Tr.10 EDEN
綺麗な晴れた空だった。
昨日この街に来た時は夜だったから、よく見えなかったが。朝の光を浴びると、よりいっそうその神殿は神秘的で、神聖で、美しかった。
神殿の周りは廃墟のようになっていて。白い瓦礫が沢山こぼれ落ちている場所、窪んでいる地面、壊れかけたアーチもあった。
誰も住んでいないという点では、第九街区に似ていたけれど。その厳かで清らかな雰囲気は、似ても似つかず。ただ一つ不思議なことに、朝起きてもずっと月が頭上に輝いていた。ノワールの胸元に光っていた、ブローチのような三日月が。
先に起きた詠は、この街を探索して再び寝床の小屋に戻ってきた。この数日一緒に居て分かったが、時雨は朝起きるのが遅い。今日も今日とて、まだぐっすりと眠っている。
その寝顔を見て、決意した。
(…私は、やっぱり。)
「…なんか詠、吹っ切れた顔してるね?」
「…そう?」
藍珠さんが持たせてくれた食料が、まだ残っていて。澄み渡った青空の下、白い瓦礫の上に座りこんで、時雨と遅めの朝ご飯を食べている。
「昨日は混乱してたけど…でも、ノワールのお陰で落ち着いたし、あと数日しか時雨と一緒に居られないって思ったらメソメソしていられないなと思って」
「…詠は、僕が思ってたよりもよっぽど強かったんだね」
安堵したようにそう呟いて、時雨がおにぎりを一口頬張る。
「…どこまで聞いたの?寧々や、ノワールから」
「聞いたって言うか…思い出した。寧々ちゃんのお陰で。私が…」
その続きを言うのは、何となく憚られた。一度口を閉ざして、再度開こうとしたところで時雨に手で制止される。
「…言わなくて良い。読んで、知ってた。ごめん」
「…読んで?」
何のことかと思い巡らせ、気づく。ノワールが言っていた、人生録。時雨が第二街区の城から持ち出してきた、赤茶色の本。ごそごそと漁られた時雨の鞄から出てきたのは、詠が予想した通りの本だった。
「…これで詠がどうしてここに来たのか知った。あとどのくらいこの世界に居られるのか知りたくなってターミナルへ行ったんだ。…突然のお別れは、もうごめんだから」
含みのある言い方に、思わず時雨の顔を見つめる。憂いを帯びた表情。もうごめんだ、と言うからには、前にも誰か突然去ってしまった人がいたのだろうか。
確かに、前触れなくサヨナラするよりは。前もってサヨナラする日が分かっていた方が、残りの時間を大切に過ごそうと思える。今の詠と、時雨のように。
「…ねえ、お願いがあるんだけど」
「ん?何?」
「また、ルナと藍珠さんに会いに行きたい。第三街区と…第四街区?」
時雨が目を丸くする。予想外のお願いだったらしい。うーんと顎に手を当てて考え込み、虚空を見つめる。
「まあ…今日これから出て、夜ルナのとこに着いて…明日出発して、第九街区を突っ切っていけば間に合う…かな?いいよ、そうしようか」
「…!本当!ありがとう」
返る前にもう一度会いたかった、と言えば時雨も嬉しそうに目を細める。
「詠にとって二人との出会いが、大切なものになったのなら、良かった」
それから暫く、無言でおにぎりを頬張った。藍珠さんが作ってくれたそれは、冷めていても美味しくて、優しい味がした。
心地よい風が吹いている朝だった。
食べ終わって、そういえば藍珠さんから貰った紅茶がまだ残っていたのでは…と、ポットを見る。寧々ちゃんに分けてあげたので、カップ一杯程度しか残っていなかった。
「…あと他に残ってるのは、これだけかあ」
「うん?」
時雨に、箱の底に残った三枚のクッキーを見せる。寧々ちゃんが予想以上に気に入って沢山食べてしまったため、もうこれだけしかない。
「またどうせ藍珠のとこに行くんでしょ?作って貰えば良いよ」
時雨はそう言って笑いながら、一枚クッキーを手に取って口に放り込んだ。美味しい、と幸せそうにモグモグしている。
「ねえ、あの作りかけの曲」
「…うん?」
「あの楽譜、見せて欲しい」
ゴクン、とクッキーを呑み込みながら、時雨は合点がいったように頷いて鞄を探る。中から、森で一緒に作った曲の譜面が現れた。壊れ物を扱うように、大事に受け取る。
「…そういえば、文字は読めないのに楽譜は読めるんだね、私」
「ああ…まあそうだね?音楽はどんな場所でも、どんな世界でも共通ってことだよ」
