Tr.3 Desire Designer -ディザイアーデザイナー-

 

 第三街区、と時雨が呼ぶそこは、小さな港町で。


 カモメが悠々と飛ぶ青空の下、詠は森から街に続く二七二段もある階段(ちゃんと数えた)を必死に降りた。時雨は「旅をしている」と語るだけあって、長い階段も涼しい顔で降りていたけれど。普段あまり運動してこなかった詠には地獄のようで、降りて街に着いた頃にはクタクタになっていた。

 街に入って五分ほど歩くと、人通りの多い細道に入った。道の左右に露店が並んでいて、食べ物や小物、絨毯や家具まで様々なものが売っている。行き交う人々は、カラフルな洋装。皆ニコニコと笑いながら、買い物を楽しんでいるように見える。

「…今日ってなにかイベントがやってるの?」

「いや?この街は毎日こんな感じだよ。市場には人が賑わってて、港には毎日船が来て」

「…なんだかみんな楽しそうだね」

「そう?確かにここは、他の街と比べても賑やかだけどね…あとは、一年中天気がよくて明るいのもこの街の特徴かな?」

「一年中?じゃあ雨は降らないの?さっきの雪は…?」

「雪は当然、降らないよ。雪が降るのは第二街区の森と…ああ、たまに第五街区も降るかな?」

「…?」

 よく分からない。街によって気候が違うということだろうか。同じ空で繋がった世界なのに?眉根を寄せた詠を見て、時雨はふっと笑った。

「そうだから、そうなんだよ」


◆◇◆


 街の中心部らしき、噴水のある大きな広場に辿り着いた。時雨が買ってきてくれた甘いジュースは、ブルーの見た目に反して爽やかな柑橘系の味がした。ベンチに座って、青空を仰いで。時雨はその間、待ち行く人たちをのんびり眺めていた。

「…さて、どうしようかな」

「…?」

 体力も少し回復した頃。時雨から発せられた一言に詠は問いかけの視線を送る。

「今日泊まるところだよ」

「…ホテルとか、ないの?」

「ないね、そんなの。みんなこの街から出ないし、僕みたいな旅人のためだけに宿なんて用意できないよ」

「だって船が来てるじゃない。船で来た人たちはどこに泊まるの?」

「あの船は…輸送用?っていうのかな。とにかく、観光船じゃないからあの船で来た人たちが泊まる場所に困ることはないんだよ。船の操縦士は船に泊まるし」

 腑に落ちないことは多いが、「ふうん」と頷くしかない。段々この不可思議な状況にも慣れてきて、許容範囲が随分広くなったような気がする。

「まあ…しょーがないな。やっぱり泊めてもらうしかないかあ」

 頭をポリポリ掻きながら、時雨が気まずそうに呟く。誰か知り合いの家に泊めてもらうつもりなのだろうか。初対面の人が苦手な詠には、あまり嬉しくない展開だが。こんな知らない街で、野宿になるよりはマシだと自分に言い聞かせる。

「よし、じゃあ行こうか」

 立ち上がった時雨の顔に、少し影が出来ていた。陽が傾いて、茜色の光が街を満たしていく。 



 広場から十分ほど歩いたところに、一軒だけポツンと建つ家があった。他の家と同じく白い外壁で、三角の形をしている。

「この街の家は、みんなこの形だね」

「あー…言われてみればそうだね?気にしたことなかったけど」

 時雨は首を傾げながら、その家の玄関のインターホンらしきボタンを押す。数秒の間があって、ガチャ、と小さくドアが開いた。

 隙間から覗いたのは、空色の眸。

 次の瞬間、バーン!と勢いよくドアが開く。

「わー!時雨だー!」

「ルナ…!ちょ、落ち着いて…!」

 時雨に猛烈な勢いでハグをしたその子は、鮮やかな水色のフリフリドレスを着た十四、五歳くらいの可愛い女の子だった。ウェーブがかった金髪がふわふわと揺れる。頭と胸元にあしらわれた大きなリボンも相まって、ドールハウスに住むお人形さんのようだと思った。抱き着かれた時雨は困り顔でよしよし、と頭を撫でる。世話の焼ける妹と、お兄ちゃん。そんな仲睦まじい雰囲気だ。

