Tr.4 ハーメルンの夢拐い

「本当に明日行っちゃうの…?」


 何度されたか分からない質問に、時雨は困り顔で応じる。

「ごめんよ、ルナ。だけど今回は三日もいたじゃないか」

「三日しか、でしょ!もう…今日は一緒にカフェに行けたから、明日はまた一緒に買い物に付き合ってもらいたかったのに…」

「あー…ルナの買い物は長いからちょっとそれは…」

「もう、時雨のいじわる」

 フン、とそっぽ向いたルナ。機嫌を取ろうと、時雨が苦笑いで弁明している。その光景を眺めながら、こことも今日でサヨナラか…とルナの家を改めて見回した。青と水色が基調の、可愛らしいリビング。レースのカーテンからは光が零れ、壁の棚には青いバラの花が一輪飾られていて。ダイヤモンドが描かれた壁の絵、鈴蘭がモチーフの照明、食器も全て青で取り揃えられた、ザ・女の子の部屋。


 今日は午前中ルナの家の掃除を手伝った後、午後はまた市場へ出かけて。三人で食べ歩きをしたり、小物屋巡りをした。途中立ち寄った灯台のような建物で、時雨は少しの間だけ別行動をする、と中へ消えた。ルナにその灯台について尋ねると『んー、前に中に入ろうとしたけど鍵がかかってて駄目だったの』と釈然としない答えが返ってきて。

 では時雨は、あの灯台の鍵を持っていたということだろうか。

 結局十分ほどで時雨は戻って来た。気にはなるものの、合流した時雨に変わった様子はなく。取り留めもないことだしな…と何も聞けずに終わった。出逢ってから三日経った今でも、時雨は掴みどころのないミステリアスな印象のままで。穏やかで話しやすい雰囲気に時折混ざる、影。そこを突けるほど、詠は人付き合いに積極的ではなかった。

 夕方からはやはり、あの広場で時雨とルナが演奏することになって。昨日の前評判があったからか、さらに多くの人達が広場に集まった。皆で音楽を楽しむその光景を、詠はまた少し離れた場所から見守る。ルナも時雨も演奏に夢中になっている間に、一人ぼんやりと考えを巡らせながら。

 この街では誰も、仕事したり学校に通っている気配がない。皆が時間帯を問わず好きなことをして、楽しく賑やかに生きている。食べたいものを食べて、見たいものを見て、したいことをして。だけど何故か、暮らしに困っている様子の人はいない。

 詠の世界は、そんな場所ではなかった。皆、生きるのに必死だった。したくもない仕事をする為に、毎日早起きして。生活するだけでお金が減っていく。やりたいことがあっても、日々追われてそれどころではない。色んな物を皆、諦めて、妥協して生きていた。

(…ここでなら私は、また楽しく音楽を出来るかな)

 祖母の前で歌っていた、子供の頃のように。わだかまりなく、ルナや時雨と人前で歌って、演奏して、音楽を。

 大丈夫。この世界の人は、時雨の音楽しか知らない。優しくて、温かくて、音楽に対して無知で寛大な人ばかりだ。誰も詠の歌を否定したりしない。きっとそうだ。

 何度も言い聞かせて、二人の元へ行こうとした。だけど、足は動かなかった。脳裏にこびり付いた失敗の景色が、音楽を辞めた日の出来事が、私を縛り付けている。 

 今日もただ、楽し気な二人を遠巻きに見つめるだけで終わった。

 いつから自分はこんなにも、音楽を怖いと思うようになったんだろう。


「…詠、ねえ詠!」

 ハッと顔を上げる。ルナがテーブルの向こう側からこちらを覗き込んでいた。物思いに耽る間に、ルナの怒りはいつの間にか収まったらしい。

「詠も時雨と一緒に行っちゃうの?」

「…え?」

「ここに残っちゃダメ?私と一緒にここに住むんじゃだめ?」

 見つめる眸に宿る、切実な光。

 一瞬だけ、想像してみる。ここでルナと一緒に暮らす自分。

 楽しいだろうなと思った。毎日お気に入りのカフェに連れて行ってもらって、ルナの鼻歌を聴きながら家事をして。夕陽に照らされる海を見て、夜はルナとベッドで色んな話をしながら眠る。

