Tr.8 インディファレント

 第九街区は、雨の街だった。


 重たい雲が空を覆う、曇天。小粒の雨がしとしと降る中を、時雨と二人で歩く。時雨の鞄は相変わらず万能で、ちゃんと傘が入っていた。少し小さめの傘に二人で身を寄せ合って入り、歩幅を合わせて歩く。

「…この街はずっと雨なの?」

「そうだね。…今までの街とは、ガラッと雰囲気が違うだろう?」

 時雨の言うとおり、第九街区はこれまで訪れたどの街とも違っていた。だけど詠にとってはある意味、親しみのある風景がそこにあって。

 コンクリート製の高層ビルが建ち並ぶ道。雨の匂いがするその街は退廃的で、薄汚れていて、人工的な光がちらほら各建物に見えた。

 詠が知っている世界に、似ている。人が居ないことを除いては。

「ここには、住んでいる人は居ないんだ。みんな通過するだけだからね」

 内心の疑問を見透かされたのか、時雨がそう言う。傘に雨粒が当たる音で、その語尾が掻き消される。

 静かで、寂しい街だった。人が住んでいないのも納得出来るような。もし自分が目を覚ました場所がここで、時雨にも出逢えなかったとしたら。心が折れていたかもしれない。

 心細さで、無意識に時雨に一歩近づく。その体温を感じていたくて。

「…大丈夫だよ、僕がいるから」

 安心させるように時雨が微笑む。頷いたけれど、なんだか胸騒ぎがする。でも時雨はいつも通り、ただ真っ直ぐ前を見据えて歩くばかりだった。

 ひたすらコンクリートの通りを直進していくと、突然目の前に巨大な塔が現れた。藍珠さんの住んでいた塔、途中で立ち寄った城、どちらにも似ていない。この塔は明らかに鉄筋コンクリート製で、数多ある窓から人工的な緑色の光が零れている。