「ルナ…ルーナ!…ほら離れて…」

「だって…!全然来てくれないんだもん…また来るねって言ってからどれだけ経ったと思ってるの!?」

「ごめんごめん…色々他の街回ってたら、中々ここに戻ってこられなくて…」

「もー…あれ?その子は…?」

 ようやく彼女の視界に、詠が認識されたらしい。時雨のマントを羽織ったまま、気まずさを隠すように軽く会釈する。

「ああ…僕の連れだよ」

「え!?時雨が連れ!?そんなことあるんだ…羨ましい…!お姉さん、名前は?」

「えっと…詠、です…」

「詠!よろしくね!あ、今日はルナの家に泊まるってことでしょ?二人とも入って入って!ちょうど夜ご飯の支度できたところなの!今日の夜はクリームシチューなんだ!」

 初対面にも関わらず、彼女はとてもフレンドリーだった。屈託なく笑うその顔に、悪意は微塵もなく。羨ましい、と言いながら快く迎え入れてくれるその少女に、少しだけ緊張の糸を解く。

 お邪魔します、と言いながらスタスタ彼女の家に入っていく時雨。靴は脱がなくて良いんだな…とその後ろ姿に学びつつ、恐々と身を縮ませながら扉をくぐる。

「あっ、言い忘れてた!私はルナ!よろしくね!」

 後ろ手にドアを閉めながら、ルナがニッコリと笑って手を差し出す。キラキラと輝く空色の眸が、笑う度に揺れる金色の髪が、詠には少し眩しかった。



「…それでね、お肉屋さんのおじちゃんがこのお肉オマケにつけてくれて…」

「へえ、相変わらずあの人は気前がいいね。」

「うん!いつも何かオマケでくれるよ!それとこの野菜は…あれ、どうしたの?」

 二人の視線が注がれて、詠はうっと身を竦ませる。目の前の可愛いテーブルには、ホワイトシチューとパン。一口食べた詠が目を見開いたのを見て、ルナが不思議そうに首を傾げる。

「…いや、あの…」

「ん?どうしたの?」

「味…するんだなって…」

 ここは明らかに自分が住んでいたのと全く違う場所だ。見たことのない街、見たことのない衣服の住人。この状況を夢だと言い聞かせることで、自分を納得させていたのだが。

 ルナが用意してくれたシチューはまろやかで美味しかった。夢の中でも食べ物の味がするものなのか…と少し違和感を覚えてしまったのだ。

 正直な詠の感想に、ルナと時雨は顔を見合わせて笑い出す。

「そりゃあ味するよ!当たり前じゃん!詠って面白いね!」

 ケラケラ笑うルナ。詠は慌てて「美味しいって意味で…!」と付け加える。よく考えれば作ってくれた人に対して、物凄く失礼な発言だ。ルナは気を悪くした様子もなく、ひとしきり笑い終えてまたシチューを一口啜る。

 三人で囲む食卓は楽しかったけれど。食べ終わって温かいお茶を飲みながら、ルナのマシンガンのようなトークを聞いていたら、強烈な眠気に襲われた。

 食べ物の味がちゃんとわかる夢。眠気が感じられる夢。どちらも初めてだ。もし今眠ったら次に目が覚めた時、自分はあの雑然とした都会に居るんだろうか。ここへ来た経緯が思い出せないのは、これが夢だからという。

