Tr.2 偽神咄-ぎしんばなし-


 よみは、雪が好きじゃない。


 昔は雪に憧れがあった。少しでも積もろうものなら、かじかんだ手で雪だるまを作ったことを覚えている。毎回次の日には、家の前でペシャンコに解ける、雪だるま。

 大人に近づくにつれ、雪は億劫なものになった。電車はすぐに止まるし、地面が滑るから急いでいる時に走れない。

 寒いし、冷たいし、濡れるし。良いことが何もない。

 どうして子供の頃は、こんなものが好きだったんだろう。色んな物にそう感じてしまうのは、自分の心に余裕がないからだと分かっていた。

 …だけど。今久々に、雪を綺麗だと思えている。


 ぼんやりした視界に、鮮やかな黄緑色の木々が見えて。上からはらはら落ちるぼたん雪が、頬に当たってじゅわっと解ける。

 地面に付けていた背を、ゆっくりと起こす。目の前に落ちてきた雪の結晶を、手の平に乗せた。音もなく、結晶は崩れて水滴だけが残る。

 儚い命が、美しいと感じる。

「…?」

 改めて辺りを見回すと、見覚えのない森だった。不思議なのは、冬景色なのに木々に青々と色鮮やかな葉が茂っていること。白い息が視界を覆っているのに、あまり寒くないこと。

 両手をかざしてみた。解けた雪の名残が、つうう…と手首を伝う。湿った赤いカーディガンの袖、チェックのスカートとベージュのパンプス。この格好は見覚えがある。詠が困ったときに着る、量産型チェーン店で買った個性のない仕事服。

 スッと視線を空に向けた。どんよりした曇り空から、白い雪の粒が次々舞い降りる。しばらくぼーっと、その風景を眺めていた。どうしてここに居るのか、ここはどこなのか、頭の片隅でうっすらと考えながら。


 どのくらい経ったかは分からない。サク、サク、と雪を踏みしめる靴音に視線を下げる。

 向こう側から、大きな雪の塊が近づいてくる…と思ったら、それは人だった。真っ白い衣服を纏った、人だ。髪は短く暗い青で、服装もあまり見かけないマントのような羽織り物。青年のようにも見えるし、ショートヘアの女性にも見える。

 その人影は、詠の目の前で止まった。

「…大丈夫?」

 頭上に降り注いだ声は、ハスキーな女の人にも思えたし、少しあどけない青年の声にも思えた。差し出された手は雪と同じくらい真っ白で。その手を取るか躊躇っていると、人影の方がしゃがんで詠を覗き込む。

「…濡れてる。いつからここにいたの?」

 詠は首を振る。答えられないからだ。

 見知らぬ人だから警戒しなくちゃいけない、と思う気持ち半分、その人の声は優しくて透き通っていて…悪い人には思えなかった。

 迷った挙げ句、差し出された手を取る。マントの人影はスラッとした外見に反して、存外強い力で詠を引っ張り上げた。立ち上がった瞬間、スカートに降り積っていた雪が地面に散る。パン、パンと僅かに付着した雪をはらえば、そっと肩に白いマントが掛けられて。詠はようやくその人影と目を合わせる。

 吸い込まれそうな、深い青の眸がこちらを見つめていた。

「向こうにね、街があるんだ。この森は迷いやすいから、君みたいな子は独りでいると危ないよ。良かったら一緒に行かない?」

 切れ長の眸は声と同じく透き通っていて、問いかけるその声は温かくて。 

 初めて会った人なのに、初めてじゃないような気がして。

「…うん」

 久しぶりに発した声は、少し掠れていた。自分ってこんな声だったっけ、なんて思いながら。返事を聞いて、微笑んだその人が歩き出す。

 

 音の少ない、静かな知らない風景の中を。知らない背中について、歩く。

 



