Tr.8 哀色あいろにい

 

 自然と瞼が開いた。


 不規則な揺れと、背中に固い感触。視界には、まだ明けていない夜の、藍色。電線と電柱が時折、視界の中に流れていく。

 …そうか。寝台特急に乗ったんだ。

 ほんの少し、空の果ての方が白み始めた明け方。こんな時間に起きたのは久しぶりで。詠はしばらくぼんやり寝転がっていた。

 隣から微かな寝息が聴こえる。首だけそちらを向けば、目を閉じた時雨の横顔が見えた。まだ、時雨はここに居る。その事実に少しホッとした。

 起き上がるのは億劫で、でも眠るには勿体なくて。段々と薄まっていく藍色を、明けてゆく空を。ただ、眺めて過ごした。


 ◆◇◆


「…ここが、この紙に書いてある場所?」

「うーんと…正確にはもう少し船で移動があるけど。もうすぐだよ」

 列車を降りた後、一旦作戦を練るため駅前広場のベンチに腰掛ける。詠は時雨と、ヴァルという人が渡した紙の場所とスマホの地図を見比べた。

 まだ朝七時半の広場には、全然人が居なかった。一応この辺りでは中心部の大きな駅のはずなのだが。平日の、出勤ラッシュのこの時間にこんなに人が居ないのか…と少なからず驚く詠。

「…なんかここは、少し息がしやすいね」

「…そうだね」

「…ねえ、時雨」

「うん?」

「…お腹すいたからさ、ごはん食べない?船の出航時間まで、まだあと一時間くらいあるみたいだし…」

 遠慮がちに提案してみる。昨日の夜は随分早めの時間に食べてしまったのだ。朝、車窓から明けの空を眺めている時には既に、空腹で何度もお腹が鳴っていた。

 時雨は目を丸くした後、クスっと笑う。

「いいよ。何が食べたい?」



 広場の近くにオシャレなパン屋さんがあったので、そこで朝食を取ることにした。昨日に引き続き今日も、雲一つない快晴で。少し肌寒かったけれど、外のテラス席に好きなパンを買って、持って行って食べた。

 詠も時雨も、昨晩寝る前に話したことには触れなかった。向こうで旅した時のように、何も知らなかった頃のように、笑って話した。

 食後の珈琲を楽しむ間、時雨は少し神妙な面持ちでルナとライラちゃんの過去について、詠に教えてくれた。魂を入れ替えたことで、その記憶や現在を眠りの中で見たのだという。

「…そっか。じゃあ今ルナは、ライラちゃんと一緒に過ごしてるんだね」

「うん。…嬉しそうだったよ、ルナ」

「よかった…“待ってなきゃいけない人”ってライラちゃんのことだったんだ」

 詠は一瞬しか本物のライラちゃんと会話していない。でもあの時確か、ライラちゃんはリボンのネックレスを「命よりも大事だ」と言っていた。リボン、と言われて思い出すのはルナの顔で。

「あれももしかしたら、ルナから貰ったプレゼントだったのかな…」

 しみじみ呟けば、通りの向こうに見える海に視線を遣りながら時雨も小さく笑う。 

 詠はライラちゃんのことを想った。

(…たった一人の親友と理不尽に引き剝がされて。悔しかっただろうな。無力な自分に腹が立っただろうな。)

 それでも、腐らず前を向いて生き続けて。

「…ライラちゃんは、強いよね。ルナに会えなくなった後も、ちゃんと生きて」

 その言葉をどう受け取ったかは分からない。詠は揺れる珈琲の表面に映る、自分の歪んだ顔だけを見ていた。

「…彼女はそれを“強さ”とは捉えてなかったよ。記憶を共有した時流れてきたのは、自己満足で、薄情で…ルナの分まで夢を叶えるって決めた自分を、綺麗ごとだって否定したりする苦しい感情ばかりだった」

 時雨は淡々と語る。温かくも冷たくもない、平坦な声音。第五街区で真実を語ってくれたノワールの話し方に、少し似ている。

「死は理不尽にやってくるけど、人間は全員いつか死ぬ。それだけは平等だ。死が身近に現れた時、『前を向いて精一杯生きる!』も『一生思い出して悲しんで悼む…』も。間違ってないと僕は思うよ」