 その仮定は正しいんだろうか。

 曖昧な思考の中で、ふわふわの布団に包まれたことと、視界の隙間に見えた二人の優しい眼差しだけが残っている。


◆◇◆


「わあ…海だ…」


 翌日。時雨の言っていた通り、今日も綺麗な晴れの空で。

 昨日と変わらないエメラルドグリーンの海辺に三人で立ち寄れば、あまりの美しさに思わず溜息が零れる。

 結局目を覚ましても、一面青基調の可愛らしい部屋のソファの上で。促されるまま三人で朝食をとって、片づけをして。ルナが買い物に行きたいというので家を出た。

 もしかするとこれは夢じゃないのかもしれない。こんな長い夢は見たことがないし、景色も登場する人たちも凄くリアルだ。だが現実だとするなら、「ここはどこなのか」「どうやって来たのか」という振り出しの疑問に戻る。

 一度考えるのを放棄した詠は、流れに身を任せることにした。

「海が珍しいなんて、詠はじゃあ二か、七か、八か、九街区から来たの?」

 海風に吹かれた髪を整えながら、ルナが首を傾げる。質問の意味が分からず、困って時雨に視線をやった。時雨は小さく笑んで、傍に落ちていた木の棒を持つ。

「まだ詠に他の街の説明をしてなかったね。えーと…ちょっと、待ってね…」

 キョトンとした眸で詠たちを交互に見つめるルナ。彼女には何も言わず、時雨は淡々と砂の上にひょうたんのような形を描き、中心に小さめの丸を描いた。そしてその周りに八本の線を引き、ひょうたんを九つに分ける。

「いい?今僕たちがいる第三街区はここ。一年中晴れてる、海の街」

 時雨が一番右上の区画に「3」と書く。

「で、僕たちが通ってきたのがここ。第二街区…まあ街じゃなくて森なんだけど。ずっと雪が降ってるのが特徴」

 時雨の手が、一つ左の区画に移動して「2」と書いた。左上の一角には、続けて「1」と記される。

「第一街区は、第二街区よりも明るくて広い森。ここは大きい川が流れてて、動物が沢山住んでる。で、その下のここが第四街区で…」

 時雨が残りのスペースに数字を埋めていく。中心の丸が「9」で、下の三つの区画には左から順に「6,7,8」と入れられた。残った丸の右側が「5」。

「まあこんな感じで、色んな特徴を持つ九つの街があるんだ。全部説明してたら長くなるから、もし今後通ることがあったらその都度話すね」

「ええ…今話してよ…」

 街ごとに気候や環境が違うなんて興味深い。今登場しなかった街の特徴も知っておきたかった。ぽつりと口から不満を漏らせば、時雨は困ったように苦く笑う。

「今日は予定があるから。ね、ルナ?」

「うん!詠にこの街を案内してあげる!」

 今の一部始終で、詠がこの世界に関して何も知らない怪しい人物だと分かったはずなのに。何も尋ねず、不審そうな顔一つせずルナは詠の手を取る。

「じゃあまずは、私のお気に入りのカフェに連れて行ってあげるね!」

 光り輝く笑顔で手を引くルナに戸惑いながら、引きずられるように後に続いた。




 第三街区・海辺の街。その名の通り、海がすぐ傍に隣接したこの街は活気があって賑やか。街で一番人通りが多い…という市場は、三十近い数の露店が立ち並んで色んな物を売っている。果物、野菜、肉、魚…食べ物以外にも、衣服やアクセサリー・雑貨など。

 立ち並ぶ家々は皆白い石造りで、通りは全て石畳。テレビや絵本の中で見た、外国のような街並み。詠は物珍しさに、キョロキョロと辺りを見回しながら歩く。

 ルナのお目当ては髪飾りが売っているお店だったらしく。十数分悩んだ末、キラリとした宝石が埋め込まれた水色のリボンを一つ、購入していた。代金としてルナが支払ったコインは、詠には全く見覚えが無い。いよいよここがどういう場所なのか、分からなくなっていく。

 唖然としたままアヒルの子のように二人を追いかける内、あっという間に昼になった。

「もー!時雨はまたどっか行っちゃうんだからあ…!」

 初めて見るルナのプンプン怒った顔は、膨らませた頬がハムスターのようで可愛くて。思わずクスッと笑えば、「何笑ってるの!」と飛び火を食らってしまった。慌てて笑いを引っ込めながら、テーブルに置かれた花びら型のクッキーを一枚手に取る。

