Tr.4 Nightmare

 「…ここにも居ないわ…」


 コツン、と石畳を踏んだノワールの靴音が反響する。不規則に剥がれた石造りの壁。苔の生えた柱。退廃したこの街は、いつも寂寥感と神聖さが漂う。雲に覆われた孔雀青の空。崩れた天井の隙間から差し込む、幾筋もの光。

 ひび割れたガラス戸の中に収められている、人生録。

 第七街区の塔は、いつ来ても物悲しい何かが漂っている気がする。

「やっぱり出払ってるのかしら…」

「だとしたら今どこの街に居るのか確認して早く向かわないと…」

 そう言いながら、分かっていた。それではきっと間に合わない。

 馬鹿だった、と今更ながら自責の念がこみ上げる。ここに来る途中に第九街区は通ったのだ。何故あの時、ターミナルに寄って寧々にあいつの居場所を探さなかったのだろう。焦ってばかりで冷静な判断が出来なかった。

 きっとここに居る。そんな確信だけで来てしまった。

「…どうしましょう、時雨…」

 途方に暮れたノワールと目が合う。打開策は何も浮かばない。


「…誰をお探しかな?」


 その時。頭上から降ってきた一つの声。少し鼻にかかった、それでいてよく響く印象的な声色。バッと視線を上に向けた。崩れかけた塔の、屋根の上。真っ黒なタキシードに白いマント、金のリボンがあしらわれたシルクハットという特徴的なシルエット。

「ヴァル!」

 嬉しそうにノワールがその名を呼べば、シュヴァルツことヴァルは意味深な笑みを浮かべたままスッと地面に着地する。銀髪の下で、紫色の眸が怪しく光る。

「珍しいお客さんだねえ」

「よかった…!あなたに急ぎの用があるの」

 すぐに駆け寄って本題に入ろうとするノワールを、ヴァルがそっと手で制する。

「…折角久しぶりに会えたんだ。少しお話しないかい?」

「悪いけど、そんな時間はないんだ。手短に済ませたい」

 余裕ぶったこの男の話し方が、時雨は少し苦手だった。悪い奴ではないと分かっているが、過去の嫌な記憶と結びついてどうしても好きになれない。

 ヴァルは一つ肩を竦めて、時雨とノワールを交互に見比べる。

「ま、二人揃って会いに来るなんて、並みの用事じゃないのはわかるさ。…いいよ。で、オレに何の用?」

「教えてほしいことがあるんだ」

「ふうん?内容次第じゃ、タダでは教えられないかもよ」

 悪戯っぽく笑うヴァル。相変わらず、何を考えているのかよく分からないやつだと内心で警戒度を高める。明らかな温度差のある時雨とヴァルを、ノワールは一歩下がって心配そうに見つめている。

「… “現世に渡れる方法”を知ってるか?」

 一呼吸置く。ヴァルは特に顔色を変えることなく、不敵な笑みを浮かべたまま探るように時雨を見ていた。

「少しの時間でいいんだ。向こうへ行きたい」

「…どうしてオレに聞くんだい?そんなこと」

「忘れたとは言わせないよ。あの時…あの人が去ったあの場所で、君が僕に言ったんだ。必要になったら取引しに来いって」

 時雨の言葉に、今度は少しだけヴァルの表情が動いた。だがそれは一瞬で。

「…ああ、あったね、そんなことも。随分昔の話だ」

 そう答えたヴァルは、また元の胡散臭い貼り付けた笑みに戻っていた。

「うーん…どうしようかなあ…その答えはイエスだ。オレは君が向こうに渡れる唯一の方法を知ってる。でもうまくいくかは分からないよ?」

「構わない。可能性があるなら、試したい」

「…危ない方法じゃないわよね?」

 ノワールの問いに、僅かにヴァルが眸を冷たくする。

「どうかな。時雨と寧々に関してはイレギュラーだからなんとも」

「ヴァル…!」

 諫めるように声を上げたノワールを、時雨は片手で制する。ヴァルの言っていることは間違っていないし、彼が何を言おうとここで引き下がるわけにはいかない。

「僕にできる範囲の取引なら応じる。先にそっちの望みを言ってくれたっていいよ。だから…頼む、教えてほしい」

 ヴァルの紫の双眸を射貫くように見つめ返す。少しだけその目が丸く見開かれた。

「へーえ…君がそこまで言うなんて。でも…本当にいいのかい?」

「ああ。今回のことは僕の責任だ。…僕が片をつけたい」

 その言葉を聞いたヴァルが、ふうっとため息を吐く。

「…いいよ。じゃあ、取引といこうか」

 ニヤッと口の端を歪めて、ヴァルはタキシードの胸ポケットに手を入れた。


 ヴァルは、旅商人だ。あちこちの街を巡って旅をする…というその性質は時雨と似ているが、ただ音楽を奏でて回るだけの吟遊詩人とは違う。彼は辿り着いた街で、願いや頼み事、困ったことがある人間を見つけては、取引を持ち掛ける。

