Tr.7 Minstrel

 詠は夢を見た。


 薄暗い部屋の中で、誰かの手がピアノを弾いている。赤い月が怪しく光る、窓の横。靡くカーテンの向こうは闇が広がっていて、静謐な夜にピアノの音色だけが響いている。

 知らない曲だった。ピアノを弾く手を真上から見下ろしていて、自分がその曲を奏でているのだと悟る。

 ポタッ、と雫が白鍵の上に落ちた。それが自分の目から零れた涙だと気づいても、この手は独りでに演奏を続ける。

 涙は溢れ続けて、次第に鍵盤が水滴まみれになった。濡れて指先がスルッと鍵盤から滑り落ちる。音楽が唐突に、プツッと切れた。勢い任せに、鍵盤を拳で叩く。


 ダーン…と耳を劈くような音がして、目が覚めた。


◆◇◆


「もう行っちゃうの…寂しいわね」

「ごめんよ、藍珠。ちょっと寄りたいところが出来てね」


 朝。…といっても、外は暗いままで。本当に朝になったのか疑問に思いつつ、詠は藍珠さんの朝食の準備を手伝った。相変わらずガラスの天井の外には、満天の星が広がっている。本当に、体内時計がおかしくなりそうな街だ。

「ふふっ、まあ慣れるまではそうよね」

 正直に告げれば、藍珠さんはコロコロと笑った。藍珠さんが用意してくれた朝食は、トーストとスープ。朝は和食派の詠にとっては、新鮮なメニューだ。

「寄りたい所って?」

「第二街区の塔だよ」

「第二街区って…来るときに通ってきた森だよね?」

 昨夜藍珠さんと眺めた地図を、頭の中に描きながら尋ねる。

「そ。最短距離で来たから、行きは塔を通らなかったんだけど。第九街区スレスレの場所にあるんだ。ここからそう遠くない。長くはかからないさ」

「へえ…藍珠さんは、一緒に来られないんですか?」

 何となく答えは分かっていたけれど、聞くだけ聞いてみる。たった半日しかまだ一緒に過ごしていないが、藍珠さんと別れるのは名残惜しい。もっと沢山話したい。温かくて優しくて、居心地の良いここにいたい。

 だけど藍珠さんは案の定、眉尻を下げて首を横に振った。

「ごめんね。私はここを任されているから…離れられないの」

「そうですよね…ごめんなさい。藍珠さんと離れるの、寂しくてつい」

「お、寂しいってちゃんと口に出すなんて…詠、少し変わったね」

「え、そう?」

「うん。今までそんな素直に自分の感情を話したこと、なかっただろう?」

 軽い声音で放たれたその言葉。確かに、ここに来てからの詠は自分らしくない。周囲の人に対して隔てていた分厚い壁を、一枚ずつ剝がされている気分だ。体も心も、軽くなったように思う。

 温かい人たちに囲まれて、こんな風に生きられたらと。願ってしまう自分がいる。

 ふと今朝見た夢を思い出した。独りぼっちで暗い部屋の中、冷たい鍵盤に涙を落とす自分。

「…そうかもね」

 独り言みたいに呟いて、トーストを一口頬張った。窓の外はまだ暗い。

(…もう一人にはなりたくないな)

 仲良く軽口を叩き合う、藍珠さんと時雨を見ながらそう思った。


◆◇◆


『また二人でここに立ち寄ってね』


 お昼を少し過ぎた頃、名残惜しげな藍珠さんに見送られて詠と時雨は塔を後にした。詠の背中には、藍珠さんの手作りご飯がたっぷり入ったリュックが増えた。道中に二人で食べてね、と渡されたそれはなんとなく食べるのが勿体ないと思う。

「藍珠さんに会えて、よかった」

「そう?それは良かった。…藍珠も嬉しかったみたいだし」

 視界を遮る木の枝を避けながら、暗い森の中を進む。時雨の手には、これまた藍珠さんが『暗いから持って行って!』と渡してくれたカンテラが握られている。去り際に色んな物を心配して持たせてくれる様子が、なんだか母親のようで。「藍珠さんってお母さんみたいですよね」と言えば、目を丸くした後、藍珠さんは今までで一番素敵な笑顔で笑った。

『…良かった、嬉しい』

 そう答える藍珠さんを、何故か時雨は切なげな表情で見つめていた。


 そうして塔を出てから、また長いこと歩いた。昨日来た方角に戻りつつ、途中で角を曲がって知らない道に出る。次第に空は、星空から夕暮れの薄紫、茜色と移ろっていく。時間が逆戻りしているみたいで、なんだか不思議だ。