「・・ここで待ってて」

「え?」

 少し前に、お城の入り口で聞いたのと同じ台詞だった。だけど素直に頷けない。ここで一人にはされたくなかった。不気味で、怖いこの場所には。

「…一緒に行ったら、ダメ?」

 か細い声が出る。時雨は一瞬眸を揺らしたけれど、神妙な面持ちで頷いた。

「ごめん。ここも、連れて行けないんだ…さっきと同じで、すぐ戻るから」

 厳しい口調で言われてしまっては、肯定するしかない。時雨の手から、傘の柄を受け取る。バッと時雨が傘の外に飛び出す。

「本当に、すぐ戻るから!」

 そのまま駆け足で塔に向かって走って行く。雨で白いマントが少しずつ変色していく様を見つめている内、時雨の姿は塔の中に消えてしまった。


 雨の音に、支配される。

 湿った匂い。雨の匂いは嫌いじゃないけれど、一人残されたこの場所ではそれもあまり良い気持ちはしなかった。早く時雨が戻ってきてくれるのを、待つほかない。

 黙って立っていても不安が募るだけなので、周辺を探索して待とう…と後ろを向く。無機質なコンクリートの建物ばかりだし、中に入ることも出来ない。

 そこで、詠の視界にあるものが飛び込んできた。

 少し後ろの、建物と建物の間の細道。遠いので確かではないが、靴のような物がはみ出している。片方だけ、しかも動かない。

 誰か倒れているのかもしれない。背筋が凍った。バシャバシャと水が跳ねるのも気にせず、走り寄る。細道の角を曲がって、立ち止まった。

「あの…!…え?」

 倒れている人は居なかった。代わりにそこには、壁にもたれ掛かって座る、華奢な女の子がいた。じっと詠を見上げるその双眸は、左右で色が違う。

 右目は鮮やかな紅、左目は透き通るような水色。髪は紫がかった紺で、長い髪を耳の下で二つ縛りにしている。紫色のパーカーは雨の重さを含んでしとどに濡れていた。

 無意識に傘を彼女の頭上に掲げれば、酷く不思議そうに彼女は口を開く。

「…どうして、傘を差し出すの?」

「…え?…濡れちゃうから…」

 詠の答えに、女の子は目をパチパチさせた。十代後半くらいだろうか。大きな眸、きゅっと閉じた口元、吐息混じりの独特の声音。

「…」

 彼女はただ、じっと詠を見つめるばかりで。傘を差しだして突っ立ったまま、困り果てる。どうしたものだろうか。

 そもそも、この街に住人はいないと時雨は言っていた。ならばこの子は別の街から迷い込んだのだろうか。だが周りに他の人影は見当たらない。

(…一人だけでこんな寂しい街に、何か用事?それもないよね)

 だとすれば、もしかすると自分と同じで。

 考え込んでいる間に、少女は無言でスッと立ち上がった。そのまま傘から出て立ち去ろうとするので、慌ててその手を掴む。

「ま、待って…!」

 掴まれた手に、少女は目を見開いた。無表情だった彼女の顔に、少しでも変化の色が見えたことにホッとしながら、その手をそっと引き寄せる。

「冷たい…寒かったでしょ?一緒に雨宿りしよう」

 何も言わぬ少女の手を引く。路地の少し奥まで進めば、非常階段らしきものがあって。その踊り場の下は丁度、雨が当たらないようになっていた。

 傘を閉じて、雨宿りをする。ふと藍珠さんが持たせてくれたリュックの中に、温かい紅茶入りのポットがあることを思い出した。もう冷めてしまったかもしれないが、気休め程度に温めてあげることは出来るかもしれない。

「ちょっとこれ、持ってて」

 傘を手渡せば、無言で少女はそれを受け取る。藍珠さんに預けて貰ったバッグを開き、中から花柄のポットを取りだした。まだ温かい。一緒に入れてくれていたカップに紅茶を注ぐ。うっすらと湯気が立った。

「はい、どうぞ。」

 少女は差し出されたカップを、じっと見つめた。彼女の右手が傘で塞がったままなことに気づき、慌てて傘の柄を取り上げる。自由になった右手で、少女はカップの取っ手を持りそのまま口に運ぶ。

「…あったかい」

「…!よかった。えーと、名前は…?」

「…寧々。」

「そっか。私は詠、よろしくね」

 名前を教えてくれたということは、少なからず心を開いてくれたのだろうか。嬉しくなった私は、笑顔でクッキーの入った箱を差し出す。寧々ちゃんは紅茶を啜りながら、ゆっくりと箱の中を覗き見た。詠の顔と交互に見比べるので、食べて良いよと促す。

 一つ手に取って、口に頬張った。途端、寧々ちゃんの眸が輝く。

「これ、美味しい」

「そうでしょ…!藍珠さんっていうお姉さんが作ってくれたの」

 さっきまでの無表情な寧々ちゃんは、十代後半くらいの印象だったが。クッキーを頬張って目をキラキラさせる姿を見ると、まだ十四、十五歳くらいかもしれない。

 気に入ったのか、次々クッキーに手を出す寧々ちゃんを見守りながら。一つくらい自分も食べようと手を伸ばす。もう一つカップを取り出して、自分用の紅茶も注ぐ。

 しばらくの間、詠は寧々ちゃんと雨の中のお茶会を楽しんだ。とは言え、ただ黙々と口にクッキーと紅茶を放り込んでいくだけのお茶会だったが。

「…寧々ちゃんは、ここに住んでる…わけじゃないんだよね?」

「…うん。」

「どうしてあんなところに居たの?他に誰か一緒?」

「…ううん、ずっと一人」

 サク、とクッキーを齧りながら寧々ちゃんが言う。

「えーと…ずっとってことは、どこかにお家があるの?」

「…家じゃないけど、ある。居る場所」

「どこの街に?」

「ここ。」

 返ってきた答えに、思わず目を瞬く。この街に住んでいるわけじゃない。なのにこの街に居場所がある…というのはどういうことだろうか。

 次の質問に迷う詠を横目に、寧々ちゃんは黙々とクッキーを平らげていく。箱の中に、クッキーがあと三枚になった。そこで寧々ちゃんはやっと手を止め、空になったカップを詠にグイッと手渡す。

