Tr.6 雪華鏡-ゆきかがみ-

 『雪ってさ、どうして冬にしか降らないのかな?』


 懐かしい声がする。パッと目を開けると、空が白い花を…雪を降らせていて。

『…さあ。確か冬は寒いから、雲を作ってる水の粒が凍ってそれが解けずに地上まで降りてき…』

『もー!そういうことじゃなくって!ライラはロマンがないなあ…』

 自分のことを呼ぶ声は、鈴みたいに軽やかで、高くて、凛としていて。対するライラは、自分の声が苦手だった。女の子らしくない、ハスキーで大人びた声。

『昼間に降る雪もいいし、夜の雪は幻想的だけど…この時間もいいよね!』

『…そう?なんか色のコントラストが変じゃない?』

『もーいいよ!ライラにこの良さを分かってもらおうとした私がバカだった!』

 プン!とそっぽ向くその子。髪に大きなリボンをあしらったその子。怒るといつも、シマリスのように頬を膨らませるその子。

 フッと自然に頬が緩む。

『…まあでも、綺麗だとは思うよ。…この景色』

 ライラは視線を目の前の海に移す。冬の海は死ぬほど寒くて、手がかじかんでもう動かなかったけれど。舞い落ちる雪も、反射する水面も、綺麗だと思った。

 確かに、この時間の雪も悪くない。夕暮れの茜色に映える白。もうじきあの夕陽は水平線の彼方に消えて、夜が訪れる。

 …ずっとこの夜が続けばいいのにな。


 そう呟いた声は、彼女に…ルナに、聞こえていたのだろうか。


 ◇◆◇


「…ちゃん、ライラちゃん…」


 誰かが呼んでいる。瞼が重い。固い地面の感触。ざわざわと、何かが擦れるような音。あの夕暮れの海で嗅いだような、微かな冬の匂い。

「…ライラちゃん!」

 ハッと意識を覚醒させる。勢いで起き上がれば、目の前に見知らぬ女の人の顔があって。

「わっ!?」

 思わず身をのけぞらせる。その女性…銀髪に黒っぽいドレスという珍しい装いの彼女は、慌てて早口で捲し立てる。

「ご、ごめんなさい…!驚かせるつもりはなくて…大丈夫?」

「え…あの…あなた…というかここどこ!?私さっきまで…」

 さっきまで病院に居たはずだ。私用で近くまで来たついでに、昔お世話になった看護師さんに久しぶりに挨拶しようと病院に立ち寄って。一通り挨拶を終えた後、知らないお姉さんに落とし物を届けてあげて二言三言会話して。荷物を取りに病院に戻ろうとして、そして…。

「…あれ?どうしたんだっけ、その後」

「あー…」

 首を捻るライラの前で、ドレスの女性は言葉を探すみたいに視線を彷徨わせる。

「君は倒れたんだよ。病院に戻る前に」

「え?」

 背後から声がして振り向く。今度はシルクハットにマント…というもっと特徴的な見た目の男性がそこに立っていて。しかもライラが今居るのは、何やら遺跡みたいな崩れかけの建造物の石畳。段々、わかってきた。これはきっと…

「夢、だ」

「え?」

「そっか。私、倒れちゃって、今夢見てるんだね」

 倒れるほど体調が悪い自覚はなかったけれど。確かに最近は、ダンスに打ち込みすぎてちょっと無理をしていた気がする。そのせいで自分は倒れて、ここはきっと夢の中なのだ。そうじゃないと、この奇怪な現象に説明が付かない。謎の風貌の男女と遺跡に囲まれている自分。

