Tr.5 あまりある残像

 第二街区の森から、第一街区の森に抜ける間。詠は時雨と色んな話をした。


 時間にすると半日くらいだったように思う。

 時雨はこれまでの旅の中で作った、沢山の曲の話をしてくれた。悲恋の歌、友情の歌、優しい愛の歌…時雨の音楽の中に、いろんな人たちの物語があった。幸福も、苦しみも、時雨が口ずさむ歌の中には魂が宿っている気がした。誰かの感情が、記憶が、そのまま歌になっている。

 それはまるで、宝箱のようで。

 音楽を聴くことすら拒んでいた詠は、いつの間にか薄れていた。時雨の音楽が、心の大部分を占めていた音楽へのわだかまりを浄化してくれたように。

 次々と出てくる宝石に、詠は胸をときめかせながら一時も退屈せず歩いた。

 

 ルナの街を出発したのがお昼頃で、第二街区の雪の森を出る頃にはもう日は完全に落ちていて。もっと歌を聞きたい、歩き続けたいと思ったけれど時雨は第一街区の森の入り口で足を止めた。

「今日はもう遅くなっちゃったから、ここに泊まろう」

 何もない、森の空き地でそう言われて戸惑う。辺りを見渡したが、泊まれるような小屋も建物も見当たらない。

「泊まるって…?」

「あ、テントがあるから。ちゃんと二人寝れるだけの広さはあるよ」

 時雨は手慣れた様子で鞄を下ろし、地面を凝視し始める。

「何してるの…?」

「火をおこしたいんだ。詠も木材集めるの、手伝って」

 その後時雨に指示されるまま火おこしを手伝い、テントを建てるのを手伝い、夕食の準備を手伝い…全て終わる頃には空腹は最高潮に達していて。火を囲みながら時雨と食べたご飯は、質素だったけれど素晴らしく美味しかった。空腹は最高の調味料、とは真理だったようだ。

「…時雨の鞄、魔法でできてるの?」

「え?魔法?」

 決して大きくないのに、何でも出てくる鞄。今度はカップを二つ取り出したのを見て、思わず尋ねる。時雨は「まさか」と笑いながら、たき火の上で沸かした珈琲の入りのやかんを手に取る。

「だって…どう考えてもテントとカップとやかんと鍋が入るようには見えないもん…」

「あはは、確かにね。まあ…中は秘密。でも魔法じゃないし、正真正銘全部ここに入ってたものだよ。何もない所から出したわけじゃない」

 腑に落ちない説明だったけれど、「ふうん」と諦めて頷く。「はい、珈琲。」と差し出されたカップには、湯気の立つ黒色の液体。一口啜れば、ちゃんと珈琲の味がした。

「どう?熱くない?」

「…珈琲、の味」

「いや、珈琲だって言ったじゃん」

「…この珈琲はどうやって作ったの?」

「え?普通に沸かしただけだよ」

 さも当然、という顔で時雨が珈琲を啜った。その途端、あちっと慌ててカップを遠ざける。

 思わずふっと笑い声が漏れる。

「猫舌なんだ」

「…そうだよ、なんで笑うのさ」

「完璧超人な時雨の弱点、見つけたから」

 同じ温度の珈琲は、詠にはとても丁度良くて。ミステリアスで何でもできる、そう思っていた時雨の意外な一面を見つけた詠は口の端を持ち上げる。

「まったく…僕は別に超人でも魔法使いでもないよ…」

 そうぼやきながら、時雨はしばらく入念に珈琲を冷まし続けていた。


 飲み終えて、火の後始末をして。片付けも終えた詠たちはテントで二人、寝転んで天井を見上げる。外で時折、梟のなく声や川のせせらぎ、木々のざわめきが聴こえてくる。

「…色んな音が、聴こえるものなんだね」

「ん?」

「ううん。自然の音がこんなに聴こえる場所、久しぶりだなって思って…」

 言ってから思う。恐らく今までも、ちゃんと音は鳴っていたのだ。心に余裕がなくて、気づかなかっただけで。時雨は詠の言葉に、ふっと笑い声を零す。

「無くなってみて、案外『必要なかったんだな』って気づくものはあるよね。結構僕たち人間は余計な物まみれだから。それが当たり前になると、何が余計で何が必要か分からなくなるんだ。…こういう何もない場所で、色々見つめ直すのも悪くないだろう?」