 形ある物、形ない物、知りえない情報、誰かに会いたいという願い…どんなことでも、ヴァルは叶えられる。ただし、それには代償が必要だ。

 代償が支払えない場合、取引はご破算。ヴァルはタダ働きはしない、現金な奴だ。気まぐれで気分屋、神出鬼没でその本心は誰にも分からない。

 だからこそヴァルの存在は、どこの街でも御伽噺のように扱われている。巡り合えた者だけが、望みを告げて取引が出来る。

 そんな魔法のランプのような御伽噺。


 ヴァルが懐から取り出したのは、一本の万年筆だった。碧いボディに、金のペン先。その万年筆には見覚えがある。時雨の鞄に入っている物と同じだ。

「簡単なことだよ。これで書き換えればいいのさ」

「書き換える…?」

「あっ…」

 首を傾げる時雨と、何かに気づいたような表情のノワール。二人を見比べながら、ヴァルは可笑しそうにククッと肩を揺らす。

「そうだ。君も知っての通り、人生録には基本誰も干渉できない。他人が干渉出来てしまったらこの世界に居る人間は皆、現世に居る人を自由に操れてしまうからね。本は本らしく、読めるだけ、見るだけ…それが人生録の掟だ」

「でも…この万年筆だけは例外よ。これだけは唯一、人生録に加筆・修正を加えることが出来るの」

 驚いて、ヴァルの手元の万年筆に視線を遣る。この万年筆にそんな力があるなんて、あの人は…セツナは教えてくれなかった。 

「君も同じものを持っているだろう?」

「…ああ。あの時君が僕に手渡してくれたからね。これと僕が持っている物、その二本だけしかないの?」

「いいえ、私の書斎にもあるわ。この世界に元々居る者だけが持っている物なのよ」

「何かイレギュラーがあった時、対処出来るように持たされているんだろうねぇ」

 それを聞いて納得した。

 この世界に元々存在する管理者は三人だけ。

 ノワール、ヴァル、そしてセツナ。時雨が持つ万年筆は、セツナから受け継いだものだ。万年筆のからくりが解けた時雨は、「それで?」と続きを促す。

「人生録は、その人の魂の器だ。一冊につき、一つ。現世に存在できる魂の数には限りがある。だから一冊の本が終われば、次の本へと移る。魂の総数は結果的に変わらないし、変えてはいけない」

「…だとしたら、例え誰かの人生録を書き換えたとしても、僕が現世に渡るのは無理じゃないか?現世の魂の総数が合わなくなる」

「いいや?それも単純だ。中身だけを入れ替えればいいのさ。要は魂の総数が増えなければいい。君が一方的に現世に行けば、魂の数はキャパオーバーだけど…人生録にちょこっと加筆して、器の中身を入れ替えるだけなら…」

 地面から二つの石をヴァルが拾い上げる。両の手のひらに乗った石。右が黒、左が灰色。次の瞬間、パン!と両手を合わせ、二つの拳が差し出される。握られた拳の中は見えない。

 マジシャンのようにゆっくりと、思わせぶりに拳が開かれる。左が黒、右が灰色。左右の石は入れ替わっていた。

「理論上、問題はないってわけさ」

「…なるほどな」

「ちょっと待って…!確かに可能かもしれないけれど、危ないわ…第一、誰の器を…人生録を使うの?」

「それは…すぐ詠に会えなきゃいけないから、今詠の近くに居る人物かな…」

 答えながらハッとした。詠のことばかり念頭にあったが、魂そのものを僕と入れ替えるということは。

「…その相手はどうなるんだ?入れ替わった、現世側の人間の魂や記憶は…」

「多分だけど、君たちが言う“詠ちゃん”みたいなことになるんじゃない?君が向こうに居る間は、こちらの世界を彷徨うことになるね」

 薄ら笑いながらそう口にするヴァル。時雨は言葉に詰まる。詠を助けたい、そのためなら時雨自身は何でもする所存だ。だが何かのアクシデントで、入れ替わった相手に危険を生じさせるわけにはいかない。