「…美味しかった。詠は、人に優しく出来る人なんだね」

「え?」

「…他の人に優しく出来るのって、心に余裕があって、幸せを知ってる人だけ…幸せな場所で育ってきた人なんだって、言ってた」

 誰かから聞いた言葉らしい。反論はしなかった。それは真理だと思うから。

「…私も、最近できるようになったばっかりなの」

 ぽつり、と呟いた言葉に、寧々ちゃんがピクンと反応する。受け取ったカップをしまいながら、ここ数日の旅路を思い出して語る。

「元は私も全然人に優しく出来なくて…自分のことに精一杯で、周りの人たちが羨ましくて、妬んだり嫌ったりして過ごしてたよ。でも、ここに来て旅をして、いろんな人に優しくしてもらって…だから今こうやって、寧々ちゃんに優しくできてる」

「…そうなんだ」

「うん。…私の住んでた街は、この街に似てたよ。無機質で、無関心で、冷たくて…」

「…住んでた街?」

 寧々ちゃんのキョトンとした眸に、教えてあげたくなった。ここじゃない世界のこと。自分が時雨に見せて貰ったように。この子の知らない世界のことを。

 そうして詠は、記憶にある限りの過去を話した。恐らく、こことは別の世界の話。寧々ちゃんは特別大きな反応はしなかったけれど、口を挟むこともなくただじっと、詠の話を聞いていた。

「…それでね、車や人がギュウギュウになって歩いてて、高いビルばかりに囲まれてて…まあ、夜景は綺麗なんだけど」

「…夜景って何?」

「夜景は…うーん…人が作った光がね、夜になると輝いて見えるの。一つ一つの窓に誰かが生活してる明かりが見えてね。すごく綺麗なの」

「…ふうん」

 興味深げな相づちだった。この街には夜景という概念はないんだろうか。これだけ高い建物が密集しているのだ。夜に上から見下ろせばそれなりに綺麗だろうに。

 グルッと辺りの建物を見回して、あることに気がつく。

 もう時雨が入って行ってから、三十分は経っている。寧々ちゃんと話すのに夢中で、すっかり忘れていた。もしかしたらさっきの通りで、自分を探しているかもしれない。

 青ざめて立ち上がった詠を、寧々ちゃんが不思議そうに見上げる。

「ごめん、寧々ちゃん。ちょっと待ってて」

 足早に細い路地を出て、時雨を見送った大通りに出た。相変わらず雨は降り続いていて、慌てて傘を開く。辺りを見回すが、時雨の姿はまだどこにもない。

 探されていなかったことに安堵する気持ち半分、まだ戻ってきていないことを不安に思う気持ち半分。聳え立つ塔は確かに高いが、時雨は目的があって入ったはずだ。そんなに時間のかかる用事だったのだろうか。

(…すぐに戻るって言ってたのに?)

 不安が段々と、色濃くなっていく。

 パシッと、不意に傘を持っていない方の手を掴まれた。驚いて振り向くと、びしょ濡れの寧々ちゃんが立っていて。

「あ…!ごめん、傘私が持ってきちゃったから濡れて…」

「いこ」

「え?」

「中が気になるんでしょ。行こう」

「で、でも…」

 時雨に、待っててと言われた。それにこの建物が、勝手に入って良い場所なのかも分からない。怖じ気づく詠に、寧々ちゃんは驚くべき一言を発した。

「時雨が、中にいるんでしょ。居る部屋、分かるから」

「えっ…時雨を知ってるの?」

「…もちろん。」

 ギュッと、寧々ちゃんが詠の手を強く握りしめる。

「…案内してあげる。ボクはここ、よく知ってるから」


◆◇◆


 宇宙船のコックピット。


 乗ったことも見たこともないのに、建物の第一印象はそれだった。恐らく、昔見た何かの映画の記憶だろう。床も壁も一面黒で、ライトは人工的な緑。ドアも自動ドアで、近づくと勝手に開いた。近未来的、とも言い表せる。