 そうやって過ごしたらいつか、詠もルナみたいに明るく楽しく、音楽が出来るようになるのかもしれない。

 でも。詠はチラリと視線を移す。食器を洗う、青髪の旅人の姿に。過ごした時間はルナと大差ないのに、時雨という人物の存在は何故か心の多くを占めていて。

「…ごめん、私は時雨と一緒に行く」

「…そっか、そうだよね!知ってた。困らせてごめんね」

 ほんの一瞬、物凄く寂しそうに顔を歪めたルナだったが。すぐに元通りの、キラキラした笑顔に戻る。青い花柄のティーカップを両手で握りしめて、口元へと運ぶルナへ詠はふと逆の質問をしてみた。

「ルナが一緒に来るっていうのは、ダメなの?」 

 ルナの動きがピタリと止まる。食器を洗っていた時雨が、チラッとこちらに視線を注いだのが分かった。珍しくルナが答えに詰まる。

「…ごめんね、それは出来ないの。約束が、あるんだ」

 クシャッと笑ったルナの眸は、何かを懐かしむような優しい光を帯びていて。

「…不思議な話なんだけどね。ほら…ここに来るまでの記憶はないって、話したでしょう?なのに…一つだけ覚えている約束があるの。夕暮れの海辺でね、誰かが私に『必ず迎えに行くから待ってて』って…そう言ってくれたんだ。」

「…待ってて?」

「そう。顔や名前は思い出せないんだけど…そう言ってくれた声だけ、ちゃんと覚えてる。根拠はないけど、何となくここに居たらその人が迎えに来てくれる気がして…だから私、ここで待ってるの。その人が来てくれるのを、ずっと」

