Tr.3 最果ての憐歌

 鳥が囀っている。


 ゆっくりと重い瞼を開けば、陽の光の眩しさに再び目を細めた。レースのカーテンが揺れている。開いた窓から、優しい秋風が吹いている。

 上体を起こせば、窓の外から子供の話し声が聞こえた。たまに車の走行音。ぼんやりとした思考を、徐々に覚醒させながら。詠は自分の両手をかざす。

 茜色のカーディガン、薄茶のブラウス。長い夢の中で、詠が着ていた服と同じだ。

「…っ、」

 ガバッと上体を起こし、辺りを見回す。床に散らばった白い紙。ベッドから飛び降りて、手に取る。ゴクリと唾を呑み込んで、裏返しになったその紙束を表に返す。

「…夢じゃ、ない」

 “あまりある残像”と書かれた筆跡。その文字を、音符を、書いていたペン先。メロディーを口ずさむ、濃紺の髪と碧い眸をした横顔。

「…時雨…」

 その名前を口にした時、全ての時間が、七日間の思い出が蘇って。詠は空を仰いだ。

 何もなかったかのような、綺麗な秋空が広がっていた。



 まず、部屋を片付けよう。そう思い立って、午前中の一時間と少しを掃除に使った。今まで捨てられなかった物も、何の躊躇いもなく捨てられた。物が減ると、部屋ってこんなに綺麗になるんだ…と当たり前のことを学んだ。

 よく、心が荒んでいると部屋も汚くなる…という説を見かけるが。それは真理だったのかもしれない。そう思う程には、小一時間で部屋はピッカピカになったし、心に詰まっていた何かが取れたように感じた。

 今日を最後に詠は、この部屋にもう二度と戻らないつもりでいる。

 無造作にゴミ袋を、玄関に並べた。どうせ、数日後にはこの部屋にも警察だのなんだのが来るんだろう。見られて恥ずかしいような物は何もない。ゴミだって、二、三日放っておいた所で悪臭が他の部屋まで渡ることはないはずだ。

 そうして一通りの片づけを終え、空っぽになった部屋の真ん中で、私は手紙を書いた。一通は両親宛、もう一通は会社宛に。

 会社からは夥しい量の電話が入っていたが、起きてすぐに確認したきりスマホの電源を切った。迷惑をかけているのは申し訳ないが、自分一人居なくても案外世界は上手く廻る。

 二通の手紙を書き終えて、柄のない真っ新な封筒に入れ、部屋の中央のテーブルに置いた。立ち上がって、グルリと部屋を見渡す。

 引っ越して数日…を名乗れる程度に物の少なくなった室内。随分長くこの部屋に住んだな…と感慨深く一周する。ベッド、座椅子、テーブル、棚、冷蔵庫…必要最低限の家具が並ぶ中、一つだけ異質なそれに近づく。

 埃をかぶったキーボード。部屋の隅に置かれた、その鍵盤を詠は指でつうっとなぞった。右の人差し指についた埃をフッと吐く。

 この部屋の角で、何度も何度も夜中に泣きながら曲を作った。音楽を辞めた後は、見向きもしなかった。でも、どうしても捨てられなかった。

「…やっぱりこっちにしよう」

 呟いて、詠は二通の手紙をテーブルからキーボードの鍵盤の上に置き直した。この方が自分らしい気がしたのだ。

 もうこの部屋に用はない。用意したボストンバッグを片手に、立ち上がる。薄手のトレンチコートを羽織り、一番歩きやすいスニーカーを履いて。

 最後にもう一度だけ、振り返った。

「…行ってきます」

 行ってらっしゃい、は当然、返ってこなかった。



 部屋を出たのは、正午を少し過ぎた頃で。詠はまっすぐ最寄り駅に行き、新幹線が出発する駅まで向かった。平日ということもあり、電車の中に人は少ない。小さい子供連れのお母さんやお年寄り、学校をサボっているらしき制服姿の女の子。普段はあまり見かけない種類の人たちが、沢山いた。

 新幹線の駅に着いて、切符を買う。無事、目当ての券と駅弁を手にした詠は、そのスタイリッシュな車体に乗り込む。

 出発してすぐに、駅弁の封を開けた。朝から何も食べていなかった空腹の詠にはありがたい御馳走で。あっという間に平らげて、ゴミを片付けて。ふと外を見た。ぼんやりと景色を眺めながら、時雨との旅を思い返す。向こうの世界に行くまでは、食べ物も味がしなかったのに。こんなに美味しく食べられるようになったのは時雨たちのお陰だ。