「時雨は人気者なんだね…」

 昼食をとる店を探していたら、何故か時雨が待ち行く人たちに声をかけられ始め。

『時雨だー!』

『いつこの街に来たの!?』

『まあ、久しぶりねぇ時雨…!』

 時雨は嫌そうな顔をするかと思いきや、意外にまんざらでもなさそうな表情で。みるみる内に取り囲まれ、最終的にどこかへ連れていかれてしまった。白いマントを纏った時雨は確かに、人混みでは一際目立つのだけど。あそこまで人気者だとは知らなかった。

「どうして皆、あんなに時雨のこと知ってるの?」

「ん?私もそうだけど、みんな時雨が立ち寄ってくれるの、楽しみにしてるからさ」

 水色の紅茶を、綺麗な陶器のティーカップで啜りながらルナが答える。

「旅人ってそんなに珍しいの?」

「そりゃあそうだよ!普通の人はみんな、他の街にわざわざ行こうなんて思わないもん。特に時雨はほら、吟遊詩人ミンストレルだから」

「…ミンストレル?」

 聴き慣れない単語に、目を瞬く。ルナは呆気に取られた顔で、カシャン!とカップをソーサーに置いた。

「え、知らないで一緒にいるの?時雨はね、誰かの物語を音楽にして、それを語りながら旅をする“吟遊詩人ミンストレル”なんだよ」

「誰かの物語を…音楽に…」

 『ミンストレル』という単語を聞いたのは初めてだったが。音楽、という言葉で胸がチクッと痛む。詠が逃げてきた場所。詠が捨ててきた、大切だったもの。

「時雨が新しい音楽を作ってくれない限り、私たちは元々知ってた音楽を聴くしかないからさ。外の話を聞けるのも、時雨の口からだけだし。だからみんな楽しみにしてるの。時雨がこの街に立ち寄ってくれるのを、ずっと」

「…え?自由に音楽を聴いたり、遠くの人と話したり出来ないの?」

「出来るわけないじゃん!そんなこと出来たらスーパーマンだよ!」

 ポリポリとクッキーを頬張るルナの口元を見つめながら、詠は確信する。これが夢でないのなら、ここは異世界だ。詠のいた世界とは違う世界線。

 便利な世界に生きていた詠は、世界中のどこで何が起きたか一瞬で知ることのできる機械を持っていた。誰とでも、いつでも話せて。好きな音楽を、ボタン一つで好きな時に聴ける。それは当たり前のことだったのに。

 ここにはそれがない。ルナの話を聞いた限りでは、そもそも音楽を作れる人が時雨しかいないということだろうか。

 想像もつかないことばかりで、理解が追い付かない。

「…時雨の他に、その…ミンストレル?はいないの?」

「うーん、少なくとも私は会ったことないかなぁ。時雨も居ないって言ってたよ!『ミンストレルは自分だけだ』って」

 だとしたらこの世界にある音楽は、皆時雨が作ったものなのだろうか。

 混乱した脳内で今聞いた話を纏めながら、紅茶を一口啜る。

「…ねえねえ詠、聞いてもいいのか分からないんだけどさ」

 視線を上げた。ルナが少し緊張した面持ちでこちらを覗き込んでいる。

「詠ってもしかして、記憶がないの?…色んなこと、知らないみたいだったから」

 なんと答えようか、少しだけ迷う。でも隠したって仕方ない。正直に小さく頷く。

「うん…全部が全部ないわけじゃないんだけど。ここに来るまで…時雨に会うまでの記憶がすっぽり抜けてて。だからどうやってここに来たのか、ここかどんな場所なのか何も知らないの」