「…今まで見た塔と、全然違う」

「…それは、そうだよ。この街の塔は特別だから」

 寧々ちゃんはここに入ってから、やけに饒舌だった。各部屋を詠に案内し、どんどん建物の上階へといざなってくれる。よく知っている、というのは本当のようだ。

 いよいよ、寧々ちゃんが何者か分からない。

「…どこに時雨がいるか、分かるの?」

「…うん。最上階の、ターミナル」

「…ターミナル?」

 オウム返しに問えば、先を歩く寧々ちゃんがコクンと頷く。さっきからずっと果てしなく長い階段を登っている。こんなに高くて機械的な建物なのにエレベーターはないらしい。

 寧々ちゃんはずっと、詠の右手を強く握っている。

「…寧々ちゃんが言っていた居場所って、もしかしてここ?」

 直感的にそう思ったのは、藍珠さんを思い出したからだ。明らかに家ではなさそうだから、藍珠さんと同じくこの塔を任されてここに滞在しているのではないかと。  

 案の定、寧々ちゃんはまた小さく首肯する。

「…そう。いつもここで、見てる」

「…見てる?…何を?」

 それには答えず、寧々ちゃんが最後の一段を昇りきる。その先に、今までと雰囲気の違う大きな扉があった。少し上がった息を整えながら、動かない寧々ちゃんの背中を見る。

「…寧々ちゃん?」

 言葉は返ってこず、ギュッと手を握る力が強まっただけだった。

 寧々ちゃんが右手を、扉の横にかざす。シューッと、扉が横にスライドして開いた。手を引かれるまま、中に入る。詠は目を瞬く。

 プラネタリウムのような、ドーム型の空間。天井は星空に見えるが、本物ではない。グルリと囲む壁は一面本棚で、床には濃紺のカーペットが敷かれている。詠の目を引いたのは、部屋の中央に置かれた大きな地球儀のような球体。直径一メートル近くあるその球体は、よく見ると少し浮いていた。その下の床だけ何故か、カーペットはなくガラス張りになっている。 

 神秘的な異空間を前に、詠は唖然として立ち尽くす。

「…ここは?」

「ターミナル。第九街区は、中心。全ての街と繋がってる。だからターミナル」

 寧々ちゃんが詠の手を離した。そのままゆっくりと、中央の球体に近づいていく。何となく詠も後に続く。青い球体に触れられる距離まで近づけば、寧々ちゃんはピタリと足を止めた。

 その球体は何にも繋がれていないのに、ひとりでに光っていて。その美しさに思わず見惚れる。

「…繋がってるって、全部の街に接してるっていう意味…?」

「…ううん、違う。繋がってる。だから、ここからどこの街にでも行ける」

 テレポートみたいなことだろうか。本来はあり得ないことだが、時雨と旅するようになってからの日々を考えればそれも可能な気がする。勝手に納得した詠を、寧々ちゃんは真っ直ぐに見据えて、唐突に言い放った。


「…だから、詠が元いた世界に、返すことも出来るよ」


 一瞬、思考が止まる。心臓が、ドクンと跳ねる。

「元いた、世界…?」

「うん、そう。ここは詠が住んでた世界とは違う。ボクは詠が現世の人間だって知ってたし、だからずっと見てた。それがボクの役目だから」

「…役目?」

「そうだよ」

 頭がうまく回らない。寧々ちゃんが言うことを、繰り返すことしか出来ない。彼女はそんな詠の前で、淡々と話し続ける。

「ボクはこの街から出られない。ここから全部の街を見張るのが、ボクに与えられた役目だから。詠のこともずっと見てた。第二街区に落ちてきて、時雨と一緒に一、三、四街区を旅してる間も。二人がここに向かってくるのが見えて、ボクは外に出た」