「…まあいっか、それで。と、いうわけで今から君に良いものを見せてあげる。彼女についていくといい」

「一緒に来てくれる?…会わせたい人が、いるの」

 普段の自分ならば警戒して絶対についていかないけれど。ここは夢の中、いずれ目が覚める。それなら、好きに動いたっていいだろう。

 穏やかで柔らかい、神秘的なオーラを纏った、その女性に歩み寄る。

 彼女は少しだけ、悲しそうに微笑んだ。

「行きましょう…あなたもきっと、会いたい人だから」


◆◇◆ 


 そうして黒いドレスの女性に先導されたライラは夢の中を歩いた。今まで見たどの夢より景色が鮮明で。木も石畳も夜空も、全部本物みたいだ。

 夢では大概、意味の分からない現象が起きる。一緒に居るはずのない、小学校の友達と高校の先輩が仲良くサバイバル生活をしてる…とか、そんな感じの。だからこの夢も同じ類なのだとライラは納得した。見ず知らずの人が出てくるパターンは初だったが。何かこんな夢に繋がるようなアニメでも最近見ただろうか。

 そんなことを考えながら歩くこと約一時間。いつの間にか全く違う景色が広がっていて。現実世界に近い、ビル群。雨が降っている、街…のような場所に出る。

 歩いている間ドレスの女性は色々と話しかけてくれたが、よく覚えていない。思考がぼんやりして、記憶に霞がかかったみたいだった。

 意識がハッキリしたのは、謎の真っ黒なタワーに連れていかれて、プラネタリウムみたいな部屋に入れられた時。紫のパーカーを着た少女と女性が何かを喋った次の瞬間、私は青空の下にいた。

 波音、海猫の鳴き声、船、綺麗な晴れの空。

 さっきまでいたはずのタワーはどこにもない。唖然として辺りを見回すライラの横で、ドレスの女性は涼しげな顔で立っている。

「…瞬間、移動…?」

「ええ、まあ…そんなところかしら」

 女性は曖昧に笑った。今日の夢は、随分ファンタジー要素が多い。

 そうして彼女とまたポツポツ会話をしながら、浜辺を歩いた。海を見ると、いつも思い出してしまう。あの雪の日に、ルナと一緒に見た海。

 茜色の空と、小さな雪の粒。



 ライラがルナと出逢ったのは、小学五年生の時。

 昔からどこか冷めていて、現実主義な子供だった。他の友達が「スーパーヒーローになりたい」「プリンセスになりたい」と話す中、「あれは全部御伽噺だから、ヒーローにもお姫様にもなれないよ」と答えるような子供。

 優しさのつもりだった。だって、叶わない夢を信じ続けるなんて可哀そうだ。早く教えてあげた方がいいじゃないか。

 でも、そんな私を周りの子たちは嫌がった。意地悪だと言われ、泣かれ、仲間外れにされるようになって。結局、小学校の高学年になるまで…ルナに出逢うまで、ライラに友達はいなかった。

 ただ、ライラは別に友達が居ないことを寂しいとも、空しいとも感じなかった。むしろ一人で過ごす方が気楽だ。何も気にせず、気を遣わず、好きなことが出来る。

 そう、ライラはダンスが好きだった。テレビの歌番組でたまたま見かけた、アーティストのパフォーマンス。中央で歌うその歌手よりも、ライラの視線はバックダンサーの一人に釘付けになった。

 その人はまるで重力なんて無いみたいな軽やかさ、しなやかさで。小柄なのに、信じられないくらい迫力があって。一瞬で、魅入られた。

 親に初めて我儘を言い、ダンススクールに通わせてもらった。小さな教室だったが先生は凄く熱意のある人で。嬉しいことにライラにはダンスの素質があったらしい。熱心な指導のお陰で、入って三年目には教室で一番の実力と言われるようになった。

 ライラは放課後も毎日、空き地で好きな曲でダンスを練習した。同級生がそれについてコソコソ噂をしているのも知っていたが、気にならなかった。

 自分にはダンスがある。それだけでいい、と思っていた。

 ある日の黄昏時。いつもの空き地に先客がいて、近くの別の小さな公園に行った。寂れたその公園には誰もいなくてラッキー、と音楽を流しながら練習をしていると。

『~♪キミの世界がミタイ、ミタイ~』

 流している音源とは別に歌声が横入りして。驚いたライラは思わず振り返る。

『…あっ、ごめん、邪魔しちゃった?』

 そこに居たのは、水色のブラウスに紺のスカートを纏った、同い年くらいの女の子。頭に大きなリボンを付けた彼女は、ニコニコしながらライラの元に駆け寄ってきた。

『いいよね!その曲!私も大好きなんだ!』

『…ふうん。そうなんだ』

 一目見て、相容れないと思った。女の子らしい…を体現したようなその子は、よくライラの陰口を言う女の子たちとタイプが似ている。ショートカットに、パーカーに短パンで踊っているようなライラとは、絶対に気が合わない。