「…そうだね。でもね、生きたくても生きられない、ルナみたいな人がいるって考えるとね。私のとった選択は責められても仕方ないなって気はするの」

 遠くからどこかの学校のチャイムが、秋風に乗って運ばれてくる。時雨の視線が自分に注がれたのを感じた。何か言われる前に、また口を開く。

「命を粗末にしちゃいけない。自死だけは駄目だっていう人の意見も、ちゃんと分かってるんだよ」

「…それは僕には分らない。他人の命に関しては、誰も何も言えないよ。責任を取るのはその人自身なんだ。詠の命で、詠の人生だ。だけど…」

 落ち着いた、深い海の底みたいな声音で、時雨が言う。

「結果詠は、死ななかった。それには意味があると思う」

 心の奥底で、何か一つ。鍵の開く音がした。


◇◆◇


 九時に出航した船は、とても豪華な二階建てで。一階には車やバスを乗せる車庫があり、二階に人が乗る仕様だった。

 船の内部には窓側にボックス席、真ん中に横並びのベンチ席が固まっていて、まだ朝早いせいか人の姿はまばらだった。詠と時雨は最初、窓側のボックス席に座ったのだけれど。デッキにでて海風を感じたくなった詠は、時雨を誘って外に出る。

「ねえ、ところで着いた後どうやってこの…霜月さん?を探すの?」

「…ヴァルのことだから、ここに辿り着けば自然と会えるものだと思ってるんだけどな…」

 苦い顔で、時雨が手元の紙片を見る。随分、ヴァルという旅商人を信用しているんだね、と言えば更に時雨の表情が曇った。

「信用はしてないさ。ただ、あいつは無意味な取引はしない。あと取引は必ず遂行するのがヴァルだから。そこは心配してない」

「そ、そうなんだ…」

 ヴァルの話になった時だけ、時雨はあからさまに嫌な顔をする。誰に対しても人当たりの良い時雨にしては、珍しい。何か過去に因縁でもあるのだろうか。

 しばらく無言で海を眺める。遠くに小さな島が見えた。緑しかない…無人島だろうか。生まれてこの方無人島なんて見たことがない詠は、思わず目を凝らす。

「…そういえば詠、音符のネックレスは?ライラに拾ってもらったんじゃ…」

「あ。あれは…チェーンが切れちゃってたから、もう付けられないの。」

 鞄から壊れたネックレスを取り出して時雨に手渡す。本当だ…と呟きながら切れたチェーンを持つ時雨。

「…それ、小さい頃おばあちゃんがくれた物だった。向こうの世界に居る時は、どうして大事にしてたのか思い出せなかったんだけど…。十歳の時、大好きだったアニメがあってね。それに出てくる凄く好きなキャラクターが、音符のネックレスをしてて…」

 確か、変身物のアニメだったと思う。可愛いコスチュームに返信した少女たちが、毎回街で起こる様々な敵を倒し、事件を解決していく…そんな内容の。

「アニメも好きだったけど、作品の中でその子が歌う曲が凄く好きで。毎日おばあちゃんの前で歌ってたんだ。そしたら、十一歳の誕生日におばあちゃんがこれを買ってくれたの」