「うん。…私はこっちの方が好き」

 それから少し経つと、時雨は眠ってしまった。

 うっすら月明かりが透ける、テントの天井を見つめながら考える。この不可思議な世界に来て、三回目の夜。たった三日間しか居ないのに、詠はすっかりこの世界が好きになっていた。相変わらず、不明なことは多いが。

 そんなこと全て、どうでもいいと思えるほどに。 


◆◇◆


 テントの隙間から漏れる、朝の光で目が覚めた。


 眩い光が線になって、瞼の裏にちらついて。寝ぼけ眼をこすりながら、隣を見る。時雨はまだぐっすりと眠っていて、起きそうにない。

 音を立てないようにそっと、テントの外に出た。途端、穏やかな風に乗って胸いっぱいに緑の匂いが膨らんで。大きく息を吸いながら、空を仰ぐ。

 青々とした木々が、ざわめいている。風の音、葉が擦れる音、鳥の鳴き声、遠くで川の水音もする。今が何時なのかは分からないが、空は薄く透き通った水浅葱で。

 自然の中に、自分が溶け込む感覚。吸い込む息の一つが、愛おしくて。

 不意に、今のこの気持ちを書き残したい衝動に駆られた。頭の中にある言葉を一つ残らず書き表しておきたい。今目の前に見えている景色も、感情も、全部忘れたくない。

 何か書き記せるものを…と辺りを見回す。ペンも紙も持っていない。時雨の鞄から勝手に出すのは気が引けたので、落ちていた木の棒を拾った。土が見える地面の傍にしゃがんで、浮かんだ言葉をそのまま書いていく。ザザザっと、地面を削る音だけが響く。

 夢中になって書いた。

 音楽をやっていた頃は、毎日こうやって何か綴っていた。歌詞に残せる感情が何かあると思って、ひたすらに思いついたことをノートに書き貯めていた。辞めてからは、仕事以外で文字を書く事なんて殆どなかったけれど。

 あのノートたちはどこにやったんだろう。捨てようとして、捨てられなかった。今も詠の部屋のどこかに、潜んでいるはずだ。

 書いていて感じる。自分は、言葉を書くのが好きなのだ。あの時は、誰かに認められるものを書こうと必死になっていて気づかなかったけれど。

 例え認められなくとも、誰にも聴かれなくとも。

 詠は言葉を紡ぐのが好きだった。

(…音楽にするのが好きだったんだ)


「…詠?」

 ハッと書く手を止めたのは、背後からそっと自分の名前が呼ばれた時。その頃には、地面いっぱいに言葉の欠片が刻まれていて。いつ起きてきたのか、時雨が驚いた表情で詠と言葉たちを見下ろしていた。

「あ…これは…その…」

 勢いで書いていたポエムのような文章を、時雨に見られるのは恥ずかしい。自分でもどんなことを書いたか覚えていない。慌てて足で消そうと近場の文字を踏もうとして時雨に制止される。

「いや、待って!消さないで!…これ、詠が書いたの?」

「う、うん…なんか、この森の朝が気持ちよかったから…書き残しておきたいなって、思ったっていうか…で、でも大したこと書けてないし、だからどうしようって訳でもないし…」

 顔が火照っている。時雨の目を見れない。

 時雨の書く歌詞は、どれも凄く文学的で素敵だ。文才のある人に自分の書いた文章を読まれることほど、恥ずかしいものはない。

 やっぱり消そう、そう思って時雨の手を解こうとした時。

「…♪朝露~、木漏れ日を浴びて~…」

 小声で時雨が口ずさんだのは、詠が地面に書いた言葉の欠片の一つ。

「…♪戸惑う胸の~内まで…いや、ここ『惑う』の方が語感いいな…変えてもいい?」

「え、う、うん…全然いいけど…」

 キョロキョロと辺りを見回した時雨が、木の棒を拝借して「戸惑う」の「戸」を消す。その周囲に散らばっている単語達にも視線をやり、「お、これいいね」などと独り言を呟きながらピックアップしていく。