 だけど、その子…ルナは目を輝かせてライラに話しかけ続ける。

『ここのサビのメロディがね、私のすっごく出しやすい音域で…』

『…音域?』

『あ、音の高さの幅のこと!私、歌が好きで、いつか歌手になるのが夢なんだ!だから歌のレッスン受けてるの!』

『…へえ、そうなんだ。』

 他に言う言葉が見つからず、似たような相槌を打つ。明らかに冷たいライラの態度に一ミリも臆せず、ルナはちょこん、とブランコの柵に腰掛ける。

『ねえねえ、ここで見てていい?』

『え?』

『ダンスの練習、してるんでしょ?口ずさんでるだけで、邪魔はしないから!』

 本当は今すぐ帰って…と言いたかったけれど。言い返して問答になるのも面倒だった。『好きにすれば?』と冷たく返して、ライラはまた続きを踊り始める。

『~♪主観に占領された~偽りの箱庭~』

 音源の歌声と、ルナの歌声、二つが重なる。うるさいとは思わなかった。ルナの歌声はパワフルで、芯があって、聴いていて心地が良い。歌手になりたい、というだけはあるな…なんて。少し上から目線な感想を抱きながら、日が暮れるまでライラは彼女の歌声に合わせて踊り続けた。


『ねえねえ、ライラはさ、ダンサーになるのが夢?』

『うーん…』

 あの、夕暮れの公園で出逢った日から。ルナはよくダンスの練習をするライラの所へ、遊びに来るようになった。あまりにも毎日来るので嫌がっていたライラも観念して、ルナがそこに居るのを許すようになった。

 そうして二カ月が過ぎたある日、唐突にルナが繰り出した質問はライラの心を小さく揺さぶる。

『…ダンサーになれるほど、上手なわけじゃない』

『えー?ライラのダンス、かっこいいよ!私は好き!』

 花が綻んだような笑顔。ルナは金色の太陽みたいに、いつも眩しい。

『…中途半端にかっこいい、じゃダメなんだよ。プロっていうのは、誰が見てもかっこいい、凄い、じゃなきゃダメ。ミスも許されない。』

『じゃあ、そうなればいいよ!』

 俯いたままのライラに、さも当たり前のようにルナが言う。思わず視線を上げれば、自信満々の笑みでルナが見つめ返していて。

『ライラは、絶対なれるよ!私が保証する』

『…軽々しく保証とか言わない方がいいよ』

『ううん!軽々しくない。心から言ってる。ライラがその未来を信じられないなら、私が代わりに信じてあげる!』

 どうして、こんな真っ直ぐに誰かを信じるなんて言えるんだろう。

 ルナは、スッと右手の小指を立ててライラに差し出す。

『約束しよ!ライラは世界一のダンサーになる!私は世界一の歌手になる!それで、二人で一緒に舞台に立つの!』

『…何それ、そんなの絶対…』

『無理じゃない!』

 言いかけた「無理」を先に封じられて、口を噤む。少し声を荒げたルナは、無理やりライラの右手の小指に自分の小指を絡ませる。

『できるって信じなきゃ、できないんだよ!』

 ルナの言葉は、彼女の後ろで燃えている夕空よりも。ずっとずっと熱くて、力強くて、眩しかった。

『約束ね!』

 誰かと…友達と。約束をしたのは、これが初めてだった。


 それから、ライラとルナは親友になった。

 ルナと居る時間は楽しくて。最初ダンスや音楽の話しかしなかったけれど。次第に学校の話、勉強の話、家族の話…互いの全てを打ち明けるようになった。

 自分は世界中に嫌われたまま生きるんだ…なんて、ずっと思っていたけれど。たった一人でも、自分の味方でいてくれる友達が居る。

 それだけで、世界はずっと輝いて見えた。

 柄にもないリボンがモチーフのネックレスを、お揃いで買おう!と言われた時は流石に躊躇したけれど。あまりにルナがごねるので、仕方なく買った。二人で付けていると、心が繋がっているみたいな安心感があって。お揃いなんて下らないと蔑んでいたライラは、いつの間にかお揃いを付けていないと落ち着かないくらい、ルナのことを友達として大事に思うようになった。