 目を開けば、燃えるような茜色の空が視界に飛び込んできて。詠は慌てて時計を確認した。時刻は夕方の五時半を差している。いつの間にか眠ってしまったらしい。

 乗り過ごしたのでは…と焦ってドア上の表示を見る。点滅した駅名と共に、あと五分でその駅に到着することがアナウンスされた。詠が目的としていた駅だ。ほっと胸を撫でおろす。

 なんとなく癖でスマホを見ようとして、電源を落としたままなことに気付く。本当は通知なんて見たくないが、到着してからの道筋は調べないと分からない。観念してスマホの電源を入れる。

 案の定、会社から入っていた鬼のような通知を一タップで消去して、道筋を検索する。こういう場合にはやはり、文明の利器は便利だな…と感じる。

 到着駅から次の目的地までは、ローカルな電車でおおよそ一時間ほど行き、途中で乗り換えて更に電車で三十分。詠が覚えていたよりも、ずっと遠く感じた。訪れるのが、久しぶりだからかもしれない。

 新幹線から降りた後、スマホで調べながらローカル電車に乗り換える。田舎だというのもあって、一両につき乗車客はほんの数人だった。

 一人、また一人と客が下りていく。皆、日常の中に戻っていくのだ。これからあの人たちは、家に帰って温かいご飯を食べて、話をして眠って、また明日を迎えるのだろう。そういう毎日をずっと繰り返す。それが当たり前の、あるべき日常。

 ゴッと、横の板に頭をもたれさせる。電車のこの角の席が好きだった。こうして体を傾けても、支えがあるこの席が。両側を他人に挟まれることのないこの席が。

 窓の向こうに見慣れない高原が広がっている。

 夕闇の薄紫に染まった空が、美しかった。

 最後の一人が下りて、とうとう貸し切りになって。夜に吞まれていく窓の外の光景をぼーっと眺めながら。頭にこびりついて離れない“あまりある残像”のメロディーを、囁くような声で口ずさむ。何度も、何度も。


 乗り換えに使った駅は、無人駅だった。詠は人生で数えるほどしか手にしたことのない紙切符を買って、電車が来るのを待った。もうすっかり夜の帳が落ちた無人駅は、少し怖かった。

 やっと来た一両電車に揺られること三十分。自室を出て八時間あまりが経った頃、詠はようやく目的地…故郷の街に辿り着くことができた。

 向こうの世界で時雨と歩き回っていたお陰か、足腰はそこまで疲労していなかったけれど。やはり長旅で疲れは溜まっていたらしい。新幹線内で予約した地元のホテルに着くと、すぐにベッドにダイブして眠ってしまった。


 そこで見た夢も、やっぱり時雨と旅する光景だった。


◆◇◆


 翌朝。ゆったりと朝九時に目を覚ました詠は、ホテルで朝食をとってチェックアウトの時間ギリギリまで部屋で過ごした。きっと今日が、こっちの世界で過ごす最後の日になるんだろう。そんな思いを胸に、一つ息を吸ってホテルの外に出る。

 故郷はいつも、色んな香りで詠を迎え入れてくれる。

 春は、のどかで温かい緑の匂い。夏は青々と広がる草原の香り。秋は少しひんやりした香ばしい匂い。冬は吸い込むだけで凍り付きそうな、ツンと透き通った香り。季節ごとに違った香りを含んだ、故郷の空気が詠は大好きだった。

 見覚えのある懐かしい道を歩く。荷物が軽い。何かを忘れたのではないか…と一瞬よぎった不安はすぐに消えた。背負うものなど何もない。自分はここに、別れを告げに来ただけなのだから。

 ロータリーの真ん中に聳える時刻灯は、午前十一時八分を示している。パッポー、パッポー、と礼儀正しく歩行者信号の音が鳴っている。数台しか車の通らない横断歩道を小走りで渡った。

 音が少ない。耳に入る雑音が、少ない。都会に居る時はいつも、イヤホンをして歩いていた。雑踏の音が嫌いだった。見知らぬ人の話し声も、ゲラゲラと品のない笑い声も、電車が通過する煩い音も、あちこちで騒ぐ広告の音楽も全部、全部、聴こえないように。大きな音で、適当な音楽を流して歩いた。