「へえ…その曲、今でも覚えてる?」

「勿論!えーと…あれ?出てこないな…」

 死ぬほど歌って死ぬほど聴いた曲なのに、ど忘れしてしまった。うんうん唸りながら思い出そうとする私を見て、時雨が笑う。

「思い出したら、歌って聴かせて。」

 そう言って、壊れたネックレスを詠のカバンにそっと滑り込ませた。



 辿り着いた最果ての島は、自然豊かで人が少なくこじんまりとした場所だった。

 降りてすぐ、船のチケット売り場の優しそうなおばあさんに歓迎され。この住所へはどう行ったらいいか…と尋ねると、親切にバス乗り場まで案内してくれた。

 バスを十分ほど待って、乗り込む。都会で使っていた電子カードは使えず、小銭で二人分支払った。バスには詠たちの他に、老人が一人乗っているだけだった。

 目的のバス停は、島中心の丘の上にあった。三十分で到着して降りる。

「…え、ここで合ってるよね?」

 スマホの位置情報と住所を見比べる。あと徒歩一、二分の差しかない。

「とりあえず…行ってみようか。」 

 困惑した表情で、時雨が先に上に続く道へ進む。

 また時雨の後について歩く。ふと振り返れば、かなりの高台にいるようで。碧い海、隣に浮かぶ島、昼間の月。緑いっぱいの島の中に、ポツポツと立ち並ぶ家。

「…第三街区とちょっと似てるよね」

「え、私は第四街区に似てるなって思ったよ?森の中に家が隠れてる感じが…」

「第四街区はそもそもこんな明るくないじゃないか」

 いつの間にか隣に並んで、海を眺める時雨と。そんな軽口をたたく。

「…綺麗な場所だな」

「…うん、そうだね」

 初めて来た場所なのに、ほんの少し懐かしさがあって。故郷に雰囲気が似ているからだろうか。それとも、時雨が隣にいるからか。

 じんわりと胸に温かい何かが広がるのを感じながら、再び詠たちは丘を登った。



「…え?たまにしかここに来ない?」

「この…霜月さんって人ですか?」

 詠と時雨が同時に問い返す。顔を見合わせた。二人から問い詰められたカフェの店員さんが、困り顔で視線を落とす。

「はい…彼女、普段は島を出て本土の介護施設で仕事をしていまして…休みの時はうちのカフェを手伝ってもらってるんですけど…」

「そ、そうなんですか…」

 指定されたのは、島が所有している庭園のような場所で。一番近くのカフェに聞きこみに行った詠たちはそこでその事実を知らされた。

「ヴァルのやつ…どういうつもりだ…」

「…単純に知らなかったのかもよ?たまにしかここに来ないこと」

 聞き込みだけで帰るのも申し訳ないので、少し早めの昼食を…と席に座り注文する。店員さんが去った後、時雨が大きな溜息を吐いた。

「とりあえず職場の名前は聞けた。また船で戻ってそこへ向かうしかないな」

「でも仕事中は無理だと思うよ。夜まで待たなきゃ」

 介護の仕事の人は、昼勤や夜勤など働く時間が様々なイメージがある。今日はそもそも出勤日じゃないかもしれない。

「はあ…全くヴァルは何がしたいんだ…」

 悩む時雨の横で、詠は内心安堵していた。その人に会えてしまったら、時雨との旅が終わりを迎えてしまう。今の詠は、この先どうしたらいいのか結論が出ないまま、考えるのを放棄していた。あともう一つ、鍵が足りない。決められない。

 ヴァルという人が何を思ってこの場所を指定したか分からないが、猶予が延びたのは好都合だった。さり気なく時雨に提案する。

「…折角だから、この島を観光して帰らない?どうせ時間余ったんだし」

「…まあ、仕方ないよね。他にやることもないし。いいよ、詠は何がしたい?」

 渋々受け入れてくれた時雨にニコッと笑顔を返して、詠は最初に貰った島の観光地図を広げた。

 カフェで美味しいハムサンドをご馳走になり、昼の一時を過ぎて。まずその庭園周辺を散策する。

 この島はオリーブが名産品らしく、至る場所に沢山オリーブ製品が売っていた。買うつもりは無かったのに、いざ名産品を目の前にすると購買意欲が高まる。結局大きいものは買えないので、オリーブの葉を閉じ込めた栞を一枚買った。

「詠、第三街区に居た時も栞欲しがってたよね。ステンドグラスのデザインの」

「あー!あれは本当に欲しかったなあ…心残りの一つ…」

 思い出して残念がる詠を、時雨は優しい眼差しで見つめていた。

 続いて、もう少し丘を登った所にある風車に向かった。

 そこは魔法映画のロケ地になった場所らしい。自由に乗って撮影できる、魔法使いの箒が用意されていた。詠と時雨も箒に跨ってみたはものの、それ以上どうしようもなく、一分で返却した。

 その丘は心地の良い風が吹いていて、誰もいなかった。草むらに寝転んで、日向ぼっこしようと提案する。

「日向ぼっこには寒くないか…?」

「いいの。空を眺める時間も必要でしょ」

 そうして二人、暫く仰向けのまま空を眺めて過ごした。変わった形の雲を見つけて、時雨に何に見えるか問う。時雨の感性は独特で、毎回詠が予想もしないような答えが返ってきて面白かった。