 ただ一つだけ、心配なことがあって。

 ルナは体が弱かった。中学生になって、ライラたちは同じ学校に通うようになったのだが。ルナは度々学校を休んで、教室に来られない日が多かった。深刻な病気なんだろうか…と何度か恐る恐る尋ねたが、ルナはいつも笑って「体調崩しやすいだけなの!」と答える。ライラはそれ以上追及せず、ルナが休んだ日は必ずルナの家にプリントを届けに行った。

 あっという間に三年が過ぎて中学生活もあと四か月…に迫った十一月のこと。その日もルナは休みで、ライラはいつものようにルナの家のインターホンを押した。

『…ああ、ライラちゃん、ありがとうね…』

 いつも笑顔で応対してくれる、ルナのお母さんが。真っ赤に泣き腫らした目で、震える声でライラに言う。すぐに何かあったのだと察した。

『あの…ルナに何か…?』


 そこでライラが聞いたのは、ルナの命の灯があともう少しで消えてしまう…という。到底信じがたい事実だったのだ。


 ルナは、治療のため遠くの田舎の病院に長期入院になったという。

 ライラは学校を休んで、すぐルナに会いに行くことにした。ライラの両親は理解のある人たちで、旅費を出してくれて、病院までも一緒に行く…と言ってくれたけど。ライラはそれを断って、一人で旅立った。親に泣き顔なんて見られたくない。

 移動する新幹線の車内で、色んなことを考えた。こうしてる間にも、ルナが死んでしまったらどうしよう、とか。やっぱり重い病気だったじゃないか、とか。ルナへの文句、泣き言、全部がグルグル反芻して、ずっと心臓が痛くて。