「…そっか。実は、私もそうだったんだ」

 予想外の言葉が返ってきて、思わず俯いていた顔を上げる。ルナの眸は変わらず真っ直ぐに詠を見つめているが、そこに少しだけ憂いの色が滲んでいる。

「すっごく昔の記憶はあるんだけど…いつの間にかこの街にいたの。ここに来た理由とかは全然思い出せなくて…」

「…それ、私と一緒…」

「でしょ?この世界はね、そういう人多いみたい。詠の他にも会ったことあるよ」

 肩を竦めて、困ったようにルナが笑う。

「私ね、小さい頃から歌うのが大好きだったの!音楽も、凄く好き。ただ身体が弱くて入院してた期間も長かったから、思うように好きなことできなくて…でも、この街に来てからはすっごく元気!大声で歌いながら踊っても、大丈夫になったんだよ!」

 水色の紅茶を一気に飲み干して、ルナはカップの底を見つめる。

「健康って一番大切なのに、一番忘れがちな幸せだよね。ずっと健康でいるとさ、そのありがたみは絶対分からないし…私でさえ元気なときは忘れちゃうこともあるもん。でも、そうじゃないときは元気な人がたまらなく羨ましかった。…だからね、今元気で好きなことが出来る内に、色んなことしたいんだ!私は私と、私の大切な人達を幸せにするためだけに生きたいの!…ただ、それだけ」

 そう語るルナの眸には、どこか遠い景色が映っていた。健康じゃなかった頃の自分を思い出しているんだろう。音楽を好きだと真っ直ぐに言えるルナを、詠は羨ましく思ったが。きっとルナは、ずっと健康に生きてきた詠を羨ましいと言うだろう。ルナの言う通り詠は、健康で居られるだけで幸せなんて、考えたこともなかった。

「まあ、またいつ病気になっちゃうか、わかんないんだけどね。それまで私らしく、精一杯生きたいんだ!」

「…すごいと思う。本当に」

 そんな言葉しか出てこない自分は陳腐だ。だけどルナは嬉しそうにニッコリ笑って、「ありがと!」と最後のクッキーを口に頬張った。


◆◇◆


「あーあ。結局時雨は全然合流してくれないんだもん…もう日が暮れてきちゃったよ…」


 ほんのりと茜色に染まった空を見上げて、ルナが溜息をつく。あれから三十分くらいカフェで待ったけれど、時雨は来ず。諦めて店を出て、周辺の小物屋さんを二人でぶらぶらした。詠はこの世界のお金を持っておらず、何も買うことは出来なかったのだが。一つ、古本屋らしき店で見かけた、ステンドグラス風の栞が綺麗で唯一それを買えなかったことは心残りだった。

「…時雨、どこまで連れて行かれちゃったんだろ?」

「私わかるよ。行く場所、一箇所しかないもん。今そこへ向かってる。もー、楽しみにしてたのに三人で出かけるの…まあ詠と色々話せたからいいけど…」

「そうだね、私も…楽しかった、ルナと話すの」

「そ?よかった!まだまだ楽しいところが沢山あるから、明日連れていってあげるね!」

 花が綻んだように、ぱああっと微笑むルナ。うん、と短く答えながら思った。この街に、時雨はいつまで居るつもりなんだろう。一つの街に時雨はいつもどのくらい滞在しているのか、そもそも何のためにこの街に立ち寄ったのか。

 詠は何一つ知らない。

 時雨のことも、よく知らない。

 その時。風に乗って、微かな音色が耳に届いた。ピクッとルナが身じろぎする。

「お、やってるやってる…行こう、詠!」

「え!?」

 バッと詠の手を掴んで駆け出すルナの、後に続いて走る。歩を進めるにつれ、黄昏の空が少しずつ迫り来ると共に、その音楽も近づいてきていた。ピアノの音色と、優しくて少し切ない、聴き馴染みのないメロディー。


『~♪いつか台詞だったこの思いが真実になる時まで…』


 石段を少し駆け上がった先、何やら人だかりが出来ていて。傍にある大きな噴水が、虹色の橋を描いていて。詠はそこが、昨日立ち寄った広場だと気づいた。人だかりの中心には、古びたグランドピアノ。そこに腰掛けて歌っているのは見覚えのある、白いマントのシルエット。