「…そっか」

「一緒に行けなくて、ごめんね?」

「ううん、いいの」

 詳しいことは分からないけれど、それが本当に大切な約束なんだと分かったから。それ以上何も聞かずに、詠は頷いた。

「また二人でここに来てよ!その時はいつでも泊めてあげる。あと時雨、早くルナの曲も作ってよ~!」

「…ルナの曲?」

 小首を傾げれば、ルナがそう!と勢いよく立ち上がる。

「ルナのことも音楽にしてって何度も頼んでるのにね、一向に作ってくれないんだよ…!時雨ったら!」

「ええ…そうなの?作ってあげたらいいのに…」

 後半は時雨の背中に向けて苦言を呈する。水を止めて振り向いた時雨はニヤッと口の端を上げた。

「…実はもう出来てるんだなあ、これが」

「「え!?」」

 詠とルナの驚いた声が同時に響く。顔を見合わせる詠たちを横目に、時雨は濡れた手を拭いて床に置いた鞄から紙の束を取り出した。

 空色の表紙がついた、綺麗な装丁の楽譜。

「これ、渡すためにこの街に立ち寄ったんだ。…色々あって忘れてたんだけど…」

「もー!そんな大事なこと忘れないでよっ!」

 はい、と渡された楽譜を、プンプンしながら受け取るルナ。パッと開いて楽譜を眺めるルナの目が、少しずつ輝いていく。

「わあ…これ、私の曲だ…」

「だからそう言ってるじゃない」

 そこにどんな言葉や音符が描かれていたのか、詠には見えなかったけど。一通り目を通したルナは、ここに来た時と同じように思い切り時雨に飛びついた。

「うわっ!…ルナ、危ないって…」

「ありがとう!時雨!大切にするね!」

 苦しい、と言いながらも微笑む時雨。たった一つの音楽でこんなにもルナのことを幸せに出来る時雨が羨ましくて。ざわつく胸元をギュッと掴んだ。


◆◇◆


 翌日。


 相も変わらず綺麗な青空の下、最後までニコニコと大きく手を振るルナに見送られながら詠と時雨は第三街区を去った。

「次に二人がこの街に来た時は、詠も含めて三人でこの曲演奏しようね!」

 約束、と指切りをした温もりを、詠はきっと忘れないだろうと思う。



「みんな、凄く寂しそうだったね」

 第二街区の森に続く、二七二段の階段を昇りきって。再び、最初に出会った雪の森を歩きながら言う。賑やかな第三街区に三日間いたのもあり、何の音も聴こえない森の中は物寂しい。

「はは、また少ししたら来ると思うけどね」

「時雨の音楽は凄いね。あんなに沢山の人たちに求められて」

「ただ音楽を作る人間が珍しいだけさ。あとは外の世界の話、皆聞きたいだけ」

 少し違う気がする。時雨の音楽には、邪念がない。認められたいとか、沢山の人に聴いて欲しいとか、そういう欲がない。だからこそ人の心に届いて、もっと聞きたいと思わせられるのではないか。

 言葉を選びながらそう伝えると、時雨は嬉しそうに顔を綻ばせる。

「そうだといいね…僕にとって曲を作ることは、息をするのと何ら変わりない。ただ、残したいだけなんだ。音楽という形で、誰かの思いを…物語を」

「…聞いて良いことか、分からないんだけど」

 本格的に森の中へと戻りつつある詠たちは、雪に足を埋もれさせながら歩く。先を行く時雨の真新しい足跡を眺め、躊躇いがちに尋ねた。

「時雨はどうして旅をしてるの?いつから、何のために音楽を作ってるの?」

 一瞬、時雨の肩がピクリと揺れる。

「…んー?好きだから、かな」

 ひとつまみの間をおいて返ってきたのは、至ってシンプルな答えで。深刻な声色で問いかけた詠は少々面食らって足を止めた。サク、と雪を踏む足音が一人分減る。

 少し先で振り返った時雨が、不思議そうに首を傾げる。

「…あれ、僕何か変なこと言った?」

「ううん…でも、もっと重要な理由があるのかと思ってたから…」

「あはは、ないよ。言ったでしょ?音楽は僕にとって、あって当たり前なもの。作るのに一々理由なんて要らないんだ。その土地で出会った人の思いや、人生を音楽に表すだけ。そうしたいから、そうするだけ」

「…いいね」

 自分にはできなかったことだ。音楽が好きだったはずなのに、邪念に負けた。有名になりたい、もっと上手くなりたい、もっと聴いて欲しい。そういう欲に負けて、純粋に音楽を作れなくなった。歌えなくなった。

「…僕も聞いて良いのか分からないし、答えたくなかったらいいんだけど」

 含みのある前置きに顔を上げれば、真剣な時雨の視線とぶつかる。

「…詠が音楽を辞めたきっかけは、何だったの?具体的な理由、聞いてなかったなと思って。ルナと僕が歌ってる時も、なんていうか…見てたよね、苦しそうに」

 気づかれていた。詠が内心複雑な思いで、二人を見ていたこと。

 音楽を辞める引き金になった出来事は、ハッキリと覚えている。三日前の出逢ったばかりの時は話せなかったが、今なら話してもいいか…と半ば諦めて口を開く。

「…下らない、理由なんだ。…全てを懸けて、作った曲があったの。凄く大きなコンテストの為に作った曲。過去最高の出来で、珍しく自信もあって。優勝できなかったとしても、良いところまで行ける。審査員の誰かにはきっと届く。そう信じてた」

 夢と期待と未来を背負って、過去一番大きな舞台にスポットライトを浴びて立ったあの瞬間を、生涯忘れない。足が竦んで、人の視線が怖くて、緊張で心臓が張り裂けそうで。怖くて、怖くて、頭が真っ白になるあの感覚。

