Tr.5 廻航

 祖母の病室に小一時間ほど滞在した後、詠は笑顔でその場を去った。


 祖母は最後まで幸せそうに手を振ってくれて。カタン、と病室のドアが閉まった瞬間、泣き崩れそうになるのを必死に堪えて歩く。

 ナースステーションでお礼を告げて、足早に外に出る。もうここに用事はない。この街にも、この世界にも未練はない。

 外は、信じられないくらい澄み切った美しい青空だった。肺いっぱいに空気を吸い込む。あの時、『あまりある残像』を作った第一街区の森の匂いに、少し似ていた。

「…こっちの世界にも、こんな綺麗な空があったんだ」

 しばらく空を仰いで、ハッとする。ほんの少しだけ、気持ちが揺らいだ自分がいた。祖母に会って、感傷に浸って。未練を失くしに来たのに、最後の挨拶のつもりで来たのに。後ろ髪を引かれている自分に、気づきたくなくて。

 頭を振る。これ以上揺らぐ前に、もう行こう。最後の目的地は決まっていた。今から向かえば、日暮れまでには辿り着けるはずだ。

 来た方角とは反対方向に歩き出す。丘を下って、あとはバスを乗り継いでいけば着く。病院の駐車場を横切って、敷地の外へ出た…その時。

「…って、おーい、ちょっと待って、そこのお姉さん!」

「…え…?」

 背後から呼び止められ、振り返る。タタタタッと見知らぬ女の子が駆け寄ってきて、目の前で止まった。

 鮮やかなブルーのショートヘア、大きな黒いリボンのピン。黒いブラウスに白いシャツを羽織ったその子は、息を切らせながら右手を差し出す。

「これ…病院の廊下に…落としてましたよ…」

「あっ…!」

 彼女の手のひらに乗っていたのは、詠の音符のネックレスだった。慌てて自分の首元を触る。そこにあるはずのネックレスはない。いつの間にか外れて、落としてしまったらしい。

「ありがとうございます…これ、大事なもので…」

「ああ、よかった…」

 ショートヘアの女の子はふっと笑った。第一印象は二十代前半くらいのかと思ったけれど、微笑んだ顔は少し幼くて。もしかするとまだ十代かもしれない。

「一階の廊下でお姉さん見失っちゃって…諦めようかなと思ったんだけど。“ただのネックレス”なのか、“命より大事なネックレス”なのかは人によって違うから」

「…諦めないでくれてありがとう…私にとっては、後者だったの」

 受け取ったネックレスはチェーンが途中で切れていて。もう付けられないけれど、大切に詠は鞄のポケットにしまった。

「ううん…私もこのネックレス失くしたら立ち直れないから。」

 青髪の少女は、胸元に光る金色のリボンのネックレスにそっと触れた。日差しを浴びて、キラリと反射するそれを見て、「可愛いね、それ」と微笑む。

「ありがと。じゃあ、私はこれで!」

 軽く手を振って、彼女が踵を返す。足取り軽く病院の方に戻っていくその子を見送って。詠はまた、歩き出した。

 だけど。十秒も経たないうちに、背後で悲鳴のような声が上がる。

「…ちゃん、…ちゃん!?」

 胸騒ぎがして振り返った。鮮やかな青髪が、地面に倒れ伏している。院内からたった今出てきたであろう看護師さんが、駆け寄っていく。

 何が起きているのか分からないまま、詠はつい先ほど大事なネックレスを届けてくれた少女に駆け寄った。うつ伏せに倒れた彼女は、ぐったりと目を閉じている。

「あの、私先生を呼んでくるのでライラちゃんを見ててもらえますか!?」

「あっ、は、はい!」

 反射的に返事をすれば、看護師さんは慌てて中へと消えていった。ライラちゃん、というのはきっとこの子だ。看護師さんが名前を知っているということは、この病院の患者さんか、はたまた詠のように患者さんの親族か。

