Tr.2 クレセント・レム

 この世界では、時間の長さが現世と比べて倍になっている。


 時雨がその事実を教えてもらってから、どのくらいの年月が過ぎたのかもう思い出せない。こちらの時間軸では優に、二百年~三百年は経過しただろう。

 よく物語なんかで「〇年後」という描写があるが、描かれていないだけで、物語の登場人物たちはその「〇年」を必死に生きている。現実世界の人間と同じように、一日一日に中身の詰まった日常がある。挫折も苦悩も絶望も、そこにちゃんとある。

 現実でも、他人の描写は省かれて伝わる。自分が知っている範囲のその人しか見えない。だから、「大変なのは自分だけじゃない」ことは誰だって理解しているものの、表面的に見える極一部だけで判断してしまう。

 苦しい状況下に置かれた時ほど、他人の幸せは眩しくて鮮やかだ。


『比べていいのは、過去の自分とだけだ。他者と比べるなど愚か者のすること』

 遠い、遠い昔に。まだ時雨が現世にいた頃に、父からもらった言葉。もう古い記憶すぎて、自分が生きていた頃のことは淡くしか思い出せないが。色んな場面や感情の断片だけ、心に突き刺さって抜けない。

 父はいつでも正しかった。自分や身内に厳しく、他人に優しい。その権化みたいな人だった。時雨は父を尊敬し、慕っていた。

 父は音楽が好きだった。幼い内に時雨はヴァイオリン、ピアノ、ギター、声楽…様々な音楽教養を身に着けさせられ、その中でもピアノが一番好きになった。

 父がプレゼントしてくれたレコードで、世界中の素晴らしい音楽家の演奏を聴いた。その中でも時雨は、ある若きピアニストに憧れを抱き、いつしかその人に並ぶピアニストになることが夢になった。

 ステージや人前で演奏するより、時雨は独りの練習時間が好きだった。楽譜と向き合って、遥か昔の作曲家が遺した音楽を、丁寧に忠実に再現する。隠された思いを読み解いて、一音一音を大切に聴いて。その過程が濃密で、楽しかった。

 十歳を少し過ぎた頃、父の命令に従って、時雨は様々なコンクールに出るようになった。どれも一番いい結果を持ち帰っては、父にさも当然、という顔で出迎えられるのが悲しかった。過去の自分と比べて、自分は確実に成長しているのに。コンクールでの常勝を当たり前と考える父は、他者と比べることにしか興味がないようで。もう、時雨にあの言葉をくれた頃の父ではなくなっていた。

 幼いころに浴びせられた言葉は、その人の人格を作り、思考を作る。時雨は文字通り、父の言葉の支配下に置かれた。自分に厳しすぎる“自分”になった。

 上に立つ人間が、様々な素質を持たされた人間が、その地位を維持するのは凄く苦しい。「出来ない」が「出来る」に変われば褒められるのに、「出来る」がデフォルトになってしまうと後は降下するだけ。失望されるだけになる。

『才能を持って生まれた人間には、“才能の責任”がある』

 これもいつか父が言った言葉だったと思う。嫌いで仕方ないものならば、切り捨ててしまえたのかもしれないが。幸か不幸か、時雨は音楽が好きだった。音楽を辞める、なんて選択肢は到底浮かばなかった。


 次第に時雨は“若き天才ピアニスト”として国内で有名になった。父はより一層息子を売り込もうと、あらゆる手段を尽くした。時雨は使い回され、あちこちで有名な曲ばかり演奏させられ、取材を受けさせられた。練習をする時間は殆どなくなって、弾きたい曲は弾かせてもらえず、演奏技術は衰えるばかりだった。

 ある時、時雨がずっと憧れていたピアニストとの共演話が来た。「若き天才ピアニストたちの共演」と称して、二台ピアノの演奏会をする企画だ。彼の方が年上だったし異国の人だったけれど。音楽に対してとても誠実で、あっという間に親しくなった。二人で試行錯誤したあの時間は、音楽に向き合ったあの時間は、本当に幸福だった。

『誰に何と言われようと、君は音楽に対して誠実だ。僕は君の音楽が好きだよ』

 別れ際に彼がくれた言葉だった。時雨はその言葉を指針にした。周囲からの賞賛も、名声も要らない。大勢に聴いてほしいなんて思わない。

 ただ誠実に音楽がしたかった。自分が誇れる自分でありたかった。だから父に抗議し、音楽を学び直す時間を作ってもらえるよう説得しようとして…できなかった。

 口から出かかった反論は、父を前にすると喉の奥に引っ込んで。息子を“理想を叶えるための道具”としか見ていない父の、怒鳴り声を浴びて。時雨は結局説得も出来ず、上辺だけの音楽を奏でる「天才もどき」で在り続けた。

 数年後、憧れだったそのピアニストが亡くなった。世界的に有名な若きピアニストの死は、一週間ほど世間を賑わせた後、灰のように散り名前すら聞かなくなった。死因は公表されなかった。