 死は誰にでも平等なはずなのに。近づくまで一切その足音は聴こえない。気づいた時にはもう遅い。ただ、近い未来に大切な人を失うかもしれない…という恐怖だけが募る。

 何一つ思考がまとまらないまま、ルナのいる病院に着いた。

 田舎町の、丘の上にある病院。こじんまりしていて、とてもじゃないけれど高度な設備が整っているようには見えない。

 看護師さんたちは優しくて、皆温かかった。面会時間まで待つ間、待合室でぼんやりと外の美しい海を眺めながら。ライラはなんとなく察してしまった。

 治療のため、ではない。きっと、ここに来たのは。


『…え!?ライラ!?』

 二週間前まで、何も知らず元気に学校で話していたルナは。病院着に身を包んで、ベッドに背を預けて、入り口に立つライラをまん丸の目で見つめていた。

『ど、どうして…』

『…ルナのお母さんが、教えてくれた』

 案の定ルナは一瞬、悔しそうに顔を歪める。でもそれはすぐに消えて。

『…えへへ、ごめんね?だって、ライラには知られたくなかったんだもん…』

 困ったように笑う、ルナのその顔は。いつも通りに見えた。

 いつも通りな筈はないのに。

『…違うでしょ。言い訳は聞きたくない』

 ルナの笑顔が陰る。腹の奥でふつふつと煮えていた何かが爆発して。ライラはルナに詰め寄った。点滴の刺さっていない腕をガッと掴む。

『できるって信じなきゃ、できないんじゃないの?私が聞きたいのは、どうして生きるのを諦めようとしてるのかってことだよ!』

『あ、諦めてなんか…』

『諦めてるでしょ!こんな田舎の病院で、治療のため?そんな訳ない。最期だから、景色が綺麗で海の見える病室で…って、そういう魂胆丸見えなの!』

『ち、ちが』

『違くない!…治療にお金がかかるとか、そういう理由?なら私が稼ぐよ。バイト何個掛け持ちして、借金したっていい。学校なんて辞めてやる。』

『ライラ!』

 上がった息を整える。珍しく大声を出したルナの、険しい眸を真っすぐに見つめ返す。ルナはライラの手をそっと振りほどく。

『…私だって、私だって…嫌だよ。本当はライラと一緒に居たい。歌だってもっと歌いたい。諦めたくなんかないよ』

 うっすらとルナの目に涙の膜が張る。それは初めて見る、ルナの泣き顔で。

『高校行きたいもん。歌手になるって夢も、叶えたいもん。ライラとまだ一緒に舞台に立ってない…約束…守りたいよ…』

 さめざめと泣くルナに。不器用な自分はかける言葉を持たなくて。

『大好きなのに…幸せなのに…家族もライラも友達もみんな…歌も…音楽も…どうして私なの…?』

 とりとめもなく言葉を、涙を零すルナの体をぎゅっと抱きしめて。そのままずっと、背中をさすり続けた。ルナの背中はライラの涙でびしょびしょになった。


 それから。月に二回隔週で、ライラはルナのいる病院を訪れるようになった。

 遠いから交通費はそれなりにかかるのだが、両親は『友達との時間を大事にしなさい』と文句一つ言わずにお金を渡してくれた。両親に一生分の恩が出来た。

 季節は秋から冬になり、木枯らしが舞って、初雪が降った。初雪が降ったその日は、偶然ライラがルナのお見舞いに来た日で。ルナの体の調子もいい日だったので、日が暮れるまで…という条件付きで、外出許可が出た。自力で歩くのは少ししんどそうだったので、ライラが車いすを押して歩く。

 浜辺に行こう、とルナが言い出して。茜色に染まった空と、水平線を見に行った。正直、砂浜は車いすには不向きだったが。久々の外出ではしゃぐルナの望みを叶えてあげたくて。ダンスで鍛えた腕と足腰で、必死に砂浜の上も車いすを押した。

 暫く海を眺めていた時、初雪がはらはらと舞い降りてきて。

『…約束、守れなくてごめんね』

 ポツリ、とルナが海から目を離さずに零す。私は無言だった。

 ルナの病気を治すには海外で手術をするしかないのだという。だが高度な手術が必要で多額の手術費がかかる。その上、手術の順番を待っている人が沢山居て、長ければ数年待たなければならないらしい。

 物語の世界でよく見る話が、いざ身近な人で起こると実感がまるで湧かなくて。

 中学生の私なんて何の役にも立たない。手術のためのお金も、ルナを救える技術も私は持っていない。

 無力だった。世界は不平等で、残酷だ。

 答えられない代わりに、私はルナの手をぎゅっと握った。涙が頬を伝うのを感じながら、二人で夕陽を眺める。

『…ライラが居てくれて、よかった。ありがとう、ここまで来てくれて』

 もう、夕陽は八割海の底に沈んでいて。夜が来る、来てしまう。戻らなくちゃいけない。この時間が終わってしまう。

『…ライラ。』

『え?』

 驚きの眼差しが私に向く。ルナが私を呼んだのではない。自分の名前を、私が口にしたのだ。

『ライラって名前ね、ラテン語で琴座って意味なの。そこから取ったんだって。私、誕生日が七夕だからさ。琴座のベガは、織姫の星じゃん?』

『…へえ、そうなんだ…』

 素直な驚きと、どうしてその話を今するんだろう…という困惑。両方入り混じった声音で、相槌を打つルナ。

『琴座にはね、神話があるの。ギリシャ神話。オルフェウスの竪琴の物語』

『…どんなお話なの?』

『ある時ね、琴弾きのオルフェウスの妻が毒蛇にかまれて死んじゃうんだ。悲しみに暮れたオルフェウスは、冥界の王ハーデスの所へ妻を迎えに行くの。そして頼み込む。“妻を生き返らせてほしい”って琴を弾きながらね。その旋律があまりにも美しかったから、ハーデスは妻を生き返らせてあげよう、って誓うの』