 次第に睡魔が襲ってきて、少しだけ眠った。森のざわめき、緑の匂い。まるで第一街区の森に居る時みたいな心地よさで、詠は幸せな夢を見た。

 小一時間ほど経って、時雨に起こされた詠は時計を見る。時刻は三時半を指していた。知らない土地を観光していると、時間の経過が驚くほど速い。

 十一月の今はこの時間でも少し日が傾き始めていた。もうそろそろ丘を下って、船に戻ろうと時雨に言われ。茜色に染まり始めた空と風車に後ろ髪を引かれながら、時雨の後に続く。

 丘を下る道すがら、様々な家が立ち並んでいて。学校から帰ってくる制服姿の少年。畑をたがやす老夫婦。ご近所さんと立ち話をしている主婦さんたち。どの人も皆、明らかに観光客らしき詠たちに笑顔で会釈してくれた。

 不思議な気持ちだった。知らない街には知らない街の「いつも」があった。自分が知らなかっただけで、この世界にもまだ色んな場所があるのだ。

 自分が、誰も知らない場所。誰も、自分を知らない場所。この世界にもそれは沢山あって。

 逃げればよかったのかもしれない。誰の言葉も批判も届かない場所へ。


◆◇◆


「…あっ!」

 ドン!と時雨の背中にぶつかる。「ごめん」と謝りつつ、突然立ち止まった時雨の視線の先を追った。

「…あ…」

 来る時に降りたバス停の、反対向き路線の乗り場。そこは、白いアーチで囲まれた石造りの広場のような場所で。古代ローマを思わせるような白い彫刻、石畳に刻まれた文様…その中央に。

 ピアノが、あった。茶色いアンティーク調のピアノだ。

 その場所は、第五街区のノワールの神殿にも似ていたし、第三街区のルナと時雨が演奏していた広場にも似ていた。茶色いピアノは、藍珠さんの塔にあったものと似ている。

 瞼の裏に、時雨のピアノに合わせて幸せそうに歌っていたルナの姿が蘇る。藍珠さんと三人で、色々話し合いながら作曲した夜のことも。

 ピアノの前で、二人が手招きしているような気がする。

「…時雨、」

 静かに名前を呼ぶ。隣で時雨が小さく笑った。

「…いいよ。」

 コツ、コツと靴音を立てて。時雨がピアノに近寄る。閉じ切っていたピアノの蓋を全開にして、一つ鍵盤をポーンと押した。ピアノはきちんと誰かに手入れされているらしく、ちゃんと正しい音が出た。

 スッと、時雨が椅子に座る。ふわっと、鍵盤に手を置く。

 詠は、ピアノの窪みに立って。時雨を振り返り、頷いて。


 時雨の手が奏でたその曲は勿論、「あまりある残像」。


『~♪朝露、木漏れ日を浴びて…惑う胸の内まで澄み渡るような空気を…』


 歌い紡ぐ言葉の一つ一つに、あの世界での思い出が蘇る。

 第一街区の森の美しさ、雪降る森で時雨と出逢ったこと、ルナの音楽が大好きだと語った輝く眸、藍珠さんの甘くて幸せなクッキーの味、寧々ちゃんの寂しそうな横顔、ノワールがくれた言葉の数々。

 全部全部、この歌の中に。


『~♪それを幸せだと思いながら、旅した…知らない街を君と歩いたこの日々を…』


 ピアノの音色が優しい。時雨のピアノは心地よく、詠を支えてくれる。音楽の波に乗せて、そっと運んでくれる。

 楽しい、美しい、幸せ。その感情だけが、零れる。


『~♪世界が歌う、私にはあまりある日々を~』


 最後の一節が、終わって。歌声はピアノに乗って遠く、夕陽の沈む海へ、茜色の空へ、溶けていく。

 時雨の手が、最後の一音を、弾き終えた。


 パチパチパチ…

 背後から聴こえた力強い拍手の音。驚いて振り返れば、中学生くらいの女の子一人と、庭仕事をしているらしき年配の老人が手を叩いていた。

「いやあ…まさかこの歳になってこんな演奏を間近で聴けるとは…」

 先に声をかけてくれたのは、老人の方で。

「わたしゃ毎日ここの庭を手入れしててね。ピアノも管理を任されて、毎日雨除けのカバーを掛けたり、調律に立ち会ったりしているんだが…長いこと誰にも弾かれていない可哀そうなピアノでねえ。私ももうこれが弾かれる所なんて見られないと思っていたんだが…ありがとう、お嬢さんたち。いい歌だった…」