『~♪足掻いて、こらえて、縋り付いて、光になってみせるから…』


「わ、聴いたことない曲だ…」

 興奮で頬を赤らめて、目をキラキラさせるルナ。その隣で、詠の視線はピアノに釘付けになったまま動けない。

 それは知らない曲だった。重厚感のあるピアノの伴奏に合わせ、切々と綴られた歌詞が印象的で。初めて聞いた時雨の歌声は、透明感があるのに芯がしっかり通っていて力強い。誰にも真似できない神秘的な何かがそこに宿っていた。

 耳を澄まして、一音も逃さずに聴いていたいと思わせてくれる歌声。

「…こんな風に歌えたら…こんな曲を作れたら、私も…」

「ん?詠、なんて?」

「…ううん、何でもない」

 遥か昔、誰にも見向きもされない路上で歌っていた自分の姿が脳裏をよぎる。詠はぶんぶん首を横に振った。折角忘れかけていたのに、思い出すのはごめんだ。

「…これも時雨が作った曲ってことだよね」

「うん!誰かの、どこかの物語なんだよ、きっと…」

 それは切ない失恋の歌にも聞こえたし、誰かに、何かに憧れる純粋な願いの歌にも聞こえた。時雨の紡ぐその曲に、広場の人のほとんどが耳を傾けていて。興味を示さずに通り過ぎる人は一人もおらず、皆優しい顔つきでそこに流れる音楽を楽しんでいた。

 胸がギュッと締め付けられる。この苦しさはなんだろう。美しい音楽なのに、もっと聴きたいと思うのに。純粋に音楽を楽しめない。妬ましさ、劣等感、過去の恥ずかしい記憶、全部が心の奥で煮えたぎって耳を塞ぎたくなってしまう。

「…詠も、一緒に近くに聴きに行こうよ!私歌いに行きたい!」

 その声にハッとした。少し先で、ルナが手招きしている。無意識に一方、後ずさった。

「わ、私はいいよ…ここで聞いてるね」

「えー?どうして?時雨と旅をしてるんでしょう?音楽が嫌いじゃないんでしょ?」

 言葉に詰まる。音楽は、自分にとって。

 何も言えない詠に、事情があるのを察したのかルナがふっと柔らかく微笑む。

「…時雨の作る歌はね、本当に全部すごいの。思いや風景が、そこにちゃんと見える。ちゃんと、物語がある歌だよ」

 俯きかけた詠の視界の中で、そっと手が握られる。

「聴きに行くだけでいいから。ね?」

「…うん」

 明らかに年下のルナに、これ以上気を遣わせたくなくて。小さく首肯すれば、ルナは霧が晴れたみたいにパアっと微笑んで、そのまま詠を人混みの方へ引いていく。丁度今の曲が終わって、拍手と歓声が広場を包んだ。

 ピアノの椅子から立ち上がって、深々と頭を下げた時雨と目が合う。あっと気づいて、時雨は顔の前で両手を合わせながら口を「ごめん」と動かした。苦笑してううん、と首を振る詠の隣から、ルナが駆け出す。

「時雨!私にも歌わせて!」

「…いいよ、何がいい?」

 時雨が椅子の横に置いた革の鞄から、楽譜の束を取り出すのが見えた。取り囲んでいた子供達から歓声が上がる。「ルナちゃん頑張って!」と励ます声が飛んだ。温かい雰囲気に包まれながら、時雨とルナが楽譜を見て色々話している。

 その様子を、一歩引いた場所から見つめる詠。胸の奥が、ざわざわする。

 空が一面茜色に染まって、薄紫色に移ろって、夜がやってくるその瞬間まで。時雨とルナは何曲もの音楽を、いくつもの物語を奏でた。歌っているルナは、心の底から幸せそうで。華奢な見た目に反して、響き渡るその歌声は力強かった。


 貼り付けた笑顔でその光景を見守る詠の心は、ずっと晴れないままだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る