 歩き始めて十分は、お互い一言も発さなかった。気まずくて黙っていたのは詠だけで、青い眸の人はただ真っ直ぐに森の中を先導して歩いていた。

 かなり歩いたのに、景色が全く変わっていないことに気づいたのは、そのさらに五分後くらいで。

「…あの、」

 掠れた声を上げれば、「ん?」と片眉を上げてその人が振り向く。

「…迷ってません?」

「いや?ちゃんと進んでるよ、ほら。」

 後ろを指さされて、振り向いた。三六〇度全方位まったく同じ景色が広がっていて、どこから歩いて来たのかすら分からない。困惑したまま再び視線を戻す。

「初めて来た人には分からないよね。でも大丈夫、僕はこの森よく通るから。信じて」

 言うが早いか、また踵を返して歩き出すその人。

「…信じて、って言われても」

 どう見たってさっき通った道と同じだ。呼び止めようとして、その人の名前をまだ聞いていないことに気づく。

「…あの!」

 今度は少し不思議そうに、青い眸がこちらを見つめる。

「…名前って」

「ああ…!ごめんごめん、僕は時雨、旅をしてる。君は?」

「…詠です」

「へえ、いい名前。よろしくね、詠」

 そしてまた歩き出す。どうも自分のペースに他人を巻き込むのが上手な人のようだ。旅をしてる、というフレーズもかなり気になるものではあったが。初対面の人に改めて問いただせるほど詠は会話が得意ではなかった。

「あともう少しで、海が見えるから」

「…海?」

「海辺の街…第三街区に行くつもりなんだ、用があってね」

「…第三街区…?この森は…」 

 なんと尋ねればいいか分からず、口ごもる。何も考えずついてきてしまったけど、現在地も行き先も不明だ。時雨が何かを察したように笑った。

「どこかって?うーん…君に説明するのは難しそうだなあ。…この森は一年中雪が降ってるから、そんな薄着じゃ住めないよ」

 一年中、の言葉に目を見張る。

「え。やまないの?」

「やまない。だから危ないんだよ。初めての人は、同じ景色ばかりで抜け出せないから必ず遭難する」

「…よかった」

 時雨は少し微笑みながら、世間話でもするような口調で詠に尋ねる。

「…ところで君は、何してたの?ここで」

 尋ねる声は、別に物凄く興味がある、というわけでもなさそうだった。問われて初めて、詠は自分の記憶が曖昧なことに気づく。どう考えても不思議なこの森に、どうやって辿り着いたのか。全く思い出せない。ここに来た覚えもない。

「覚えてることだけでいいから、話して?」 

 時雨にそう言われて、詠は考える。『鷹森詠』という人間のことを。


 記憶を辿って、思い出せる限りの断片を集めた。少し前のことまでなら、覚えている。音楽を辞めて、すぐ後の自分のこと。

 小さい頃から歌を歌うのが好きだった。将来は歌手になりたかった。憧れた理由は、好きだったアニメのキャラクターが歌手だったから。歌で人を癒したり、救ったりするその子の歌声に惹かれた。

 父と母は不在がちで、いつも祖母と二人きりだった。祖母の前で歌う時は自分がスターになったような気持ちになれた。手拍子をしながら、ニコニコ幸せそうに聴いてくれる祖母の顔を見る内に。歌で人を幸せにしたい。それが詠の人生の目標になった。

 高校に上がる時、周りの反対を押し切って上京した。都会にしかない、歌のスクールに通いたかったのだ。地元の田舎町じゃ、音楽活動をするのは難しくて。東京の高校に通いながら、放課後は毎日アルバイトかスクールに通って過ごした。両親には「大学受験しなさい」と何度も言われたし、「もうそろそろ現実見たらどうだ?」と二者面談で、先生に嘲るように言われた一言が、たまらなく悔しかった。