 ニコニコ顔でお爺さんが去っていく。その後ろ姿を見送った後、今度は中学生の子がおずおずと近寄ってきた。

「…この島小さくて、何もなくて。誰か、何か変えてくれないかなって、ずっと思ってたんです」

 その子は、暗く淀んだ目をしていて。一瞬その眸に詠は、かつての自分の面影を見た。変わり映えのしない毎日。詠も昔、願っていたことがある。漫画やアニメの世界みたいに、ある日突然イレギュラーが舞い込んで自分の日常を百八十度変えてくれないかな。特別な存在にしてくれないかな、と。

 でも、現実はそんなに優しくなくて。結局、何も起きなかった。あの頃のすべてに無気力で、絶望していた自分がそこに居る気がして。

 けれど、パッと上げたその子の顔に、うっすら笑顔が浮かぶ。

「でも今日…聴けて良かった。今の曲、凄く好きでした。…ありがとうございます、私に違う日常をくれて。…ちょっとだけ、こういう日もあるんだなって思えました。…救われた気持ちです」


 不器用に紡がれた言葉だけを置いて、その子はペコリと会釈して去っていく。その背中を見つめながら、どうしてか涙が出そうになって。詠は俯く。

 自分の紡いだ言葉が、誰かに届く瞬間を。詠はずっと夢見てた。

 百万人じゃなくてもいい。有名じゃなくてもいいから。誰かの日常に彩を添えるような音楽を、ずっと作りたかった。歌いたかった。

 背中にそっと、時雨の手が触れたのを感じながら。

 声も出さず静かに、手で顔を覆って。私は泣いた。


◆◇◆ 


 元来た道を辿り、バスに乗って船着き場まで戻ってきた。その頃にはもう西の空が真っ赤に燃えていて、時刻は四時半を指していた。次の船が出るのが五時だというので、チケットを先に買って待合室で待つ。

 最初に声をかけてくれたチケット売り場のおばあさんと談笑しつつ、丁度船が着いてじゃあそろそろ乗ろうか…と立ち上がった時。

「あの…すみません…!」

 後ろから焦った声がして、振り向く。見ると、エプロンを付けた女性が駆け寄ってきていた。丘の上のカフェの、店員さんだ。

「あ…あの、何か?」

「霜月さんに会う用事があるみたいだったから…これ渡してくれますか?」

 女性がパッと開いた手の中にあったのは…星のピン止めだった。それを見た瞬間、時雨の顔に衝撃が走る。

「え、これは彼女の物ですか?」

「はい…いつも大事に付けてて…先週来てくれた時に更衣室に落ちてたの。探してたら困るから早めに返してあげたいなって…」

 詠はそのピン止めに見覚えがある気がした。時雨が真剣な表情でそれ受け取る。

「じゃあ、お願いします…!」

 お辞儀をして、立ち去ろうとする女性を。時雨が「あの…!」と呼び止める。

「…霜月さんの顔が分かる物って持っていませんか?…大切な物を預かるのに、別人だったら困るので…」

「ああ!それもそうですよね…写真があります…!えーと…この子です!」

 女性はスマホを取り出して、一枚の写真をこちらに見せる。

 そこに映っていたのは、緑の髪をポニーテールにした赤い眸の女の子。二十代前半くらいだろうか。写真の中の彼女は、控えめに笑ってピースをしていた。大人っぽい黒のブラウスに、お洒落なブレスレットをして。

