Tr.9 返し唄

 あの日。どうして、その行動をとってしまったのかは分からない。


 普通の一日だった。いつも通りだった。

 音楽を辞めた詠が入ったのは、ごく一般的な会社。朝から晩まで働いて、残業して。毎日上司に怒鳴られて、辞めていく人も多かった。電話の相手から罵詈雑言を並べられたり、取引先の企業の人に延々と頭を下げたり。それも日常の一部。

 大人って、こんな感じなんだ…と。社会人になって、詠は知った。

 子供の頃夢見ていた、「大人」なんて幻想だ。カッコよく働いて、沢山お金を稼いで、好きな物を買って、休日は楽しく友達と遊んで、いつか素敵な家族が出来て。

 みんな、そういう風になるんだと信じていた。そんな日常はどこにもなかった。

 勿論、そうやってキラキラした生活を楽しんでいる人もいる。居るからこそ、自分が惨めで仕方がない。

 友達の結婚の報告を素直に喜べなくなった。休日オシャレなカフェでランチしている誰かの写真を見る度、家で寂しくカップラーメンを啜る自分が悲しくなった。

 段々、ご飯が美味しくなくなった。ご飯を食べるのを億劫だと思った。

 学生時代に戻りたかった。子供に戻りたいと思った。

 同い年の人たちはみんな、忙しそうで。電話で誰かの声を聴きたくても、自分のことで煩わせるのもな…と気を遣ってかけられなかった。祖母には月に一度ずっと手紙を書き続けていたけど、いつも自分を心配してくれる祖母に泣き言なんて言えなかった。両親とはとっくに疎遠になっていて、自分に何かあってもあの人たちは無関係だと言うだろう。

 大事なものなんて、希望なんて、もう見つからなくて。

 …その日も雨が降っていた。

 深夜零時。終電ギリギリの電車で仕事から帰ってきたら、ベランダに干していた洗濯物がびしょ濡れになっていて。取り込もうとベランダに出た。雨が降る街並みは、綺麗だった。沢山の人が生活している光で、街は溢れかえっていた。夜景が、眩しかった。

 一番高い場所にある光に、手を伸ばした。何かに届きたかった。縋りたかった。

柵に足をかけて、そして。

 …本当に余裕がなくなった人間は、助けを求めることも出来ないんだ、と。

 気づいた時には、宙に浮いていた。


 詠は夜の闇の中に落ちていった。


◆◇◆



「……ん」


 ゆっくりと、視界が開けていく。

 瞼が重たい。まだ眠っていたい。

 だけど、少しずつ頭が覚醒してきた。目の前に広がっているのは、藍珠さんと見たような美しい星空で。しばらく仰向けに横たわったまま、空を眺めていた。目尻から涙がこぼれ落ちたのを感じた。全部全部、夢だったのかな…そう思った。

 時雨と旅したことも、ルナや藍珠さん、寧々ちゃんに出会ったことも。巡って歩いた色んな街も全部、自分が見た夢だったのだろうか。

「…大丈夫?起きられる?」

 夢じゃないと教えてくれたのは、視界に映ったその人の浮世離れした姿と声。銀白の長い髪、真っ黒なドレス、胸の真ん中に光る三日月のブローチ、雪のように真っ白な肌。

 そして時雨と同じ、青い眸。

 ゆっくりと上体を起こした。頭を押さえながら、辺りを見回す。

 そこは森に囲まれた、広場のような場所で。頭上には星空、座り込んでいる場所は大理石のような床、すぐ傍には大きな…白い神殿のような建物と、巨大なアーチがあった。時雨と立ち寄った城のアーチとは違って、白くて綺麗で、神聖なアーチだ。

 木々のざわめく音以外は何も聞こえない、静かな場所だった。

「ごめんね、咄嗟にここに連れて来ちゃって…」

 銀髪の女性は、申し訳なさそうに眉尻を下げる。その人に見覚えはないが、声はどこかで聴いたことがあるような気がした。記憶を辿って、ハッとする。

 思い出した。寧々ちゃんに突き落とされる寸前に、聞こえた声。

「…あの、ここ…」

「ここは第九街区の隣、第五街区。安心して、時雨にもここに居るって伝えてある。もうじき来ると思うから」

 街の名前、時雨の名前。それらがその人の口から出てきたことに、ホッとしている自分がいた。まだ時雨と同じ世界に居るのだと、実感できて。

 少し記憶を遡ってみる。第九街区に行って、寧々ちゃんに出会って、ターミナルと呼ばれる建物に入って、そして…。

 この世界のことを教えて貰って、突き落とされた。塔の最上階から。

「…ね、寧々ちゃんは…」

「寧々はいないわ。…本当にごめんなさい。私がちゃんと、見ていなかったばかりに」

「…どうして貴方が謝るんですか?」

「…寧々にあの役目を押しつけたのは私だから。でもまさか、寧々があんな行動に出るなんて…それに貴方には時雨がついてるから大丈夫だと思って、目を離してしまった。私の責任なの」