「…戻り方は?」

「勿論、万年筆で加筆するんだよ。オレかノワールのどちらかが」

 時雨は二人を見比べる。ノワールは不安そうに小さく首を横に振った。やめた方がいい、と言いたげな視線。

「さて、どうする?決めるのは君だ。取引相手は君だからね」

 時雨は無言のまま、鞄から詠の人生録を取り出す。パラパラ…と捲って、一番新しいページを開いた。詠の現在地と、今現在何をしているかを確認する。

「…故郷に、居るのか…うーん…今は一人みたいだ…」

「…もしかして入れ替わる器をお探しかい?それももしよければ、僕の方で手配できるよ。…代償は高くなるけどね」

 予想外の言葉に、視線を上げる。ギラッとヴァルの眸が怪しげに光る。

「…知ってたのか?詠のことも、僕らがここに来るであろうことも」

「まあね。でも君は僕の取引を断ると思ってたからさ。そこは意外だったよ」

「…誰の人生録を使えと?」

「んー?この子でどうかな?」

 ヴァルが懐から一冊の本を取り出す。鮮やかな青色の表紙、厚みはまだそんなになく、魂の持ち主が若年層であることが伺える。

 どういう魂胆があって、わざわざ人生録まで用意しているのか知らないが。訝しがりながらも、時雨はその本を受け取り、そっと開く。

「…沼名ライラ?…十八歳…確かに今、詠がいる病院の近くにいるみたいだけど…なぜこの子を?」

「さあ?読めばわかるんじゃない?」

 肩を竦めたヴァルは、時雨からひょいと人生録を取り上げ、パラパラとページを少し戻す。目的のページを開いた状態で、再び時雨に手渡した。

「…えっ…」

「一石二鳥だと思わない?いい案だろ?」

 沼名ライラ。彼女の過去が記された一頁。そこに登場したある名前に目が留まる。思わずヴァルを見た。彼の紫色の眸からは、何も読み取れない。

「…どういうつもりだ?どうして」

「ほーら、早くしないとその…詠ちゃん?だっけ?間に合わなくなるよ?」

「…っ、!」

 茶化すように嗤う、ヴァルの一言で。時雨はその続きを呑み込む。確かに、今は四の五の言っている暇はない。ヴァルの言う通り、入れ替わる相手としてこれ以上の人物は居ない。ここまでお膳立てしてあるということは、この方法が成功する…という確かな根拠があるんだろう。

 時雨はノワールを振り返る。やはり心許なげに視線を揺らしてはいるものの、もう彼女は首を横には振らなかった。 

 深く、一つ、息を吸う。

「…わかった。この方法で、僕を向こうに送ってほしい。」

「取引成立だね。じゃあ、始めようか」

 ニヤッと笑みを深くして、ヴァルがノワールに目配せする。不安げに頷くノワールが、ヴァルから万年筆を受け取る。

「悪いけど、意識のある状態でこれをやるのは危険だから。君には眠っててもらいたいな…またミルテの花でいいかい?」

「…最高に楽しそうに人の失態を掘り返す辺り、性格悪いよね、ヴァルは」

 クツクツと肩を揺らしながら、ヴァルがどこからともなく小瓶を取り出す。

「ミルテの花の蜜だけ入ってる。君が眠ったらすぐに始めてあげるよ。大丈夫、取引はちゃんと遂行するし、今回はノワールって監視役もいるしね」

 慎重に小瓶を受け取る。ヴァルはそのまま、青色の人生録の真っ白なページを開いてノワールに手渡す。

 時雨は出逢ったこともない、沼名ライラという女の子に思いを馳せ、呟く。

「ごめんね…少しだけ、その器を貸してほしい」

 ポン、と小瓶の蓋を開けた。中から甘い香りが漂う。心配そうなノワールと視線がぶつかった。時雨は安心させるように、ふっと微笑む。

「大丈夫、すぐに戻ってこられるよ。詠ともちゃんと、ケリをつけてくる」

「うん…私はいけないけど、見守っているわ。気を付けてね、時雨」

「ありがとう…じゃあ、始めるよ」

 時雨は小瓶を口元に近づけた。飲み干そうと傾けた所で、バッとその手を掴まれる。

「!?」

「代償をまだ伝えてないのに始めないでよ。今回の取引、僕からの条件はね…」

 耳元でヴァルが二、三言囁く。時雨のズボンのポケットに、そっと何かを滑り込ませながら。それを聞いた時雨は、意味が分からず眉をしかめる。

 次の瞬間、パッとヴァルがその身を離した。小瓶を掴んだ手も自由になる。

「どういうことだ…?」

「抗おうとしてるんだよ。その内わかるさ…じゃあよろしく、早く飲んでよ」

 意味深な言葉と共にヒラヒラと手を振られ、若干カチンと来たその勢いで時雨は小瓶を傾けた。トロッとした液体が喉を通り抜ける。甘すぎて思わず顔を顰めた、その時。

 ふっと意識が遠のいて。

「…じゃ、頼んだよ。」

「いってらっしゃい、時雨」


 二人の声が、淡い光の中に溶けていく。

 ペンを走らせる音が、聴こえる。

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