『へえ…!良かったね!』

 パッと顔を輝かせたルナに、私は首を振った。

『いや…ハーデスは一つだけ条件を出すの。“帰り道で絶対に妻を振り返ってはいけない。最後まで振り返らなければ、目が覚めた時現実で妻が迎えてくれる”って。でもオルフェウスはどうしても気になって、途中で振り返ってしまった。』

『…それで?』

『それで、妻は結局戻らず、絶望したオルフェウスは自害してしまうんだよ』

『…ええ…バッドエンドじゃん…』

 眉を思い切り顰めるルナ。私はオルフェウスの気持ちがよく分かる。大事な人を取り戻せるチャンスを自ら棒に振ったのだ。あともう少しだったのに。絶望して当然だ。だけど。

『たとえ離れても、私は絶対ルナを一人にはしないから』

『え?』

『振り返らない。ちゃんと生き抜いてから、必ず会いに行く。ルナがどこに行っても、どうなっても、絶対に見つける。冥界でも、天国でも、来世でも。』

 ルナの眸が丸く見開かれる。もう薄暗くて、ハッキリとその顔は見えないけれど。

『約束する、必ず迎えに行く。それでまた、一緒にいよう?』

 力強く、言い切る。一筋の涙がこぼれて。

 ルナは、花が綻ぶように、優しく微笑んだ。

『…うん。必ず、待ってる』


 それから二か月後のある朝。学校へ行こうとした私の家にかかってきた一本の電話。母がとって、私を見て、唇を震わせたその瞬間に。

 私は膝から崩れ落ちた。こんな朝が来ないようにとずっと祈っていたのに。


 二月二十九日。四年に一度しかない特別な日。

 あと一日で暦上春が訪れる、そんな日のこと。

 ルナは雪の花となって散った。


 大事な人が居なくなっても、当たり前のように朝日は昇り、夜が来て、季節は廻った。悲しみは時間が解決してくれる…というのは真理で、一年、二年…と時が経つにつれて、鮮明だったすべての記憶は少しずつ朧になってゆく。

 覚えていようとした。声も笑顔も話したことも、全部。だけど人間の記憶は残酷で。ちょっとずつ薄れていくのを、止める術はなくて。

 記憶の退化に抗うのは無理だと悟った私は、せめて。ルナが信じてくれた夢を…ダンサーになるという夢を、叶えようと思った。前を向かないと、ルナに笑われる。めそめそ凹んでいるより、思い出して胸を痛めるより、その方がルナは喜ぶだろうと。そんなの、生き残った私の自己満足かもしれないけれど。

 でも。ダンスを踊るたび、やっぱり蘇るのは親友の顔で。

 辛い。もういっそ忘れてしまいたいのに、心臓が、魂が、忘れたくないと叫んでいる。矛盾した感情を抱えたまま生きるのは、あまりにも苦しい。


 どうしようもないまま、三年の月日が経った。


◆◇◆ 


「…ここよ、この家。」


 長い、永い記憶の旅から浮上して、ハッと頭を切り替える。まだ夢の中にいる私は、ドレスの女性に連れられて白い小さな家の前に居た。三角形の、テントみたいな形の家だ。見覚えはない。