 憧れを失くした時雨には、呪いだけが残った。父はそのピアニストの死を“好都合だ”と語った。これでようやく自分の息子のライバルが消えた、と。

 世界各国で行われるコンクールで、時雨は望まずして数多の賞を獲った。理解できなかった。その頃の自分の演奏は、音楽への誠実さなど欠片もない酷いものだった。

 神童だ、天才だと持ち上げる紙面。歯の浮くような称賛の羅列。

 自分はただ、楽しく音楽と向き合いたいだけだ。称賛もタイトルも要らない。練習する時間が欲しい。必死に練習して、切磋琢磨して、最高の音楽を奏でられる瞬間がほしい。

 自分の才覚のせいで、父はどんどん変貌していった。犯罪まがいのことにも手を出し、時雨を有名にするためなら何でもした。時雨の音楽を好きだと、誠実だと言ってくれた心の支えのピアニストはもういない。

 音楽は自分にとって、息をするのと同じことだった。

 息をするのが、苦しい人生になった。


 それ以降は、あまり覚えていない。年月だけが過ぎて、憧れだった彼の年齢は疾うに超えた。音楽への気持ちは満ち足りることのないまま生きて。

 覚えている限りの、最後の記憶の断片は。

 大雨の中佇む自分と、変わり果てた父の姿。父は刃物を手にしながら、自分に向かって何かを叫んでいる。それを見つめながら、自嘲気味に嗤うのだ。

 ああ…やっと終われる、と。

 父は自分に向かって走ってきて。自分は何もしないで、ただ立っていて。周囲の人間が慌てふためいたり、悲鳴を上げたりして。

 何かが欠けたままの心で、時雨の生は幕を閉じた。


◆◇◆


「…れ、時雨…!」


 先を行くノワールが足を止めていた。振り向いた彼女のシルエットの奥に、青白い三日月が浮かんでいる。

「え、ああ…なに?」

「もう…さっきから生返事ばかり…きっと今私が尋ねたことも聞いていなかったのでしょう?」

「聞いてたよ。彼の居場所のことだろう?」

「あら、聞こえてたの」

 うっすら微笑んだノワールに早足で追いついて、再び二人で歩き出す。数時間前に雪降る森を抜けて、雨の街を突っ切り、寧々のいるターミナルを通り過ぎて、今は第七街区の入り口付近まで辿り着いていた。

 第七街区は、遺跡の街。今歩いている道も、古めかしい大木に囲まれ、崩れかけた石畳で出来ている。蔦の絡んだ柱が立ち並び、生物の気配は一切感じられない。

「ここに居るといいけど…あいつは結構な頻度で他の街に出払ってるからなあ…」

「でも、つい最近ここで見かけたって言っていた人が居たわ」

「だからノワールの“つい最近”は信用ならないって。いつの話さ?」

「んー…に、二カ月前、とか…」

「ほら見ろ…」

 呆れて言えば、ノワールはムッと口を結んで歩調を速める。

「仕方ないでしょう?いつもずっと書斎で記録の管理をするだけなんだもの」

「それは分かってるけどさ…」

 言葉を濁す。気まずそうに肩を竦めた僕を見て、ノワールはふっと優しい笑みを浮かべた。

「時雨が来てからは、ずっと楽しくなったけれどね。私一人でこの世界のこと、すべてを把握するのは難しいから…時雨と寧々が手伝ってくれるようになって、とても助かっているわ」

「…まあ、寧々に関しては…」

 今の困った状況を引き起こしたのも寧々で、更に寧々にそうさせる原因を作ったのは自分だ。素直に肯定は出来なかった。それを察したのか、ノワールの眉尻が少し下がる。

「…寧々を許してあげましょう。寧々の気持ち…私だって少しわかるもの」

「うん…分かってる。寧々のしたことは間違っているけど、別に寧々を恨んではいないよ。腹が立ったのは…自分にだけだ」

 止められなかったこと。寧々の寂しさや詠の考えに気づけなかったこと。挙げればいくらでもある。

「馬鹿だったな…僕は」

「…“私たちは”でしょう。止められなかったのは私も同じよ。だからこうして、二人でここに来ている」

 ノワールの言葉に、少しだけ頬を緩める。自分はいつもノワールに救われている。一緒に背負おうとしてくれる彼女に、どれだけの恩があるだろうか。

「…そうだね。まずは、彼に会おう。話はそれからだ」

 大きな石造りのアーチが見えた。あの先に、第七街区の中心部がある。一時間もしない内に、中心部まで行けるはずだ。

「…ねえ、時雨。今日は歌ってくれないの?」

「ええ?こんな時に?」

「こんな時だからこそ、時雨の音楽が聴きたいんじゃない。私、貴方の作る歌が好きなの」


『僕は君の音楽が好きだよ』

 ノワールの声と共に、その言葉が反芻する。一瞬、足が止まる。


「…時雨?」

 不思議そうに見つめるノワールの碧い眸。時雨は一つ小さな笑みを零した。

「…何でもないよ」


 三日月が、淡く美しい光でそっと二人の行く先を照らしていた。

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