「…役目を押しつけた?時雨を、知っているんですか?」

 顔を上げた女性は、真っ直ぐに私の目を見つめる。

「…私は、ノワール。この世界の全ての塔を守っている…番人、みたいな感じかな」

 ノワール。

 その名前に聞き覚えはないが、一つ頭の中で繋がったことがあった。藍珠さんが話していた、あの塔の管理人のような立場の人。素敵な人なんだよ、と微笑んでいたのを思い出す。

 あれはきっと、ノワールのことだったのだ。

「…あの時、私、塔から…落ちて…」

「咄嗟に私が一緒に飛び込んだの。あの球体がね、色んな場所に繋げてくれるテレポートキーみたいな役割を果たしていて…私と寧々はあれを使って、一瞬で人を送ることが出来るんだけど…私がパッと思いついたのがここしかなくて」

 ノワールが困り眉で微笑む。

「指定した場所に一瞬で行けるの、便利だけど味気ないわよね…足で旅して、自分の目で色んなものを見たいっていう時雨の気持ち、よく分かる気がする…詠ちゃんも、そう思うでしょう?」

 曖昧に頷く。自分の名前を知っていることも、さして驚かなかった。ノワールには不思議なオーラがある。何でもお見通しだけど、干渉はせず、ただ温かく見守る。女神様のような人。

 この場所も、改めて見ると心地よくて、静かで、厳かな雰囲気。

 まるで。

「…天国、みたい」

「え?」

「この街は特に。天国みたい…本当に、そういう世界ってことでしょう?亡くなった人が、来る場所…」

「天国とは違うわ。確かに現世とも来世とも繋がっているけど…ずっとここに居る私にも、この世界を正確に説明するのは難しい」

「ずっと…?貴方はずっとここに居るの?…時雨も?」

「時雨は…私とは少し違うわ。でも、時雨と寧々はそうね…特殊ではあるかな。他の皆は、いずれ転生していく。ここで記憶にも区切りをつけて、次の生へと歩んでいく。…一冊の本を終えて、次の本へ」

「…本?」

「そう。人生は本のようでしょう?」

 風に靡く長い髪を耳にかけながら、ノワールが言う。

「…ルナや、藍珠さんは…みんなは、自分がもう生きていないことを知っているの?気づいていて、ここに住んでいるの?」

「知っている人もいれば、気づかずここに居る人もいるわ。それによって、いさかいが起こることもある」

 思い当たる節があった。藍珠さんと出会った時、森の中で言い争っていた男女を見て、時雨と藍珠さんが「よくあるもの」だと言っていたこと。あれは、もしかしたらそういうことだったのだろうか。

「ルナはまだ気づいてないわ。だけど、現世での約束を守ろうとあの街で待っている。来世でも一緒にいようって約束したお友達をね。藍珠は知っている。彼女がずっと大事に持っている本を見なかった?あれは、藍珠の娘さんの人生録なの」

「…人生録?」

「そう。塔の一面にびっしり並んだ、本を見たでしょう?あれは、全部誰かの人生録。開けばその人の人生全てが見える。現世に生きる誰かが、ここの世界で転生を待つ誰かが、どんな風に生きてきて、何を思って…今何をしているか」

 藍珠さんの塔で見た、夥しい量の本。分厚いものから、ほっそりしたものまで、色んな形状の本があったのを思い返す。

「…でもあの本、読めなかった。文字が分からなくて」

「うん。きっとそれで、時雨も確信したんだと思う。貴方がまだ、生きている人間だってこと」

「…え?」

「この世界の人なら、読めるはずだから」

 それを聞いて納得した。文字が読めない、と言ったときに一瞬狼狽えていた藍珠さんの表情の意味が。取り繕ったような、時雨の笑顔の意味が。

「時雨は多分、貴方のことを知りたくて第一街区の塔に寄ったんじゃないかしら。貴方の人生録を探すために」

「…私の人生録?」

「ええ。人生録には、貴方がどうやってこの世界に来たのか…貴方の過去が全部書いてある。その後ターミナルに寄ったのは、貴方が向こうの世界に戻る前に返す役目の寧々と話がしておきたかったからでしょうね…」

 それを聞いて、時雨の全ての言動が腑に落ちた。あの時白い城から持ち出してきた赤茶色の本は、詠の人生録だったのだ。「読めなくていい」と言ったのは、読める=詠が死んでしまった時になるから。

 この世界のことも、ここへ来るまでの経緯も全部ようやく分かった。

 分かったけれど。

 詠の中でどうしても、譲れない思いがある。

「…元の世界に、戻らなくちゃだめ?」

 真っ直ぐにノワールの眸を見つめれば、彼女は驚きと困惑の入り交じった表情を浮かべる。

「時雨みたいに、ここにずっと居ることは出来ない?私…戻りたくない」

「詠ちゃん…」

 ノワールが、視線を彷徨わせる。説得する言葉を、探しているように見えた。

「…ダメよ、貴方が戻らなかったら、向こうの貴方は永遠に眠ったままで…」

「それでもいい」

「…よくないよ」

 諭すように、静かな口調だった。怒るでもなく、必死に訴えるわけでもなく。ただ、その声音は酷く悲しげで。

「…どうして?」

 問いかけたのは、ノワールだった。明確に思い浮かぶ理由は特にない。ハッキリとした原因も、特にない。自嘲気味に笑って、俯く。

「…人に言えるような理由は、何もないの。大事な人が死んじゃったとか、酷い暴力を受けたとか、世界中の人から罵詈雑言を浴びせられたとか…そういうの、ない。もっと苦しい思いをして、それでも生きてる人が沢山いるって、分かってる。分かってるけど…」