心なしか嬉しそうに、時雨が言った。そこに並んだ音符の列、言葉。これだけは忘れたくないと思う。
「…あのね、私この曲の曲名決めたの」
「お、藍珠の所では候補がどれもしっくりこなくて、一度保留にしてたのに」
「さっき思いついたんだ。あのね…」
『あまりある残像』
その名を口に出してみる。これ以上ないくらいしっくりくる曲名だ。一瞬目を見開いた時雨の顔が綻ぶ。
「いいね…!凄くぴったりだ。…譜面にも書いておくね」
鞄に手を突っ込み中から碧い万年筆を取り出した時雨は、譜面の一番上に曲名を記す。遂に完成した譜面を、時雨の手から大切に受け取った。
「…これ、もらっちゃダメ?戻るときに、消えちゃうもの?」
問いかけると、時雨は苦く笑った。
「消えはしないよ。物は物だからね。だけど、記憶の方がなくなるからこの曲が何か、誰と作ったか…そういうのは、思い出せないと思う」
「そう…」
忘れてしまうのか。こんなにも大切な記憶でさえ。
悲しい。だがどうしようもないことなのだと、理解もしている。
「…私が持っててもいい?目に焼き付けておきたいんだ」
「…うん、それは構わないよ」
穏やかに笑う時雨。分かっていて諦めている目だった。どんなに焼き付けても、消えてしまうと知っていて。それでも詠の好きなようにさせてやろうと、決意した目。
箱の底に残ったクッキーを二枚とも取る。一枚は時雨に手渡して、二人で一緒に口に入れた。藍珠さんのクッキーは本当に美味しくて。
その甘さが失われない内に、立ち上がる。
「…ん?どうしたの?」
「飲み物、欲しいでしょ?紅茶がまだ残ってるんだけど、ここじゃ入れにくいからあそこの平らな地面のとこで入れてくる」
少し先の、瓦礫がない地面を指す。時雨は特に疑う様子もなく、「ああ、なるほどね」とクッキーの破片を平らげる。詠は足早に平らな地面の場所まで行く。時雨に背を向けて、身体で隠しながらカップに紅茶を注ぐ。
自分がこれからやることは、間違っているかもしれない。でももう決めたことだ。
(…これで、いいんだ。)
注いだカップを持って立ち上がり、時雨の元へ戻る。
「…はい、時雨の分」
「お、ありがと」
笑顔で受け取って、時雨はすぐにカップに口を付けた。詠はその光景を食い入るように見つめる。ゴクゴク、と時雨の喉に紅茶が流し込まれていく。詠にはその一秒が、数分のようにも感じられた。息を止めて、瞬きも忘れて、その瞬間を待つ。
「…え…?」
そして、予想通りの出来事が起こった。
カラーンと、時雨がプラスチックのカップを取り落とす。瞼がとろんと蕩けて、そのまま詠を捉える。ぐらりと身体が傾いて、時雨はその場に倒れ込んだ。
「…な、…んで…」
「…ごめん。ごめんね、時雨」
後ろ手に隠していた物を、横向きに倒れた時雨に見せる。もう半分しか開いていない時雨の眸に、衝撃の色が浮かんだ。
詠が手に掲げたのは、つい数日前に時雨が教えてくれた花。
『ああ・・それは、ミルテの花だよ。花びらを取って吸うと甘い蜜が出るのが特徴なんだけど…その蜜を吸うと一瞬で眠ってしまうんだ。だから蜜は舐めちゃダメだよ』
真っ白なその花を、一本だけ持ってきたその花の蜜を、詠は時雨の紅茶に混ぜたのだ。これからすることを、時雨に止められないように。
倒れた時雨が必死で眠気に抗いながら、詠の名前を呼ぶ。
「…よ…み…」
時雨の瞼が、重力に負けた。規則正しい寝息が零れる。
「…ごめんね」
お詫びの言葉と共に、花をそっと時雨の傍らに置いて。用意していた一枚の紙をその隣に並べ、風で飛ばないように石ころを乗せた。
それから楽譜を持って、スッと立ち上がる。月と反対方向に続く、森の奥を見据えた。
『ボクが詠を、記憶を残したまま返してあげる。そしたら…今度はちゃんと、ずっと居られるように、またここに来て?』
落ちる直前に、寧々ちゃんはそう言った。「ずっと居られるように、ここに来て。」その言葉の意味をずっと考えていたけれど。
分かった。自分が、元の世界に戻って何をすればいいのか。
どうすれば、ずっとここに居られるのか。
「…すぐ、戻るからね」
倒れた時雨を見下ろして。頭上の三日月を一度だけ仰いで。詠はその場を去った。
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