 詠は為す術もなく、出逢ったばかりの彼女の背中にそっと触れる。大丈夫、温かい。心臓が脈打っているのも、ちゃんと感じる。

 つい数秒前まで元気に話していた人間が、今は意識なく倒れ伏している…その事実を、堪らなく恐ろしいと思った。見ず知らずの、ついさっき会っただけの人なのに。命というものは、こんなに簡単に揺らぐものなのか。無事に目を開けてほしいと、他人ながら願う。怖い、恐ろしい、心臓がバクバクと早鐘を打っている。

 刹那。スッと、彼女の両目が開いた。

「…あっ、!」

 声が出る。視線は虚ろなままだが、確かに目を開けていた。どうしよう、どうしようと気持ちばかりが急いて、思わず立ち上がる。

「だ、だれか…あのっ、彼女目を開けて…!」

 見てて、と言われたことも忘れて、つい院内に人を呼びに行こうとする。自分一人では心許ない。確実に助けられる誰かに来て欲しい。自分の一挙手一投足が、彼女の命を左右してしまうかもしれない。それが怖い。判断を間違えたくない。

 入口のガラス扉をくぐろうとした時。


「…っ、詠、逃げるぞ!」

 信じられない、声がした。


 心臓が、痛いくらいドクンと大きく脈打つ。体が震える。ぎこちなく振り返った。バッと、右手を掴んだその人は。

 ライラちゃんと呼ばれていた、自分にネックレスを届けてくれた彼女の服装、そのままだが。

「し、…しぐれ…?」

 見つめ返す眸の色が、碧い。

「…っ、行こう…!」

 院内からガヤガヤと何かが近づいてくる音がした。もう頭の中がグチャグチャでどうしようもなくなった詠は、ただ手を引かれるままに走り出す。

 先を行く、その背中が。白いシャツを羽織った、その背中が。

 時雨の白いマントの後ろ姿と重なる。

「…あっ、ちょっと、ライラちゃん…!」

 後ろから誰かが叫ぶその声にも足を止めずに。詠たちは、病院を後にした。


 青空は、ずっと先まで続いている。


◆◇◆


「…はあっ、はあっ…」


 人生で両手の指に入るくらいの回数しかしたことがない、全力疾走。肺が悲鳴を上げている。ようやく足を止めたのは、走り出してから十分ほど経った時。土地勘のない先導者に連れてこられたその場所は、海岸沿いの一本道。

 詠たちの右手側には、浅葱色の海が広がっている。まだ二時半を少し過ぎた海岸には、誰もいない。

 少し先で、膝に手をついて息を整えるその背中に。もう一度声をかける。

「…時雨…なの?」

 ゆっくりと振りむいた、その顔を見て。「あっ」と小さく声が漏れた。

 時雨だった。濃紺のショートヘア、碧い切れ長の双眸。服装こそ違えど、そこに居たのは詠の記憶の中に居る時雨そのもので。

「…ごめん、驚かせて…僕もちょっと想定外で…」

 申し訳なさそうに眉を顰めながら、頭のリボンのピンを外す。詠がもう一度聴きたいと願った、その声を聴いた瞬間。

 ぶわああっと何かが、胸の奥からこみ上げる。

「…っ、時雨…っ!」

 驚きよりも、困惑よりも。何故か涙が最初だった。戻ってきてから、自分は泣いてばかりだ。バッと時雨に飛びつく。

「…ははっ、ルナみたいなことするね」

「…あっ、ごめん…」

 我に返って、慌てて身を離す。「別にいいよ」と微笑んで、時雨ははだけそうになったシャツを直した。冷静さが少し戻った詠の頭が次に浮かべたのは、沢山の疑問。顔にそれが表れていたらしい。時雨の笑みが、苦笑に変わる。