 続く言葉は、声にならなかった。戻りたいと思えるほどの、理由もないのだ。苦しいものは苦しいのだ。

 死にたい訳じゃなかった。生きていたいと思えなかっただけ。

 またあんな風に、心を殺して生きる日常が返ってくると思うとぞっとする。大切なものも、大事な人も、やりたいことも何もないあの世界。

 折角ここで、大切なものを思い出せたのに。

 幸せだと、思えたのに。

「…幸せってね」

 躊躇いがちに、切り出されたその言葉で。詠は少し顔を上げる。

「幸せも、不幸も、誰かと比べられるものじゃない。だって、その人の人生はその人しか知らない。だけど、幸せも不幸もね、一生のうちでちゃんと同じ分量になるように出来ていると思うの」

「…同じ分量?」

「そう。訪れるタイミングが人によって違うだけ。受け入れる器の大きさが、人によって違うかもしれないけれど。道半ばで貴方が苦しいんだとしたら、その分これから幸せが沢山待ってる。幸と不幸の天秤は、一生を全うした人に対してちゃんと釣り合うように出来ている」

 ノワールの言葉は、ただ淡々と綴られた本のようで。理解はできるが、納得はしたくないと思った。

(…だって認めてしまったら、私は)

 その沈黙を、どう受け取ったのかは分からない。だが視線を上げた時、ノワールは温かく微笑んでいて。

「永遠に続く幸福はない。でも永遠に続く不幸もない。他の人と比べず、自分だけの幸せを探して歩いていれば…いつか必ず生きていてよかったと思える日が来るわ」

「…でも私はやっとここで、見つけられたのに…」

「大丈夫。あと数日はここに居られる。時雨とも、もう少し一緒に居られる」

「…ここでのことは、戻ったら全て忘れてしまうの?」

「…そうね、」

 ノワールが寂しそうに目を伏せる。

「でも、それでいいの。大切な記憶はね、命に刻まれていくんだよ。生まれ変わっても、どこの世界に行っても、その人の魂は変わらない。刻まれたものは、なくなるわけじゃない。鍵となる何かに触れた時、きっと思い出せる」

 そっと温かいものが触れた。ノワールの滑らかな手が、私の両手を包み込む。

「そうして、繋がっていくんだよ…人間の、生は。」

 ノワールの青い双眸は、どこまでも透き通っている。



「…っ、詠!」

 聞き覚えのある声。ハッと振り向く。徐々に近づいてくる、長身の白いマントのシルエット。まだ塔の前で別れてから数時間しか経っていないはずなのに、もう何年も時雨に会っていなかったような気がする。

 駆け寄ってきた時雨は、詠の傍らに膝をつく。

「ごめん…!本当に、ごめん…」

「…ううん、大丈夫」

 苦悶の表情で長く息を吐いた時雨が、隣に佇むノワールに視線を移した。

「…ノワール、あのさ」

「大丈夫よ、分かってる」 

 二人の間に会話はなかった。だけど目配せしあう互いの眼差しで、感じる。二人だけの空気感。長く連れ添った夫婦のように確かな信頼。

「…寧々がね、」

「分かってる。ここへ来る前に、寧々から聞いた。あの時もだけど、寧々は時々凄い行動に出る時があるから…君が間に合ってくれてよかった…」

「…そうね、私も後で寧々と話してくるわ」

「ありがとう、ノワール」

 ニッコリと頷いて、ノワールが立ち上がる。

「じゃあ、私はこの辺で。あ、今日はいつものところ、使って良いからね」

「ノワールはどうするんだ?」

「私は少しやることがあるから。またね、時雨、詠ちゃん」

「あ、ちょっと…!」

 踵を返して、立ち去ろうとするノワールを呼び止める。

「ん?どうかした?」

「あの、えっと…ありがとう」

「…時雨との旅路、最後まで楽しんでね」

 女神のように優しく、神々しく微笑んで、ノワールは森の中へと消えていった。黒いドレスの裾を揺らしながら。

「…詠、」

 名前を呼ばれて、振り返る。夜の闇を背にして、言葉を探す時雨の姿がそこにあった。何か言いたげに、口を開いたり閉じたりしている。

「…大丈夫、全部知ったの。…今日はもう疲れたから、明日また話そう?」

「…分かった。ついて来て、寝床はこっちだから」

 時雨が奥の建物を指す。大きな神殿…の横に、こじんまりした小屋があった。詠は小さく首肯して、その後に続く。


 その夜は、眠れないままずっと天井を眺めていた。頭の中でずっと、落ちる直前に寧々ちゃんが呟いた言葉と、ノワールの優しい声が反芻していた。

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