 現実なら、ちゃんと見てる。

 どんな有名な歌手にだって無名な時代はあるのに。スクールに通ったり路上ライブしたり、数十人しか入らないライブハウスで歌っていた過去があるのに。

 何も為せない内は、みんな芸術家を馬鹿にして冷たい目で見るのだ。

 純粋に詠の夢を応援してくれる人は、一人もいなかった。君なら出来るよ、と信じてくれる人もいなかった。

 だから、一人で叶えようと決めた。

 高校を卒業して数年間、がむしゃらに音楽を続けた。小さいライブハウスで沢山弾き語りのライブをした。誰にも見向きもされない路上でライブをした。数打ちゃ当たると、新曲を沢山作った。自分に似合う曲も、流行りに寄せた似合わない曲も、沢山。

 でも、何一つ成果はなくて。月数人ファンが増えても、同じだけ去っていく人が居る。曲を量産しすぎて、段々自分の曲が歌えなくなる。お金にならないからとバイトの時間を増やしたら、音楽活動の時間が減って一層いいものなんて出来なくなって。

 次第に何のために曲を作っているのか、誰のために歌っているのか、分からなくなった。

 自分が音楽を好きなのかも、分からなくなった。

 そして、東京へ来て七年が経ったある日。

 ぱったり、音楽を辞めた。楽譜は全部ファイルに閉じてクローゼットの奥にしまいこんで。

 趣味にしたら、きっとまた楽しく音楽ができると信じていた。ありきたりな職場に就職して、毎日同じ時間に通勤して、毎日同じ時間に帰宅した。

 家に帰ったらテレビを見て、ダラダラ動画を眺めて、お風呂に入って寝るだけ。会いたい友達も居なかったし、行きたい場所も特になかった。

 趣味になった音楽は、ただ辛い記憶を呼び起こすものになって。成功している人の音楽は妬ましいし、無名の人の音楽は自分と重なるから苦しい。

 音楽を辞めた直後は惜しんでくれていたファンも、今や別のアーティストを追いかけているみたいで。忘れ去られるのなんてあっという間だった。

 七年かけて紡いだ音楽に何の意味もなかったと、実感した。部屋の隅に追いやられたキーボードが、埃を被ってしまっても。

 詠はもう、音楽をやろうとは思えなかった。


「…どうかした?」

 ハッと意識を現実に戻す。不思議そうな時雨の眼差し。ううん、と首を振って詠はどこまで何を話すか考える。

「…つまらない、はなしなんだけど」

 そう前置きして、詠が覚えている『自分』のことを簡単に話した。全部話すと暗いし重いから、かいつまんで、少し綺麗に聞こえるように言葉を包み直して。

 時雨は「全然つまらない咄じゃないよ」と笑いながら、時折質問してくれた。詠はそれにポツポツ答えながら歩いた。どんな仕事をしていたのか、何が好きで何が嫌いか、大方自分に関するプロフィールは全て話し終えた頃、ふと時雨が詠の首元を見て言う。

「音楽、辞めたって言ってたけど。…それ、」

 時雨の視線の先に何があるか気づいて苦笑する。毎日肌身離さずつけている、八分音符のネックレス。

「ああ…これは、」

 言いかけた言葉が、消えてしまった。言葉が神隠しにあったみたいだ。どうしてこのネックレスを大事にしていたのか、その答えが思い出せなくて。

 ただこのネックレスを渡してくれた、誰かの柔らかい手の感触。満面の笑みで礼を言う、幼い頃の自分。その断片だけパッと浮かんでは消える。

「…そんなもんだよね…」

 苦笑して呟いた、その直後。

「お!詠、見て!着いたよ!」

 時雨の嬉しそうな声音に、目を上げる。長い森の、終わりが訪れていた。気づけば雪が殆ど降っていない。眩しい光が溢れているその先は、まだ見えない。

 手招きする時雨の元に、足早に駆け寄る。

「わあ…」

 感嘆の声が零れた。そこから見える景色があまりにも綺麗で。

 詠たちの居る森から長い階段が下に続いていて、その先に小さな街があった。白いピラミッドみたいな形をした家々が立ち並び、遠くには山がそびえている。澄み渡った青空の下、エメラルドグリーンの海が広がっていて。いくつもの船が、港に留まっている。


「ここが海辺の街、第三街区だよ!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る