Intermezzo-1- 秘密
「…あの子、詠ちゃん。この世界の子じゃないのね」
詠をベッドの部屋に連れて行った藍珠が、戻ってきて開口一番に発した言葉はそれだった。時雨は書きかけの譜面を見つめ、一つ溜息を吐く。
「…文字で気づいたの?」
「そうよ。私がこの世界に来た時に、時雨が教えてくれた。ノワールと一緒に…この塔に初めて私を連れて来てくれた時」
ノワール。この世界の管理者であり、藍珠にこの塔を任せた人物でもある。ふっと苦笑が零れる。あれはどれくらい前のことだったろう。五年か、十年か…もう忘れてしまった。
確かあの時も、ノワールに呼ばれたのだ。この塔に藍珠を住まわせたいと言い出して、時雨も了承した。それ以来ずっと、彼女はここにいる。
藍珠は静かに、窓辺の椅子に腰掛けた。カーテンのないガラス窓の外には、流れ星が降り注ぐ美しい夜空と深い森が広がっている。この街を幻想的だと、ずっと住みたいと言った詠は藍珠と感性が似ているのかもしれない。
藍珠は穏やかな笑みを浮かべたまま、外を見つめている。時雨もあの日のことはよく覚えている。本来ならば伝えてはいけなかった禁忌を、伝えてしまった日。
「娘を探す私に、元の世界に還してと泣いた私に、二人が教えてくれた。この世界が、死者の世界であること。来世に生まれ変わるまでの間滞在する、仮初めの世界であることを。ここに集められた本…人生録の中には、現世で生きる全ての人の人生が記録されている。過去も、現在も、未来も、人生録を開けば見ることが出来る。その人が今何をしていて、何が好きで、どんな気持ちで、誰を好きになって…幸せにしているかどうか」
人生録。それは魂の器。
一つの生を全うし、死してこの世界に辿り着いた者。彼らの人生の全てが記された記録であり、その人の魂を宿す器でもある。一人一冊与えられたその本は、転生が決まると同時に本棚へと収められる。
そして新しい生が与えられた時。真っ新な人生録の一ページ目から、また始まる。
この世界の住民たちは、一部の例外を除いて皆転生を待つ死者たちだ。転生の順番は基本的にランダムで、順番が来たら管理者であるノワールが次の生へと送り出す。それまでの期間は、この世界で好きなように暮らすことが出来る。
藍珠はまだ幼い娘を遺して、自分が知らない世界に来てしまったことを嘆いていた。返して欲しいと縋られて。時雨はもう、娘に会うことは叶わないと告げた。
『残念ながら君の生はもう終わった。その代わり、転生するまでの間ここで娘さんの一生を見届けることは出来るよ。…この人生録を見れば』
「…未だに正しかったのか、分からないよ。僕が伝えなければ、君はもっと早く転生して新しい生を生きていたかもしれないのに」
「ううん。時雨とノワールには、感謝しかないよ。私は娘の幸せを最後まで見届けるって決めたから」
「…そう」
藍珠の凜とした、晴れやかな表情を見て時雨は曖昧に笑う。正しい答えなんてないことは分かっている。後悔はしていない。今の藍珠は、毎日ここで娘さんの人生録を開いて、ただ見守ることを幸せと感じているようだ。
藍珠の顔から、自分の手元に視線を映す。鍵盤の上に置かれた、自分の手。
「…彼女、文字が読めなかったってことは。詠ちゃんはまだ死んでないってことよね?」
「…そうだよ。薄々そうかな、とは思ってたけど。さっきので確信した。彼女はイレギュラーでこの世界に落ちてきてしまったんだ」
「そんなことあるの?」
「…予め定められている場合はあるけど…」
「定められている場合?」
「…人には運命ってものがあるからね。例えば現世で長く意識不明の人の魂が、その間こちらの世界に留まる…っていうのは前例がある」
「じゃあ、詠ちゃんもそうではないの?」
「恐らく違う。定められている場合、この世界の住人と同じように人生録の文字は読める筈なんだ。それが読めないってことは本当にイレギュラーな存在なんだよ、詠は」
「…元の世界に返すことは出来るのかしら?」
ポツリと藍珠が呟いた言葉に、思わず時雨は振り向く。
「まだ生きているのなら、返してあげるべきよ。そうでしょう?」
藍珠の問いに、時雨は答えなかった。一つだけ詠がこちらに落ちて来た理由に心当たりがありながら、口に出せなかったことがある。
もしそれが事実なら。
『今を幸せだと思いながら、旅した。知らない街を君と歩いたこの日々を』
作りかけの曲の、譜面に綴られた詩。詠が今朝、地面に書いていた言葉たち。時雨と音楽をするのを楽しいと言っていた詠。
ルナと一緒に演奏する自分を、遠巻きに見ていた数日前とは違う。初めて会ったときの、暗い目をした彼女とは違う。
幸福で、楽しそうな笑顔。
「…どうしたらいいのかなあ…」
藍珠の心配そうな視線を感じながら。時雨は鍵盤の上に手を置いて。詠のこれまでの言動を思い出して。
考える。
…考える。
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