 途中、白い花が咲き乱れる花畑に遭遇した。あまりに綺麗だったので、すぐに詠は駆け寄って花の海に埋もれる。だけど時雨は、愛らしい白い花を見て苦く笑った。

「ああ・・それは、ミルテの花だよ。花びらを取って吸うと甘い蜜が出るのが特徴なんだけど…その蜜を吸うと一瞬で眠ってしまうんだ。だから舐めちゃダメだよ」

「へえ…甘い蜜なら、こっそりお菓子とかに入れてもバレなそうだね」

「まあそうだけど…どういう時に使うつもりなんだよ…」

 悪戯っぽく答えた詠に、時雨はやれやれと肩を竦めた。

 特に急いでるわけではない、と言うので「少しここで休憩しよう」と提案する。  時雨が木の根元に腰を下ろして何かを書いている間、詠は童心に返った気持ちで花冠を一つこしらえ、時雨の元に持って行った。

「へえ…うまいね」

「ふふっ、昔おばあちゃんが教えてくれたの。花冠の作り方」

「おばあちゃん?」

「そう。両親との思い出はあんまりないんだけど、おばあちゃんとの思い出は両手から零れ落ちそうなくらいあるよ」

 家のすぐ裏側にあった公園で、よくシロツメクサの花冠を作って遊んでいた。祖母の手は、何でも生み出す魔法の手。松ぼっくりのツリー、ほおずきの笛。ミルテの花とは違うけれど、サルビアの蜜が甘いのだと教えてくれたのも祖母だった。

「懐かしいなあ…」

「そうか…詠はおばあちゃん子なんだね」

「うん、そう。…あれ、その楽譜…」

 ふと視界に入ったのは、時雨が膝の上に置いていた楽譜。碧いインクで書かれた音符と言葉の欠片。見覚えのない曲だ。ああ…と視線を落とし、時雨は苦笑する。

「あともう少しなんだけど…完成してないんだ。歌詞が難航していてね」

「時雨でも、詩に苦戦することなんてあるんだね?」

「…この曲は、特別だから」

 言いながら時雨の白い手が、そっと譜面を撫でる。五線譜一枚分、短いその曲の詩にはまだ空欄があった。ポツポツと未完成のパズルのように、単語だけ散りばめられている。

「…特殊な力を持つ楽譜だって言ったら、詠は信じるかい?」

「え?この楽譜が?…うーん…普通の楽譜に見えるけど…でも信じる。だってこの世界は不思議なことばかりだから。魔法みたいな楽譜があってもおかしくない」

「魔法みたいな…か。まあ、そうだね。でも完成させないと、その力は宿らないんだ。だから今は普通の楽譜だよ」

 肩を竦めて笑いながら、時雨はそっと鞄にその楽譜をしまう。

「完成させたら、どんな力があるの?」

「…それは言えないや、ごめん。いつか使う時が来たら、ね。」

 はぐらかすように、時雨が目を逸らす。自分から振ってきた話題なのに…と少し腑に落ちなかったけれど。よく考えれば勝手に楽譜を覗き込んだのは自分だ。大人しくこの話から手を引くことにした。



 結局、完成した花冠はその場所に置いて行くことになった。名残惜しかったけれど、持って行った所でどうにもならないから仕方ない。記念に…と一本だけ、ミルテの花を時雨に内緒でリュックのポケットに挿した。

 そこから先はずっと一本道で、同じような景色が続いていて。つまらなくなった詠は、例の作りかけの曲のことを考えながら歩く。

「…♪それを幸せだと思いながら、旅した~…二人内緒の…」

「…ははっ、詠その曲気に入ったんだね」

「…え?」

 無意識に声に出して歌っていた自分に驚く。音楽への拒否反応は、たった数日でもう見る影もないほどに消え去っていた。

 昨日の朝作り始めたとは思えないほど、体にストンと馴染んだメロディー。藍珠さんの塔では完成には至らなかったが。『完成したら聞かせてね』という藍珠さんとの約束は守りたいと思った。時雨はきっとまた第三街区にも、第四街区にも寄るだろう。その時までに完成させて、ルナの前で歌って驚かせたい。藍珠さんに「素敵な曲に仕上がったね」と誉めてもらいたい。

 しばらくその曲だけを口ずさみながら歩いた。その内に空は、明け方みたいに澄み渡った透明度の高い水色に変わっていた。視界が明るくなって、時雨がカンテラの火を消す。日の光を約一日ぶりに浴びて、心も晴れやかになった詠は次第に、昔自分が聴いていたお気に入りの曲も歌い始める。