「…どうして?」

「詠と二人で、話がしたかったから」

 寧々ちゃんの左右違う色の眸が、今は不気味に光って見える。敵意は感じない。だけどその表情からは、真意は読み取れない。

「…ここに、ずっといたい?」

 その問いかけに、息を呑む。心臓が早鐘を打っている。この話がどこに繋がるのか分からない。だが寧々ちゃんはさっき「詠を元の世界に返せる」と言っていた。自分は…返して欲しくない。だから慎重に、ゆっくりと頷く。

 寧々ちゃんの口元に、初めて薄い笑みがうかんだ 。

「…ボクもここに居て欲しいなって、思った」

「…え?」

「時雨はたまにしかここに寄ってくれないから。詠が居てくれたら、話し相手が増える。独りぼっちじゃなくなる。つまんない毎日が、ちょっとだけ楽しみになるかもしれない。だから詠も、ずっとここに居てよ」

「…そうしていいなら、そうしたいよ」

 正直な言葉だった。それと同時に、強制的に返される…という展開は免れそうで安堵する。だけど寧々ちゃんは、小さく首を横に振った。

「・・今のままじゃ、ムリ」

「…どうして?」

「だって…」

 寧々ちゃんが眸を冷たくする。


「…詠はまだ、死んでないから。」


 時が止まったような気がした。発せられた言葉が、理解出来ない。脳が追いつかない。

「な…え…?」

「ここはね、現世…詠が元いた世界で死んじゃった人が、来世に転生するまで過ごす仮初めの世界なんだよ。本来は死者しか来られない。だけど詠は完全に命を落としたわけじゃない。まだ、生きてる。だからここにはずっと居られない。もうすぐ、戻らなくちゃいけない」

 頭がぐわんぐわんと揺れる。寧々ちゃんがゆっくりと、青い球体から遠ざかる。壁の本棚から一冊の本を引き抜いて、パラパラとページを捲っている。

「…滅多にないけど、たまにあるんだって。何百年に一度とか。詠みたいに、まだ生きてるのにここに迷い込んじゃう人。それを返すのも、本当はボクの役目」

 パッと、何かの一シーンが脳裏に浮かんだ。オフィスのような場所。険悪な顔で怒鳴る男、浴びせられる罵詈雑言、ヒソヒソ声で誰かが自分のことを噂している、美味しくないご飯、大雨の中ずぶ濡れで歩く自分、どこかの美しい夜景。

「…っ、」

 ズキン、と痛む頭を押さえる。思い出したくない、と脳が拒否している。瞼の裏に次々と浮かんでくる光景が不快で、目を閉じる。

「現世に返す時にはね、こっちの世界での記憶は消さなきゃいけない決まりなんだ。時雨との旅も、ルナや藍珠のことも全部全部、忘れちゃうよ」

「…嫌、そんなの絶対…私は…元の世界に帰りたくなんかないっ…!」

 やっと。やっと楽しいと思えたのに。嫌いだった音楽をまた好きになれたのに。

忘れるなんて無理だ。

(…忘れてしまったら、私は)

 膝が震え出す。呼吸が浅くなる。背後で寧々ちゃんがフッと嗤った気がした。

「…そう、なら。ボクが詠を、記憶を持ったまま現世に返してあげる。だから…」


 ドンッ

 背中に走る衝撃。そのまま体が前につんのめる。


「…っ!?」

 前のめりに身体が傾く。青い球体が目の前に迫っていた。ぶつかる…と目を瞑った次の瞬間、詠は何故か空中に投げ出されていて。

 さっきまでガラス張りだった床が、ない。


「×××××、×××××…して?」


 寧々ちゃんが囁いた言葉に、目を見張る。

 刹那。嫌な浮遊感が襲う。落ちている。青い球体が上の方に遠ざかっていく。

 誰かに突き落とされたのだと、突き落としたのが寧々ちゃんだと認識した時には、もう自由落下の最中で。

「…寧々っ!」

 寧々ちゃんの名前を呼ぶ誰かの声がする。時雨とは違う、少し高めで澄み切った冷水のような女の人の声。

 それを最後に、詠の意識は真っ暗な闇の中へと重く沈んでいった。

 

(…ああ、そうだった。私はこうやって。…死んだんだ。)

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