 その顔が誰かに似てるな…と感じた瞬間。詠は思い出した。

 この星のピン。寧々ちゃんがしていたものと同じだ。そしてこの子の顔立ちは、寧々ちゃんにそっくりで。

「…あいつ…もしかして…」

 小声で呟いた時雨の顔は険しい。

 気づいてしまった事実に動揺を隠せないまま。時雨のシャツを、そっと握った。


 ◆◇◆


 「寧々にはね、双子の姉がいるんだ」


 本土へ戻る船の中で、時雨は寧々ちゃんの哀しい物語を詠に話して聞かせた。

 相手が自分の一部であると思えるほど、仲の良かった二人。不運な事故によって、現世とあの世界に引き剥がされてしまった二人。

「…寧々ちゃんを返すことは出来なかったの?」

「残念ながら寧々の場合は、人生録で予め期限が運命られていたんだ。その期限の日までは返せなかった。詠の時みたいに、あの世界に落ちて来た寧々に僕は声をかけてね。少しの間一緒に旅をして、あの子の人生録を確認した。そして寧々が、あの世界に留まらなくてはならない運命だと知ったんだ」

 時雨の手の中には、寧々ちゃんがしていたのと同じ星のピンが握られている。

「寧々は姉のことをいつも名前で呼んでた。璃々って。だからヴァルに示された”霜月”って苗字にはピンとこなかったんだ…あいつ、なんでこんなまどろっこしいことを…」

「…ねえ、璃々ちゃんは双子だけど、当然現世で年をとっているんだよね?」

「勿論。現世では七年経過しているから、今は二十代前半のはずだ」

「…七年」

 七年もの間、意識不明の妹の命を諦めずに待っていたのか。治療費だって決して安くはないはず。途中で心が折れてもおかしくない年月であるのに。

「…ヴァルさんから託された伝言の内容って…」

「…伝言はこうだ。”十一月七日、君の最愛の人は目を覚ます”」

「最愛の人って…寧々ちゃん?十一月七日って…」

 詠はスマホのホーム画面を確認して、目を見開いた。

「えっ、明日!?それじゃあ…」

「うん。寧々は明日現世に返されるって。それが伝言の内容…でもあいつ、どうしてそれを知ってたんだろう」

「人生録に記されていたからじゃないの?」

「…だって、寧々の人生録は読めないはずなんだ」

「読めない?どうして?」

 時雨の口から語られたのは、あの世界に来た後の寧々ちゃんの話。衝撃の事実に唖然とする一方で、腑に落ちる点もあった。何故寧々ちゃんが自分を突き落として、あの世界に留まらせようとしたのか、その理由を。

 全てを知った詠は、暫く言葉が出なかった。

「…運命って何だろうね。どうしてこんなに残酷なんだろう」

「それは…僕もずっと思ってたよ。それでも縁や運命というものは、僕たち人間にはどうしようもない。抗えるだけ、抗うしかない」

 時雨の大きな手が、星のピンをギュッと握りしめる。船はもうすぐ本土に到着する。カフェの店員さんが教えてくれた、璃々ちゃんの職場の住所をもう一度読み返して。騒ぐ胸を鎮めるように、深く息を吸い込んだ。


◆◇◆ 


 今年は八年ぶりに、ふたご座流星群が月明かりの影響なく綺麗に見える年だ。


 霜月璃々がそれを知ったのは、週末に行ったカフェバイトで。店員の有馬さんに教えてもらった時だった。見られるのは、あと約一か月後の十二月十四日の夜。

「…また見られたら。お願いごとしたいな」

 八年前。二人で一緒にアパートのベランダから見た、美しい流れ星を思い出す。

「…でもあれ、よく考えたら願い事叶わなかったな」

 寧々とずっと一緒に居られますように。

 その願いは数か月後に木っ端みじんに吹き飛ばされ、璃々はもう八年近くも寧々と話せていない。

 ヒュウウッと冷たい風が吹いた。寒い。薄着で出るんじゃなかった。建物内に戻ろうかな…と踵を返そうとして。

 はたと足を止める。

 ここから飛び降りたら、また寧々に会えたりしないだろうか。もう一度寧々と話せたりしないだろうか。

 寧々はもうとっくに天国にいるのかもしれない。自分が寧々の体だけをこの世に引き留めているだけなのではないか。

 天国で寧々が、自分を待っていてくれたりしないだろうか。

 寝不足の続いた頭で、ぼーっとする思考で、そんなことばかり脳裏をよぎる。

 もう一度柵に近づいて、下を覗いた。ゴクリ、と喉が鳴る。

 怖かった。高い所は苦手だ。でも、今ならどうだ。ちょっと柵を乗り越えるだけだ。幸いここの柵は低い。この時間なら、通行人もいない。ひょいっと越えて、パッと手を離せば…。