 あんなに歌うことを怖いと思っていたのに。今は全然怖くないし、嫌じゃない。寧ろもっと沢山歌いたい。時雨に聴いて欲しい。時雨の知らない曲を教えてあげたい。

 散々いろんな曲を口ずさんだ挙げ句、ふと思い立って時雨に尋ねてみる。

「ねえ、時雨はどんな音楽を聴いてたの?曲を作る時に、どんな音楽から影響を受けて作ってるの?」

 先行く時雨の背中に問いかけるものの、答えがない。気になって小走りで時雨の真横に並び、その顔を覗き込む。

「…時雨?」

 物憂げな表情を浮かべていた時雨は、詠の声にハッと身を強ばらせた。

「あ、ああ…ごめん、なんて?」

「どうかした?大丈夫?」

「どうもしないよ。少しぼーっとしてただけ」

 取り繕ったように笑う時雨に、違和感を覚えた。今朝から…正確には昨日の夕食くらいから、考え込む姿が多くなったような気がする。

「…時雨。あのね、私」

 昔から、伝えたいことを言葉にするのが苦手だった。だけど、今伝えなきゃいけない。そんな気がする。

 何も知らない自分を拾って、色んな世界を見せてくれた。たった数日間だけど、今までのどんな月日よりも濃密で、新鮮で、幸福な時間だった。何ヶ月、何年も一緒にいるような感じがした。

 それはここで出会ったのが、時雨だったから。

「…時雨に、凄く感謝してる。音楽を、もう一度好きにさせてくれた。幸せな物だって思わせてくれた。…もっと知りたいなと、思う。色んな街のこと、知らない世界を知りたい。時雨の作る音楽を、傍でずっと聴いていたい。これから先もずっと、ずっと…」

 時雨の歩む足が止まる。

 振り向いた、少し陰った眼差しを真っ直ぐに受け止める。

「…ありがとう、時雨。私これからも、貴方と一緒に旅がしたい」

 こんな風にドキドキしながら、言葉を口に出したのはいつ以来だろう。大好きな人に想いを伝える時のように、ずっと隠してきた秘密を打ち明ける時のように。心臓が今にも破裂しそうなほど脈打っている。ざあっと風が森の木々を揺らす。誰も居ない森の真ん中で、詠は時雨とただ見つめ合う。

 返事はなかった。何か答えようとして、口を閉じて。その繰り返し。詠は何も催促はしなかった。答えが欲しかった訳じゃない。ただ、今伝えたかっただけで。

 数分にも感じられる長い沈黙の後、時雨がやっと意を決したように口を開く。優しくて、温かくて、けれども少し寂しそうな微笑を浮かべて。

「…うん。ありがとう、詠」

 返ってきた言葉は、それだけだった。


 そこからまた更に歩を進める。いつしかまた、雪が降り始める。辺りをぐるっと木が囲んでいる、広場のような場所に出た。行きには通った覚えのない場所だ。    

 木々が丸く囲む草むらの真ん中に、白い建物がそびえている。藍珠さんのいた塔よりも少し小さくて、厳めしくない建物。石造りの外壁がなんとなく、絵本に出てくる城を思わせる。建物の手前には大きな灰色のアーチがあった。建物は真っ白で綺麗だが、何故かそのアーチだけは古びていて、あちこちに蔦が絡みついている。

「…詠、ここで待っててくれる?」

「え?」

「塔の中で探したい物があるんだ。でもここは、許可がないと入れないんだよ。…すぐ戻るから、待ってて」

「…わかった」

 てっきり連れて行ってもらえると思っていた詠は、少しがっかりする。古城の中を覗いてみたかったけれど、時雨の眸はとても真剣で。

「…本当に、すぐ戻ってきてね」

 見送ったが最後、時雨が二度と戻ってこないような気がして。青い双眸を真っ直ぐに見つめ、そう呟く。時雨は小さく頷いて、アーチをくぐった。時雨の姿はそのまま、城の扉の奥に消えていった。

 風が木々の間をすり抜けていく。ひゅおおお…と風の啜り泣きが聴こえる。その中に詠一人だけが取り残される。

 詠が告げた気持ちに嘘はなかった。この世界へ来て初めて芽生えた希望。明日を楽しみだと思えるこの気持ちに、嘘偽りはない。

 時雨とずっと一緒に旅をしたい。音楽を作り続けたい。

 ただそれだけを考えながら、詠は時雨が戻ってくるのを待ち続けた。


◆◇◆


 久々に足を踏み入れた、第二街区の塔。

 ギイイイイ…と幽霊でも出そうな音を立てて、開いた扉。なるべく詠を待たせぬよう時雨は足早に階段を上る。踏みしめると時折、ぱらぱらと石段が崩れる音がした。構わず上階に辿り着き、目の前の部屋に入る。