「ねえ、詠が一番気に入ってるフレーズはどれ?」

「え…うーんと…これ、とか?」

 少し悩んで指したのは、『私にはあまりある日々だから』という一フレーズ。パッと思いついた一言だったが、今の私をとても的確に表している気がして。「どれどれ…」と時雨が目を細めてその文字を覗き込む。

「へー!いいじゃない。このフレーズ入れよう、サビとか大事な部分に」

「…や、やっぱり私の書いた言葉で曲作ろうとしてる?」

「うん。まあ、楽器が手元にないからメロディーと歌詞だけになっちゃうけどね」

 よくこういう風に作ってるんだよ、と屈託なく笑って。時雨はまた、詠が書き殴った言葉の山を探索していく。

「おっ…これもいいな。…この単語も入れたいね」

「それは入れなくて良いよ…普通だもん」

「ええ~?じゃあこのフレーズにする…?」


 そうして詠と時雨は昼までずっと、言葉を拾い集めて、メロディーを口ずさんで過ごした。時雨は普段こんな風に作曲をしているのか、と感慨深く思いながら、詠もいろんな案を出す。ああでもない、こうでもないと言いながら試行錯誤するその時間が、たまらなく幸せだった。

 音楽を楽しいものだと、その時久しぶりに思った。

 ひとまず纏まった歌詞案を、時雨が五線譜に書き記していく。そこに綴られた言葉は、何だか自分の中から生まれたものじゃないみたいに綺麗で。

「…時雨は言葉を選ぶのが上手だよね」

「そう?…詠だって上手じゃない……これ全部詠の言葉だよ」

「私は…思いついたことを書いただけで…」

 口ごもると、時雨はちらっと詠を見て書き写す手を止めた。

「…昨日、森を歩いてる時。僕に『どうして音楽を作ってるのか』って聞いたよね?」

「え…うん」

 戸惑いながら頷くと、時雨は書きかけの楽譜から深い森の奥へと視線を移す。

「…言葉は贈り物なんだ。守り石みたいにずっと誰かの大切な支えになるかもしれないものなんだよ。僕は願わくばそれを、音楽と共に残したい。歌は唯一、『言葉のある音楽』だからね。それを作って、語り繋いでいくのが吟遊詩人である僕の役目なんだよ」

「…吟遊詩人…」

 言葉を、音楽を、語り継いでゆく者。

「…いいなあ…」

「え?」

「私も、時雨みたいになりたい…」

 心の声が零れる。書きかけの楽譜には、詠から生まれて、時雨が選んで整えてくれた言葉の数々が綴られている。ここに居れば、もっと書きたいものを見つけられる気がする。

 時雨と一緒に旅をして、音楽を紡ぎながら生きられたらどんなに幸せだろう。

 詠の胸に淡く芽生えた、ささやかな願い。

 甘やかな希望に夢中だった詠は、時雨の顔が微かに曇ったことに気づかなかった。


 結局、完成した歌詞とメロディーは時雨が五線譜に全て書き写してくれたのだが。 曲名は決められず、一旦保留にすることになった。

「これだけでも曲としては成立するけど…これから行く場所にピアノがあるから。そこで伴奏を付けよう。そしたらもっと良い曲になる」

 詠と時雨の初めての合作が記された楽譜を、大切そうに鞄にしまいながら時雨が言う。よっ、とその鞄を肩に担いで、忘れ物がないか見回す時雨に私は尋ねた。

「この後は、どこに行くの?」

 すると時雨は意味ありげな視線を詠に向け、ふっと笑う。


「…明けない夜の街だよ」


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