目を覚ますってことは変わらないんだよね!?」

「ええ…変わらないわ」

 振り向いたノワールが優しく微笑んだ。今璃々の頭は、話についていくのにやっとだけど。もしそれが真実なら。

「じゃあ…あたしはもう一度、寧々に会える?」

 声が震える。それには答えず、最後の一段を登り切ったノワールが笑顔で最上階の部屋のドアを開けた。


「…っ、璃々ッ!」


 夢にまで見た、声がする。

 ドアが開いた瞬間に、ガバッと胸に飛び込んできたその、懐かしい匂い。

 信じられない。手がぶるぶる震える。勝手に涙が溢れ出す。

「ね、…寧々…?」

 震える声で問えば、抱き着いていたその顔が上がって。涙にぬれた赤色の眸が、私を見上げていて。記憶のままの寧々がそこに居て。

「ほ、本当に寧々だ…っ」

「…璃々、あのね璃々のせいじゃないよ。璃々は悪くないよ、ごめん…」

 寧々の姿は、璃々が最後に見た時の…十四歳のままで。紫色のパーカーも、星のピンも全部。記憶の中に焼き付いている寧々の姿そのものだった。

「すぐに戻ってあげられなくてごめん。璃々を苦しめちゃってごめん」

「…そんなのっ…違う…私のせいで寧々はあんな目に…」

「違うよ、璃々。ボクがああなるのは、決まってたことだ。人生録に運命られてたことだったの。だから璃々は悪くない」

 涙腺が壊れたように、次々と水滴が落ちていく。抱きしめた寧々の体はちゃんと温かい。少し身を離せば、顔を上げた寧々と目が合った。寧々はあの日のままなのに、璃々はもう七歳も年上の姿をしていて。何だかタイムスリップしたみたいで思わず互いに微笑む。

「璃々、凄いお姉さんみたい」

「だってお姉さんだもん。…でも戻ったら寧々、大変だよ。七年も経って…」

「大丈夫だよ。だって璃々がいるんでしょ」

 笑う寧々をもう一度抱きしめる。きっと傍から見たら母と娘のように見えるんだろう。一通り温もりを確かめ合って、また身を離す。

 後ろを振り向いた寧々が、視線を注いだのは。シルクハットにマントという、風変わりな男の人。

「…ヴァル。色々ありがとう」

「お礼を言われる筋合いはないよ。オレはただ…取引を全うしただけだ」

「…嘘つき」

 意味深に呟いて、シルクハットを目深に下げる。その人と寧々がどういう関係なのかは分からないが、寧々は清々しい顔つきでその人にもう一度礼を言った。

「…ノワールも…今までありがと」

「ええ…っ、ごめんね、寧々…よかった…」

 その目尻に涙が浮かんでいるのを見て。寧々は一瞬璃々の手を離すと、タタタッと女性の所に走り寄りその胸に飛び込んだ。ノワールが愛おしそうに寧々を抱きしめて。そっとその手を離す。

「さて…私が二人を送り届けるわ」

「大丈夫。最後の仕事だと思って、ボクにやらせてよ」

 寧々の一言に、ノワールが一瞬視線を彷徨わせた後、ゆっくりと頷く。

 再び璃々の元へ戻ってきた寧々が、璃々の手をギュッと握る。夢なのか現実なのか、もう分からないけれど。二度とこの手は離さない。一緒に固く手を繋ぐ。

「…大丈夫、これからはずっと一緒だよ」

「…これ、夢じゃないよね?何年も、何回も夢に見たの。寧々が戻ってくる夢…これも、もしかしたら…」

「違うよ、大丈夫。ボクはちゃんと璃々の隣で目覚めるよ」

 寧々が笑う。これが夢でないと、信じたい。今目の前にいる寧々も、その言葉も。とめどなく零れる涙を拭いながら笑顔で頷いた。

「…じゃあ、ボクたち行くね。」

 二人に向き直った寧々の表情が少し曇る。

「一つだけ…詠にごめんって伝えてほしい。それから時雨にも璃々を助けてくれてありがとうって。」

「…オーケー、伝えておくよ」

 「…じゃあね。ノワール、ヴァル」

 一歩ずつ後ずさっていく。寧々が部屋の中央にあった、地球儀のような球体に触れる。ふっと体の内側から温かい何かが押し寄せるのを感じた。目の前が光で満ちていく。

「…ねえ、寧々」

「ん?」

「あの人たちはどういう人たち…?」

 寧々は少しだけ考えるような間をおいて。小さく笑んで答える。

「…ボクの…なんだろうね。でも大事な人たちだよ」

 ギュッと寧々の手を握る力が強まる。光の粒に包まれて、その視界が真っ白に染まって。


 この世界から璃々たちの体が消える。その最後の瞬間まで。

 しっかりと握った手は離さなかった。

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