「大切に紡いだ歌詞だったのに、殆ど飛んじゃって。咄嗟に適当な言葉を繋いで、何とか最後まで歌ったんだけど…途中から声も震えるし、音程も外れるし、もうどうしようもなくって…」

 音が消え、会場に訪れた沈黙。パラパラと沸く気のない拍手、こいつはダメだな…という視線や、会場中に重く広がる落胆の空気。審査員の人たちは、詠を見てすらいなかった。ヒソヒソ他の審査員と話したり、手元の紙を弄ったり。詠は興味の対象にすらならなかったらしい。

 お辞儀をして、震える足で舞台を去った。スタッフにも他の出場者にも、『お疲れ様』すら言われない。詠の存在なんて始めから無かったみたいに。結果発表までそこに居る勇気など毛頭ない。楽屋の荷物を纏めて、裏口から逃げだした。

 涙も出ないほど、空っぽの心を抱えて。

「…その時優勝した人、私の一つ前の人だったんだけどね。音楽始めて三ヶ月しか経ってないのに、誰が見ても最高の曲とパフォーマンスだった。会場中がスタンディングオベーションで…その時、なんかもう無理なんだなって、悟ったの」

 長く続ければいつか報われる。努力していれば叶う。そう信じていた。神様はちゃんといて、頑張った人に微笑んでくれるのだと。

 幻想だ。世界はそんなに優しくない。

「神様なんていない。どうせ叶わないんだから、やるだけ無駄、音楽なんて。そう思ったから、辞めた…それだけ」

 要するに逃げたのだと、まとめられたら否定はしない。世の中には決して埋まらない差があるのだと思い知った。才能というものの非情さを。知った上でそれ以上頑張ることは、詠には出来なかった。

 失望されたかもしれない。恐ろしくて暫く、顔を上げられなかった。だがいつになっても時雨から言葉は返ってこず、ゆっくりと視線を上げる。

 時雨は詠を見ていなかった。地面に降り積る雪の白を見つめて、どこかぼんやりと物思いに耽っているみたいだった。

「…時雨?」

 ハッと、時雨の目が見開かれる。

「ああ…ごめん、詠の話を聞いてなかったわけじゃないんだ。ちょっと覚えのある話だったからさ」

「覚えのある話?」

 うん、と頷く時雨の表情が、微かに曇っている。初めて見る悲しげな表情。

「…才能は残酷だ。神様はきっといない。いたらこんな不平等な世の中を作ったりしないはずだよね。僕らはいつも、不平等に苦しめられる」

「…時雨でも、そういうこと思うんだね」

「まあね。でも今はそんなことないよ。ここでは、音楽は優劣じゃない。結局芸術は、好きな物を好きな時に、好きなようにやるのが一番だって今は思ってる」

「…どうしてそう思えるようになったの?」

 微かに時雨の眸が濁った。どこか遠くに、大事な記憶を見ているように。

「…昔、すごく昔に教えてくれた人が居たんだ。音楽は自由で、楽しいものだって」

「…その人は今何してるの?」

「さあね。まあ、だから詠もきっと…出来るよ。もうすぐ」

 祈るようにそう言って、時雨はふっと笑う。今まで見た中で一番優しい微笑みに、内心ドキッとしたけれど。その笑顔が、その人に関する質問の続きを拒否しているように思えたのだ。

 サク、サクとまた雪を踏みしめ歩き出す時雨。その後ろ姿は今までよりも、どこか親しみやすく、近く見えて。

「…時雨、」

 名前を呼ぶ。「ん?」と振り返った時雨に。

「…私のためにも、いつか。曲を書いてくれる?」

 自然と出てきた言葉だった。自分でも驚く。再び歌うつもりなんて、音楽に触れるつもりなんて無かったはずだ。

 ひとつまみの間の後、時雨は微笑む。闇に沈んでいるのに暗くない、白夜のような笑みだ。


「…その時、詠が歌ってくれるのなら。」

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