 ここでは余計な音は何も聞こえない。こんな場所に自分は住んでいたのだっけ。

 こんな、静かな所に。



 十分ほど歩いて、街の中心部から少し外れた広い道の真ん中で立ち止まった。詠の記憶では、この十字路を右に曲がって少し歩けば、目的の病院が見えるはずだ。

 腕時計を見る。十一時二十分。確か病院の面会可能時間は十三時から。まだあと一時間半もある。どこかで時間をつぶそうか。

 少し考えて、真っすぐ進むことを選んだ。また横断歩道を小走りで渡る。青信号がチカチカ点滅した。

 余った時間で詠が立ち寄りたかったのは、通っていた小学校だった。とはいっても、中に入っては不審者扱いされてしまうので、校門の前で止まる。

 今はちょうど授業時間なので、生徒の姿は一人も見当たらない。数多の教室の窓を眺めながら、自分にもあそこで勉強していた日々があったんだな…としみじみ思う。

 赤いランドセルを背負った自分が、中から今にも飛び出してきそうだった。あの頃は何を考えて過ごしていたんだろう。あの頃の自分は、何になりたかったんだっけ。

「…もう、どうでもいいっか」

 詠は母校を後にした。


「…あら、お見舞いですか?」

「あ…お世話になっております…私、鷹森久枝たかもりひさえの孫の…」

 一時間、近くのカフェで時間を潰した後。向かった先は街の外れの丘に聳える病院。その広い駐車場を突っ切って入り口前で足踏みしていると、看護師さんが声をかけてくれた。名札には「小鳥遊(タカナシ)」と書かれている。小鳥遊さんは目尻に小さなシワを沢山浮かべて、ニコニコと詠に駆け寄った。

「まあまあ…!貴方が詠さんね…!まだ面会には少し早いけど、どうぞ!」

「あ、いえ…!全然もう少し待ちます…」

「駄目よ…!一刻も早く会いたいはずだわ…。いつか孫が来るかもって、写真とかお手紙とかいろいろ見せてもらっていたのよ」

 小鳥遊さんが存外強めの力で、詠の背中を押して中へと促す。ズキと、胸の奥が痛んだ。久しぶりに会えるのは嬉しい。でも楽しみにはしないで欲しいと思った。

 自分が居なくなった後の祖母のことが、気になってしまうから。

 居なくてもいい存在なのだと、都合よく思っていたい。


「…あら、詠…」

「…久しぶり、おばあちゃん」

 ガラガラ…とスライド式のドアを開けるとすぐに、祖母がこちらを向いて。そこに詠が居ることが、信じられないみたいに目を見開く。詠はぎこちなく微笑みながら、祖母のベッドサイドまで移動した。

「これ。お見舞い」

「あら、ありがとう…へえ、知らない作家さんね?」

 祖母はお見舞いに、花を好まない。三か月前に長期入院が決まった時、『もし見舞いに来るなら詠の好きな作家さんの本を持ってきて』と、わざわざ手紙で釘を刺されたのだ。詠が手渡した本の表紙を眺めて、祖母は少し頬を緩ませた。深緑の森の中に、鳥居が一つ立っている絵が表紙のその本は、詠が一時期ハマっていた作者さんの最新作だった。買ったまま読めずにいて、読めずに終わる本だ。

 バッグを空いた椅子の上に置き、コートを脱いで椅子の背にかける。そのままスッと無言で腰掛ければ、その様子をじっと見つめていた祖母が口を開いた。

「…今日は平日よね」

「そう」

「…お仕事は?」

「休み取った。有給、溜まってたから」

「そう。…ああ、手紙ありがとうね」

「ううん、最近書けてなくてごめん」

 祖母は余計なことを聞かない人で。ポツ、ポツと必要な言葉だけを発する所は、詠によく似ていた。否、詠が祖母に似たのだろう。

 祖母は携帯を持たない主義だ。なので中学卒業と同時に上京した時から、詠は手紙を一カ月に一度祖母に出していた。近況報告を兼ねた、便せん一枚程度の味気ないものだったけれど。祖母は毎回必ず、返事をくれていた。

 三か月前に書いた手紙の返信に、入院のことが書かれていた時は驚いたが、毎日仕事や生活に忙殺されて、その後手紙は出せなくて。我ながら酷い孫だったなと思う。祖母が元気だからよかったものの、自分の忙しさを言い訳に大変な状態の家族をほったらかしにして。