 訳も分からないまま促され、インターホンを押させられる。

 数秒の間。ガチャ、とドアが内側から開いて。

「はーい!あ、ノワール!久しぶ…」

 ドレスの女性から、私に視線を移したその人物を見て。石のように、体が固まる。頭が働かない。だって、そこに居たのは。

「ル、ルナ…?」

 信じられない。そう口から出かけた言葉は、声にならなかった。

 ルナは唖然としたまま、私を見つめている。上から下まで私を見回して、ある一点で視線が止まった。ルナが死んだ後も、片時も離さず身に着けているネックレス。

 お揃いで買った、宝物の。

 それを見た瞬間、ルナの眸に色んな感情が浮かぶ。長いようで、短い沈黙の後。唇を震わせて、目に涙を溜めながらルナが口を開く。

「…そうだ…思い出したよ…私はライラと、約束をしたんだね」

「…うん、やっと迎えに来られたよ」

「時雨やノワールの言った通りだ…鍵さえ見つかれば思い出せるって…私にとっての記憶の鍵は、ライラだったんだね。覚えててくれて、ありがとう」

「ううん…待っててくれてありがとう」


 全部全部、都合のいい夢かもしれないけど。

 もう少しだけ、ここに居させて欲しい。浸らせてほしい。


 幸せな時間を。一緒に居られるこの時間を。

 噛み締めていたいから。







【Interval】


 


「…何を考えているの?」


「ん?何がだい?」


 ライラちゃんを、ルナの元に送り届けて。多分時雨はあと二日(現世時間で一日)は戻らないだろうと考えた私は、水入らずの時間を楽しんでもらおうと第七街区に一人帰ってきた。


 ヴァルは、人生録…ライラちゃんの青い本と、時雨の青い本の二冊を広げて、遺跡の石段に座り込んでいる。左手には、例の万年筆を持って。


「入れ替わる対象に、ライラちゃんを初めから選んで…時雨を現世に行かせて、ライラちゃんをルナに会わせて…ヴァルは何が目的?」


「別に?何かするたびに理由が必要なのかい?」


 人生録から目を離さず、ヴァルは気のない返事をする。


「…ヴァルは、理由もなく人に何かしてあげるタイプじゃないでしょう?」


「ええ?心外だなあ…オレはただ自由に生きてるだけ。たまには気まぐれで人助けだってするかもしれないじゃないか」


「…そう?じゃあ質問を変えるわ。…その万年筆。」


 ピクリ、とヴァルが身じろぎする。


「確かに私の物と同じよ。だけど…どうして貴方がそれを持っているの?」


「…どういう意味だい?」


「…その碧い万年筆は、セツナのものだわ」


 ヴァルの口元に浮かんでいた笑みが、消える。


 加筆できる万年筆は、この世界に三本。紫が私、赤がヴァル、そしてセツナのは碧色。なのに何故、ヴァルがそれを持っているのか。


「…へえ、君はてっきり全部知っているものだと思ってたんだけどな」


「…何のこと?」


「…ふふっ、いいよ。同類のよしみで、君には教えてあげる。セツナについてはどこまで知ってる?」


「…時雨に聞いた限り」


「…ふうん。じゃあ殆どは知ってるってことだね」


そう言って立ち上がったヴァルは、なぜか万年筆を胸元にしまいこんで。代わりに石段に置いていた一冊の青い人生録を…時雨の、人生録を拾い上げる。


「君も知っての通り、時雨の人生録は一度焼失してる」


「…ええ。その時にセツナが時雨を救ったんでしょう?」


「救った…かどうかは分からないなぁ。だって本来は転生するはずだった時雨が、永久にここに居る羽目になったんだから」


 ヴァルがパラパラッとページを繰る。どこかのページに目をつけて、開いた。


「…その時にセツナから伝言を頼まれたんだ。で、取引した」


「じゃあ…その万年筆は…」


「もらったんだよ、セツナに。…代償としてね」


 懐から再び取り出した万年筆を、クルッと回して。ヴァルは意味深に微笑む。


「因みに、オレが今回時雨に与えた代償は頼み事。ある人に、ある伝言を頼まれてもらった」


「…ある人?伝言?」


 ヴァルはまた懐から本を出す。さっきまで眺めていたライラちゃんと時雨の本ではない。緑色と、薄紫色の…二つの、誰かの人生録。


「ほら、見てごらんよ」


 差し出されたその二冊の、開いたページを見る。そこに書かれていた事実を目にした時、私は唖然として言葉も出なくて。


「これ…本当なの…?」


「ああ。だから試してるんだよ…全部上手くいくか、変えられない運命なのか…」


不安でざわつく胸を必死に抑え込む私を、月は無情に見下ろしている。


 厳かに。静謐に。

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