Tr.11 スノウ・クリスタル
雪の中を、走っている。
森の葉も、足に絡みつく雪も、全てが鬱陶しいと思った。
斜めに雪が降りつける。初めて詠に会った日の事を思い出した。第二街区の森の中で、色鮮やかな茜色の服が目に飛び込んできた日。
時雨が重くて深い眠りから覚めた時、そこにはもう誰も居なかった。
『すぐに戻ります。必ず』
その一言だけ書き添えられた手紙が、ミルテの花と一緒に置かれていた。
真っ先に向かったのは、寧々の所。息が出来なくなるほど急いで、走って、第九街区に戻った。ターミナル塔の最上階まで駆け上がって、辿り着いた先で、時雨は自分が間に合わなかったことを知った。
「…詠なら、もう返ったよ。ボクが、返した。そのまま、楽譜も持ったまま」
寧々が無表情に、時雨を見つめながら言う。
「…っ、記憶は?まさか記憶を持ったまま返したのか?」
「うん。だって詠がそう望んだから」
「どうしてっ…それじゃあ…詠はまた…!」
「自分で命を絶つかもね。…でも、それも詠が望んだことでしょ?ずっとここに居たいって。時雨と一緒に、旅がしたいって。そう言ってたから」
「…っ、寧々…!」
混乱と、苛立ちと、情けなさと。色んな感情が入り交じって、勢いのまま寧々の肩を掴んだ。驚いたように後ずさる寧々の双眸を、睨み付ける。
「…なんで、怒るの?突き落としたことは、悪かったなって思って謝ったよ。でも詠が自分から返りたいって言ったんだもん」
「…っ、そうだとしても…!」
「それに、時雨だって。時雨だって前に言ってた。また誰かと一緒に旅するのもいいなって」
予想外の寧々の反論に、目を見開く。ズキン、と古びた記憶の傷が痛む。
「また失うのは嫌だって、そう言ってたのに…どうして怒るの?…ボクが忘れちゃったから?何も覚えてないから?」
掴んでいた寧々の身体を、ゆっくり放した。寧々は少し傷ついたように、掴まれた肩をさする。
寧々には記憶がない。詠やルナのように、ここに来るまでの記憶だけが抜け落ちているのではなく。現世にいた頃すべての記憶がない。
そしてそうなった原因は、紛れもなく時雨にある。故に時雨には、寧々を責める資格がない。短い逡巡の後、黙って踵を返した。
背中を向けたその時、寧々がどんな表情をしていたのかは分からない。
ターミナルを出て、また足早に歩く。しとどに降り続く雨に打たれながら、考えを巡らせる。
詠を止めなければ。助けに行かなければ。そう思うのに、焦った思考では何もいい案が浮かばない。現世に返ってしまった詠を、こちらの世界に居る自分が救うことなど出来るのか。
ざあああ…と雨の音が少しずつ強まる。ザッピング音のように、時雨の思考を支配していく。
『また失うのは嫌だって言ってたのに、どうして怒るの?』
寧々の台詞が、胸を刺す。
『時雨。世界はね、いつだって理不尽で不平等だ。だけど、命と死だけは平等に与えられている。この世でたった二つだけの、平等なものだ。』
遠い昔。
雪降る森の中で、あの人が…セツナが言っていた言葉。もう顔も思い出せないほどに、記憶の中の景色は色褪せてしまっている。
時雨は、セツナから沢山の言葉を貰った。顔や声や笑い方、すべてを忘れてしまっても。貰った言葉だけは、時雨の記憶に染み込んで、浸透して、時雨を形作るものになった。一度染みついた思想は、剝がそうと思っても中々剝がれないものだと時雨は知っている。
傍らを歩くセツナの歩幅は、いつも大きかった。時雨はあの頃と、背格好も外見も何も変わらないのに。いつの間にか、セツナに合わせて歩いた一年が染みついて、時雨の足跡も間隔が広くなった。
「…っ、時雨…待って…時雨…!」
背後からの声に、ハッと意識を現実に戻す。振り返れば、息を切らせたノワールがそこに居て。雨降るこの場所でも、ノワールの髪や衣服は一切濡れていない。改めて彼女は特別な存在なんだと実感しながら、ずぶ濡れの時雨は俯く。
「…ごめん。詠のこと、ちゃんと見ていたつもりで何も分かってなかったみたいだ」
「それは私も同じよ。昨日話してもう大丈夫だって、勝手に思い込んでた…ごめんなさい」
「ノワールは悪くない。悪いのは僕だよ。」
「…どっちが悪いとか、話し合っていても仕方ないわ。これからのことを考えましょう。…時雨、詠ちゃんの人生録を持ってるわよね?」
問われて目を見開く。そうだった。鞄から詠の人生録を取り出す。ポタポタ…と雨雫が落ちて表紙が滲んだ。慌てて片手で傘を取り出せば、無言で受け取ったノワールが代わりに傘を頭上に広げる。
「ありがとう…ええと……詠は今……自室に居るみたいだ」
「眠っているみたいね。詠ちゃんがターミナルを通ってから、こちらの時間で六時間ほどしか経っていない。」
「…そう、だね」
「…向こうの世界では、三時間も経っていない計算よ。現世は今真夜中のはず。しばらく目は覚まさないと思うわ」
「ああそうか…そうだったね」
詠には話す機会が無かったが、現世とこちらの世界では時の流れ方が違う。詠と出逢ってから今日まで、こちらの世界では七日間経った計算だが。実際に現世で流れた時間はその二分の一。つまり、三日程度しか経っていない。
「詠ちゃん驚くでしょうね…説明しておいてあげればよかった…」
ポツリと零したノワールの言葉に、時雨は肯定も否定もしなかった。代わりに一つ深呼吸をする。雨音は不規則なリズムで、ずっと続いている。
「大丈夫よ…別れの準備が出来た時って、最期が凄く重たく感じられるから、今まで見えなかったものが見えるようになる。詠ちゃんもきっとそう。すぐにこちらに来ることはないと思うわ」
「…それは…いろんな人間を見てきたノワールの経験則?」
「いいえ?ただの、勘よ」
悪戯っぽく笑うノワールはいつも通りで。自分の中にあった焦燥感が、少しだけ薄まっていく。苦笑を零した時雨の袖を、ノワールがそっと引っ張る。
「さあ時雨、考えましょう?私たちに何が出来るか」
「…何が出来るか…」
『時雨の悪い癖だよ!考えすぎない!たまには直感を信じたほうがいい時もあるんだ!』
豪快に笑った、銀髪の吟遊詩人の面影がよぎる。
時雨を吟遊詩人にした、セツナの。
その時、頭の中でカチッとパズルのピースがはまった。眠れない夜の街で、あの人が去ったあの場所で、囁かれた言葉。
黒いシルクハットの、旅商人。
「…一つ、宛があるかもしれない」
時雨はノワールに、たった今思いついた案を伝える。驚きに目を見張ったノワールが少しの間無言で考え込む。
「…そうね、確かに彼なら…」
「行こう。第七街区…遺跡の街に。」
視線を交わして、頷く。パッと浮かんだ突拍子もない案だけど。
『たまには直感を信じたほうがいい時もあるんだ!』
信じてみよう。あの人の言葉を。
少し先を行くノワールの背中を見つめる。黒いドレスを纏った華奢な、だけど強い意志を感じられる頼もしい背中。
自分がずっと後ろを歩いていたあの人の背中は、もっと大きくて豪快だったなと思い出しながら。時雨はノワールと共に、第七街区を目指して歩き始めた。
詠を救う方法を、見つけ出すために。
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