「聞きたいことが沢山あるって顔だね…そりゃあそうか。僕も詠に話がある。少しゆっくり話をしないか?」

 時雨の視線がスッと横に移動する。砂浜を見渡して、倒れた大木を指さす。

「あそこなら、座って話が出来そうだ。…どう?」

 戸惑いながらも、頷く。目を細めて、時雨が先に土手を駆け降りる。

 大木に背を預けた詠たちは、しばらく無言で海を眺めた。詠は時雨が話を切り出すのを待っていたし、時雨は詠が何か言うのを待っているようだった。

 沈黙に負けたのは、詠の方で。

「…どうやって、ここに来たの?」

 この問いは勿論、時雨も予想が付いていたらしく。詠がこちらに戻ってきてからの一部始終を、簡潔に分かりやすく話してくれた。ヴァルという旅商人の存在、こちらの世界に来た方法…全てが驚きばかりだったけれど。詠は最後まで口を挟まず耳を傾けた。

「…で、目を開けたら詠の顔が目の前にあってさ。驚いたのも束の間で、詠が慌てて人を呼ぼうとするから…咄嗟に手を取って逃げてしまったって訳だ…」

「…説明のしようがないもんね」

「ああ。病院に連れていかれて検査や治療をされたら、堪ったもんじゃないし…」

「人の体を借りてるってことだもんね…」

 言いながら、詠は気まずい思いで空を仰ぐ。時雨が何をしに来たのかは、とっくに分かっている。自分がそこまでさせてしまったのだということも。

 しばらく、無言の時間が続いた。時折海猫かカモメか、分からない鳥が鳴いて。さざ波が寄せて、引いて…を繰り返して。

 詠は言葉を探していた。謝罪と、言い訳と、説得の言葉を。

「…詠、」

 優しくて、でも悲しそうな声音で呼ばれて。

「…どうして、あんなことを?」

「…ごめんなさい」

 一つ謝ってから、それでもと口を開く。

「眠らせて、嘘をついて、居なくなったのは悪かったと思ってる。でも…私、決めてるから」

「詠、」

「止めに来たんでしょ?私のこと」

 遮って、その目を真っすぐに見つめる。

「…それだけは、出来ないから。戻るから、私」

 ワガママだ。小学生の頃、欲しいものが手に入らなくてグズッていた頃の自分みたいだ。正しいのは相手だと、分かってる。それでも、譲れなかった。

 僅かに揺らいだ時雨の目に、厳しい光が宿る。

「駄目だ。させないよ。…僕が、させない」

「…無理だよ。時雨だってずっとこっちに居られるわけじゃないでしょう?時雨が居る間は無理でも、時雨が戻ったら私…」

「現世に戻ってきてからの詠を、見てたよ。すぐに実行に移されたらどうしようって気が気じゃなかったけど…君は、すぐには死ななかった。わざわざ故郷に来て、会いたいと思う人に会って…その時点で君は一人じゃない」

 咄嗟に言い返せなくて、口を噤む。時雨の口調が、畳みかけるように強まる。

「一つでもここに居たい理由があるなら、まだ君は生きるべきなんだ」

「…そんなの、わかってる」

 雫が落ちるように。葉が枯れるように。言葉がポツリと落ちる。

「…でも…ここで生き続けることは、時雨に二度と会えないのと同じ意味なんだよ?私一人居なくたって廻る世界と、時雨と一緒に廻る旅路…天秤にかけて、どちらが幸せかなんてわかりきってる」

「それは…」

「時雨にとっては…!」

 つい語調を荒げる。必死の弁明に、気圧された時雨が黙り込む。

「…時雨にとっては、ずっと旅してる中で偶然出会って助けた…くらいの存在かもしれないけど。何もかも忘れる筈だった私は、大勢の中の一人でしかなかったかもしれないけど…でも」

 ザザーッと波が寄せる。


「私には、たった一人の恩人なの…私は救われたの、貴方に…貴方の音楽に。」


 ザザーッと波が引いていく。

 時雨は押し黙ったまま動かない。見たことのない表情をしていた。遠い過去の何かを思い出しているみたいな、切ない光が眸に映る。

「…わかる。わかってるよ…」

 やがて時雨の口から出てきたのは、そんな言葉で。詠は時雨に認めて、許してほしかった。でも時雨はそれ以上何も言及せず、そっと視線を海に移した。肯定も否定もされなかった詠の感情は、宙ぶらりんのままだ。