 中は図書室のようになっていて、縦に数列並んだ本棚にはびっしり本…人生録が詰まっていた。ご丁寧に『A~D』などとカテゴライズされた表示を見つめながら、時雨は目当ての棚を探す。

「…確か詠の苗字は…鷹森…」

 ゆっくり棚の文字を確認しながら進めば、端から十四列目の棚に『T』の表示があった。反対側から数えた方が早かったなと後悔しつつ、その棚を今度は上から順に眺めていく。夥しい数からたった一つを見つけるのは、中々骨の折れる作業だったが。

「…あった。これか」

 目に留まった一冊の本。茶色い背表紙には『Yomi Takamori』の名。目当ての物を見つけて思わず頬が緩む。そっとその本を抜き出して、両手で抱えた。他の本に比べてあまり厚みのない詠の人生録は、焦げ茶色の表紙に金の文字で名が記されていた。

 魂には、所属がある。

 所属と言っても、何かに縛られている訳ではない。属する先を決めているの本人だが、無意識下で行われているため本人に自覚はない。

 この世界が九つの街に分かれているのも、魂の属性が所以だ。街が先だったのか、属性分けされたのが先だったのかは知らないが。同じ街に集められた者たちは、基本魂の属性が近い者たちなのである。

 この世界に落ちてきた詠は初め、第二街区に倒れていた。その場所だった理由は恐らく、詠の魂の属性が第二街区だったからだ。故に、第二街区の塔に詠の人生録があるだろうと簡単に予想が付いた。

 一つ大きく深呼吸をして、詠の人生録を開く。

 ある程度の近況から、ここへ来るに至る経緯の部分を読み終えるまで、およそ十分程度かかった。どのように詠はこの世界に落ちてきたのか。現世で詠に何が起きたのか。その全てが記された人生録を閉じて、束の間僕は目を瞑った。

「…セツナ、僕はどうしたらいいんだろうね」

 口から零れた弱音。かつて僕と共に旅をした、旅人に向かって問いかける。答えは返ってこないと知りながら、それでも尋ねずにいられなかった。

 こんなに真剣に、彼女に向き合うつもりは無かった。ノワールに頼まれたから、それだけが理由だったのに。五日間共に旅をして、誰かと共に旅する楽しさを思い出してしまった。情が沸いてしまった。

「…僕は詠に、何をしてあげられるんだろう」

 その問いに答える者はいない。未完結の人生録を抱えたまま、そこに書かれた事実を受け止めきれないまま、暫くの間立ち尽くしていた。


◆◇◆


 結局詠の心配は杞憂に終わった。

 時雨が塔の中へと消えてから、およそ十五分後。正面扉から時雨が現れた。特に変わった様子はないが、唯一その手に赤茶色の表紙の本を抱えていて。

 アーチをくぐり、「お待たせ」と笑って駆け寄ってきた時雨に尋ねる。

「その本は?」

「…読みたかった本だよ。これを探しに来たんだ」

「へえ…?見せて」

 手を差し出すと、時雨は一瞬虚を突かれたように目を見開いたが、大人しく詠に本を預けてくれた。期待して表紙を捲ってみたはものの、中に書かれていたのはやはり見たことのない文字で。表紙にも何か文字が綴ってあるようだが、さっぱり読めないことに落胆する。

「…はあ…いつか読めるようになるのかな…今度教えてよ、この文字の読み方」

「…なっちゃダメだ」

「え?」

「読めるようになったら、ダメなんだよ。この本は」

 独り言のように呟いて、詠の手からその本を静かに取り上げる。その時の時雨はとても悲しそうで、詠は何も尋ねられず、ただ本と時雨を交互に見つめるばかりだった。時雨は大事そうにその本を鞄にしまう。

「…さてと、行こうか」

「どこに?」

「…第九街区を目指そう。会わなきゃいけない人が居るんだ」

 時雨が提示した行き先は、まだ見ぬ第九街区。確か藍珠さんと見た地図によれば、大陸のちょうど真ん中にある丸い街だ。

 時雨の顔に、もう先ほどまでの悲しげな色はなくて。大事な何かを心に決めた、そんな顔つきに変わっていた。さっきの本が見つかったことで、時雨の心配事は晴れたのだろうか。

「わかった。…時雨についていくね」

 そう答えると、時雨は伏し目がちに頷く。

「…うん、この旅が詠にとって、大切な思い出になるのなら」

 意味深なその言葉を、詠は深く考えることはしなかった。


 ただこのまま時雨との旅がずっと続けばいいと、本気で願っていたのだ。

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