「…待って!だめえっ…!」


 ハッと息を呑む。傾いていた体勢を戻して、ゆっくり後ろを振りむく。

 赤い服の女の子と白いシャツの…青年かまたはボーイッシュな女性か。


 この時間に、こんな何もない古びた屋上に現れた奇妙な二人組は、やけに神妙な顔つきでそこに立っている。


◇◆◇

 

「…待って!だめえっ…!」


 その命を今にも放り出そうとしている人が目の前に居たとして。なんて声をかければいいのか。ついこの間自分も同じ立場であったはずなのに、いざ現場に立たされれば叫んで止める以外の選択肢は思い浮かばなかった。

 詠は誰より知っている。柵の手前で、あと一歩踏み出せば奈落の底。そういう場所に立つ…そのたった一歩の境目は凄く脆くて、曖昧で。

 ほんの一ミリでも触れてしまったら、倒れるドミノみたいに。

 詠と時雨は今、彼女の命に手をかけている。

 初めて見る寧々ちゃんの姉…璃々ちゃんは、一瞬面食らった表情を浮かべたもののすぐに作り物みたいな笑顔になって。


「…ただ星を見ていただけ。誤解しないで…大丈夫です」

 返された言葉からは、何も意図が読めない。

 ここへ来るまでは、ピン止めを返して伝言を伝えるだけのつもりだった。だけど地上から、ビルの屋上に佇む璃々ちゃんの姿を確認した時、察してしまった。詠はかつての自分の面影を見た。

 死神の釜が首すれすれの位置で止まっている、人間の姿。

 大切な双子の妹の命を引きずって、それでも生き続けてきた璃々ちゃん。いっそ死んでしまったのなら、諦めて割り切って生きられたのかもしれない。でも寧々ちゃんの体だけは生きていて。捨てることも諦めることも出来ず、戻ってくると信じたいのに心の底では無理だと自棄になって。

 もう諦めてしまいたいと、何度思っただろう。七年も必死に待って、それでも現状が変わらなかったのだ。絶望して当然だ。

  そっと、刺激しないように。ゆっくり璃々ちゃんに近づく。不審そうな目で詠たちを睨みながら、璃々ちゃんが数歩後ずさった。詠は右手に持ったそれを…星のピンを、差し出す。

「…これ…あの…届けに来たんです…」

「あっ…!」

 璃々ちゃんの目が、大きく見開かれる。

「それ、どこで…」

「島のカフェの店員さんが、更衣室で拾ったそうです」

 少しほっとした。彼女の興味がピンに注がれたことに。

 不自然な動きをしないように注意を払いつつ、彼女の手のひらにピンを落とす。微かに震える手で、ピンを大切にギュっと握り直す璃々ちゃん。

 戸惑いの眼差しが、こちらに向く。

「ありがとう…でも、どうして貴方がこれを…?」

(…しまった。)

 それに対する言い訳を詠は用意していない。焦った脳裏に「何かしゃべって彼女の興味を繋ぎ止めなきゃ」という一点だけが浮かぶ。

 咄嗟に出てきたのは正直な理由で。

「あ…さっき、その…島のカフェに行ったときに璃々さんを探してるって言ったら、届けてほしいって言われて…」

「あたしを探してた?どうして?」

「それは…」

 答えに詰まった詠は、背後の時雨に助け舟を求めた。片眉を上げて応じた時雨は、その場で静かに問い返す。

「…霜月璃々。君は、寧々の双子のお姉さんだよね?」

 寧々。

 その名を聞いた途端、璃々ちゃんの眸に衝撃が走る。極限まで璃々ちゃんの警戒心が高まったのを感じる。険しい顔つきのまま、探るように璃々ちゃんが時雨を凝視する。

「…寧々のこと、知ってるの?」

「うん。このピンを見た時、すぐに気づいた。姉とお揃いで買った大切なピンだって、寧々が見せてくれたことがあったからね」

「…何言ってるの?このピンがお揃いだってこと、知ってるのは家族だけで…あたしを揶揄ってるの?」

「揶揄ってなんかいないよ。あのね、君に話したいことが…」

「来ないで!」

 鋭い声。ビクッと肩が揺れる。

 璃々ちゃんが眸を冷たくする。ぶわっと彼女の心の中で何かが決壊したのを感じた。近寄ろうとした詠と時雨を両手で制しながら、一歩ずつ後ずさる。ぴいんと張りつめた空気が、この場を支配している。