 諦めて、詠も海を眺める。どうすればよかったのだろう。何が正解だったんだろう。自分は間違えたのだろうか。今も、間違えているのだろうか。

 いっそ出逢わなければよかった…なんて、思う程度には。

 あの不可思議な七日間は、あの旅は。詠の全てを変えてしまったのだ。


 互いに何も言えないまま、二十分程経った。

 はあ…と自然に溜息がこぼれる。時雨がチラッと私を見た。

「…そういえばさ、」

 一旦空気を入れ替えるみたいに。時雨が軽い声音で言う。

「ヴァルとの取引の代償。頼まれごとだったんだ」

「…頼まれごと?」

 ぎこちなかった空気にヒビが入る。問い返せば、頷いた時雨がズボンの…正確にはライラのズボンのポケットから小さな紙を取り出した。

「なんか…ここに行って、この人を探せって」

 手渡された紙片は真ん中で折られていて。開いてみれば、中には住所と人名らしき文字の羅列が記されていたのだが。

 問題は、その住所。

「…え…この場所…」

「ん?知ってるのか?ここから近い?」

「ぜんっぜん近くないよ…むしろ正反対…」

 書かれていた地名は、ここから遠く南の外れにある島だった。今いる詠の故郷からでは、東京に戻った後、更に乗り物で半日ほど移動しなくてはならない。

 その旨を聞いて、絶句する時雨。

「ええ…あいつ阿呆なのか…?あ、いや。詠の故郷がどこにあるかなんてあいつも知らなかったのかな…」

「ここに行ってこの…霜月しもつきさんって人に会えたとして、その先は?会ってどうするの…?」

「伝言を頼まれてるんだ。それもよく意味の分からない伝言」

 紙片をもう一度見直して、時雨が大きな溜息を吐く。

「そんなに遠い場所だなんて…参ったな…」

 途方に暮れる時雨を見て、なんだかちょっと不思議な気持ちになった。向こうの世界に居る時は、「何でも知ってる仙人」みたいに思っていたが。

 思わずクスッと笑みを零せば、訝しげな眼差しが向けられる。

「…まあ、取引なら行くしかないもんね。…時雨、行き方に検討はついてるの?」

「…まったく。正直今の現世のことは詳しくない…」

「じゃあ、今度は私が案内するね」

 思わず笑みを零しながら立ち上がる。時雨は驚きの目で見つめている。

「とりあえず駅に行って、列車で東京まで戻る。島への行き方はその間に私が調べるから」

「…やけに協力的だね…?何か魂胆でもあるの…?」

「別に何もないよ。ただ…」

 しゃがんだままの時雨に、手を差し伸べる。

「また時雨と、少しの間だけど旅が出来る。それが嬉しいの」

「…君は本当に…いや、何でもない」

 呆れと、感傷とが半々になった時雨の言葉。結局胸にしまい直したのか、勢いよく詠の手を掴んで立ち上がる。

「じゃあ、案内よろしく」

「うん…!じゃあ、行こう」

 海を背に、二人で土手を上って。来た道を戻る。病院の人に見つかると厄介なので、迂回ルートを選んだ。奇しくもそのルートは、詠の中学生の時の通学路で。見慣れた道を、何の彩もなかった道を、時雨と二人で歩く。


 存在しないはずの時雨と。出逢うはずのない、時雨と。

 あの世界で、一緒に歩いたように。


 駅に辿り着くと、時刻は昼の三時を回っていた。物珍しそうにあたりを見回す時雨の背を押しながら、電車に乗せる。

 故郷の街が遠ざかる。ここを最期の場所にするつもりだった詠の隣には今、時雨が居る。確かに、ここに。

 自分の人生録に、少しでも多く時雨との時間を綴れるのが嬉しくて。


 堪えきれない笑みを零した。


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