「…ごめんね、三か月もお見舞いに来られなくて」

「すぐに謝らないの。詠の悪い癖よ。手紙が来なくなったのは心配していたけど…元気そうでよかったわ」

「あ…ごめん」

 つい反射でまた謝ってしまい、慌てて口を押える。祖母は怒っている様子ではなく、ただ目を細めて詠を見つめていた。

「…詠、何かいいことがあったの?」

「え?」

「この部屋に入ってきた時から、雰囲気が変わったなと思っていたの」

 祖母はそれ以上言及せず、ただ詠の言葉を待つ。矢継ぎ早に質問したりせず、いつも祖母はこうやって中々言葉が出てこない自分の話を聞こうとしてくれた。

 いいこと。確かにあったけれど。あの世界で起きたことを、正直に話すわけにもいかない。少し考えて詠は、話の核は変えず、一部嘘を交えて伝えることにした。

「あのね…素敵な出会いがあったの」

 そうして詠は時雨のことを話した。旅をした、なんていうと非日常感が漂ってしまうから。新しい友達が出来てね…と真実を少し濁して。時雨の人となりや、音楽をもう一度好きにさせてくれたことを中心に伝えた。祖母はただ相槌を打って、とりとめのない詠の話に耳を傾けてくれて。

「そう…それは、良かったわね」

「うん。…よかったんだ」

 嘘の中にスプーン一杯分くらいの真実を混ぜると、本当になる。祖母は詠の話をすっかり信じてくれたらしい。時雨に関する質問を、一つ、また一つと繰り出す。詠はそれに答える。

 一通り話し終えて、二人とも黙り込んだ。次は何を話そうか…と考えを巡らせていると、向こうから助け舟を出される。

「…最近は連絡してるの?」

「…ああ、母さんたちに?うーん…夏に電話したきり、かな…」

 父と母とは随分前に疎遠になった。詠が半ば家を飛び出す形で上京した三年後、高校を卒業する年に両親は離婚している。高校卒業までは進路に口出しもしてきたが、社会人の年齢になってからは音沙汰がなくなった。そのまま二人とも仕事の関係で別々の場所に引っ越して、父に至っては今再婚して別の家族がいる。

 二人ともたまに連絡はくれるけれど、詠のことにさして興味はないようで。詠も詠で、今更両親に執着などなく。結果、今ではお互いに何をしているかすら知らない関係になった。

 そう。だから詠は、両親に対しての未練はない。産んでもらって申し訳ないとは思うけれど、両親とて今更大して悲しまないだろう。

 悲しむ人がいるとすれば。

「…ねえ、おばあちゃん」

「うん?」

「…昔、よくおばあちゃんの前で、一人ステージしてたの覚えてる?」

「ああ…もちろんよ」

 小学生の頃、両親が仕事で家に居ない時はいつも祖母が来てくれて、詠の遊び相手になってくれた。詠の遊びは常に音楽で、ダンスしたり歌ったり。それを祖母がニコニコ微笑みながら見ていてくれる…その空間が堪らなく好きだった。

「…久しぶりにね、新しい曲を作ったの。聴いてくれる?」

 そう告げれば、祖母は目を丸くして固まった。

 何も聞かれなかったけれど、ある日を境に詠が音楽の話を手紙にピタリと書かなくなったことに、気づかなかったはずはないのだ。

 ひとつまみの間をおいて、祖母はニッコリと微笑んだ。

「ええ…聴かせて」

 そうして詠は、鞄から“あまりある残像”の楽譜を取り出した。病室なので楽器はないから、アカペラだが。ここじゃない世界で、時雨と一緒に紡いだ旋律を祖母に歌って聴かせる。

 歌いながら、幸せそうに目を細めて聴く祖母の顔を横目に。なぜか涙が出そうになった。自分が居なくなった世界で、祖母は何を思うんだろう。最後にこの部屋を訪ねてきた自分を、今この歌を歌っている自分を、どんな風に思い出すのだろう。

 歌い終えて、しん…と静寂が訪れる。刹那、祖母がゆっくりと控えめに拍手し始める。目尻にうっすらと浮かんだ、その涙を見て。

 自分はなんて、身勝手なんだろうと思った。

 こんなにも思ってくれる人が、まだ居るのに。いなくなったら悲しむと、分かっているのに。

 それでも。あの世界を見てしまったから。時雨に出会ってしまったから。


 詠の心は今もまだ、囚われている。


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