「寧々はもう七年も意識不明のまま…あたしの、あたしのせいで…」

 璃々ちゃんの声が震える。辛くて苦しくて、身が引き裂かれそうな声音だった。 

「違う、君のせいじゃないしそれに…」

 時雨がその続きに何を言おうとしたのか分かった。ヴァルから預かった伝言だ。だけど、今このタイミングで言うのは得策ではない気がする。咄嗟に時雨を制しようとしたが、間に合わなかった。

「大丈夫、寧々はもうすぐ目を覚ます…信じて」

「…っ、何も知らないくせに…都合のいい慰め言わないでよっ」

 大声を出した拍子に、彼女の背中が柵にぶつかってガン!と音を立てた。腰の高さまでしかない柵が、グラグラと揺れる。随分古い柵で、錆びついていて凄く嫌な音を立てている。心臓がドクンと跳ねる。

 璃々ちゃんの手が、柵をガシッと掴む。ヒュッと喉から声にならない息が零れた。咄嗟に足が一歩前に出る。がくがくと膝が笑う。二人同時に、璃々ちゃんに向かって手を出す。

「違うんだ、本当に…!」

「…だめっ…!」

「私には!」

 三人同時に叫んだ。詠の手は、璃々ちゃんに触れられないギリギリの所で止まっている。赤色の眸が揺れている。

 その眸の向こうに、かつての…ベランダから飛び降りた自分が、映っている。

「…私には、寧々しかいないの…でももう戻ってこない…もう無理だよッ」

 璃々ちゃんはゆっくりと体を反転させる。

 詠は喉から声を絞り出しながら駆け出す。


「寧々ちゃんを、もう一人にしないであげて…っ!」

「!」


 ピタリと璃々ちゃんの動きが止まった。パシッと詠の手が璃々ちゃんの手を掴んだ…その瞬間。



『~♪君の名前も、思い出さえ。忘れてしまったとしても…』

この約束が またいつか…』



 場違いに響く歌声。詠と璃々ちゃんが同時に振り向く。

 歌っていたのは時雨だった。聞き覚えのある旋律に詠は目を見開く。このメロディーは、自分が幼い頃ずっと祖母の前で歌っていたあの曲の。

「ど、どうして…?」

 隣から微かに聞こえた驚愕の声。ハッと璃々ちゃんを見れば、唖然とした表情で時雨を見つめている。目を閉じて歌い終えた時雨が、微笑んだ。

「寧々がずっと口ずさんでた。君の好きな歌だって」

「…他の人の前でその曲を歌ったこと…ない…じゃあ、本当に…?」

 璃々ちゃんの声が震える。

「本当に、寧々を知ってるの…?寧々は戻ってくるの…?」

 璃々ちゃんの心が僅かにこちら側に傾いたのを感じた。ホッとした詠と時雨が、返事をしようとした。


 刹那。

 

 ガシャンッ

「…!?危ないっ…」

 金属がひしゃぐような音。消えた柵。

 柵に体重をかけていた璃々ちゃんの体が、揺らぐ。傾いでいく華奢な体躯。がっしり掴んだ手首が手錠となって、詠の体も一緒に闇夜に引きずり込まれていく。

「…っ、璃々!詠!」

 時雨の叫び声が聞こえる。

 全てがスローモーションになった。夜空が、屋上が、時雨が伸ばした手が、遠ざかっていく。


「…っ、ヴァル!ノワール!」


 時雨がその名を叫ぶのが耳に入った瞬間。

 詠の視界はブラックアウトした。瞼の裏に美しい夜景だけを、焼き付けて。


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