馬泥棒と虚舟

仲井陽

馬泥棒と虚舟

 昔々あるところの話。

 伍介(Gosuke)は善良だけれども、知恵というものが跡形もなく溶け出しているような男だった。いつも洟を垂らし、動くものが見えるとすぐに気を取られ、ひとつのことをやり終えるのにえらく時間がかかった。物事はすべからく判然とせず、自分の頭には腐った豆腐が詰まっていると信じ込んでいた。

 そんな具合でおまけに貧乏だったから、もう四十も間近というのに嫁も貰えず、年老いた母親と二人で暮らしていた。母親はそんな伍介を見かねてよく叱ったが、もう年々くたびれていくだけの息子について暗澹たる気持ちが増す一方だったし、かたや伍介の方も、やれ「ぼーっとするな」だの「嫁をもらえ」だの言われたところで、雨に濡れるようにうなだれるしかなく、互いの愛情はただドブへ流れていた。


 冬を控えたある朝、母親が倒れた。流行り病だった。

 伍介は必死に看病したが、そこいらの雑草や木の皮を薬のつもりで飲ませたので、母親は口と尻から黄緑色の汁をビュービューと吹き出し、三日三晩高熱にうなされた。四日目の朝、ようやく目を覚ましたが、もうそれ以後、まともに体が動かなくなってしまった。

 大黒柱の役目を果たせなくなった母親は、その任を息子に託すしかなく、伍介は一家の食い扶持を稼ぐため、庄屋どんの屋敷へ奉公に出ることとなった。

「伍介よ、頼むからしゃんとしてくんろ。おめえが心配で心配で…」

 不自由な体を引きずって息子を見送る母親に、伍介は胸を張って答えた。

「お、おら、おっかあ、心配、おら、おっかあ、心配、おら、おっかあ、心配、心配、いらねえ」


 かくして庄屋どんの屋敷で働くようになった伍介だったが、はじめはもちろん上手くいかず、様々な仕事をたらい回しにされた。しかし、おっかあのためにえんやこらと踏ん張った甲斐もあって、最終的には厩(うまや)の仕事に落ち着いた。

 元来、動物に好かれる性質であり、また共に働く吉蔵(Kichizo)という青年もよく助けてくれたので、少しずつだが仕事も覚え、僅かばかりの賃金を母親に渡せるようにもなっていった。

 伍介は頬を緩めた。自分のような豆腐頭でも役に立つことができるのだ、と。


 ところがある晩、馬が一頭いなくなった。


 はじめはうっすら伍介が疑われたが、盗みを働く動機も知恵も無いので、すぐにそれは晴れた。そしてほどなくののち、件の馬は近くの河原で見つかった。

 はらわたを引き裂かれ、一滴残らず血を吸い尽くされた状態で。

 明らかなる変死体。その奇妙な様相は、人ならぬ物の怪の仕業を思わせた。

 ただ、とにかく人死にが出なくて良かったと、誰もが有耶無耶に目を伏せようとした翌日、再び別の一頭が盗まれた。

 そして一頭、また一頭と、日を追うごとにそれは増えていき、その度に哀れな死骸が河原へ転がった。こうなるとさすがに庄屋どんも黙っているわけにはいかず、原因を探るため、伍介と吉蔵の二人に寝ずの番が申し付けられた。


 凍てつく風が吹きすさぶ丑三つ時。二人は厩の陰で藁を纏いながら、息を潜めて盗人の登場を待っていた。

「俺は河童だと思う」

 握った鎌に力を込め、吉蔵が言った。

「死骸が河原で見つかるのがなによりだ。腹を裂いたのはきっと尻子玉を取るためだ」

 いつになく思いつめた口調であったが、伍介は、吉蔵の口から漏れ出る白い息を眺めながら、この煙はいつもどこから出てくるのだろうと不思議がっていた。

「盗人を捕まえればきっと褒美が出る。河童ごときであれば二人がかりで殺せると思うが、どうだ?」

 緊張と殺気を孕んだ眼差しを向けられて、伍介は初めてその物騒な申し出に気づいた。実は伍介、それほど恐ろしいとは感じていなかった。河童を知らないということもあったが、なにより手塩にかけた馬を殺されるのが嫌でたまらなかったのだ。

 しばしの沈黙の後、伍介は力強く頷いた。

「お、おら、馬が、馬が、おら、可哀想だで、おら、馬が、可哀想だで、おら、やるだ」


 どのくらい時間が経っただろうか。

 はっと気が付くと、辺りは薄い雪で覆われていた。どうやら疲れと寒さで眠ってしまったらしい。いつの間にか風も収まっていて、静まり返った夜にしんしんと雪だけが降り続いていた。

 伍介の方が先に目を覚ましたようで、隣では膝を抱えた吉蔵が寝息を立てていた。

 やれ相棒の雪化粧を落としてやろうと伍介が振り向くと、その先に、厩舎の外で月の光を浴びる一頭の馬が見えた。

 伍介は眉を顰めた。

『どうやって柵から出たのか』

『いや、それよりも』

 豆腐の頭でそのことに気づいたのは本能的な直感ゆえだ。


『雪が降っているのに、月灯りの差すわけがない』


 伍介はぞっとして灯りの源を仰いだ。

 するとそこには、銀色に輝く巨大な円盤が浮かんでいた。直径50mはあろうアダムスキー型と呼ばれるそれは、中空で厳かに回転しつつ、その底面から光の柱を地上の馬へと下ろしていた。

 いや、馬だけではない。その傍らには子供のようなシルエットが蠢いていた。

「き、き、き、吉蔵、吉蔵」

 伍介は震えながら相棒を揺すった。生あくびとともに起きた吉蔵は、示された方を見るやいなや、かすんだ眼をぐっと開いた。

「河童だ…」

 しかし本当にそうだろうか?

 伍介は訝しんだが、吉蔵は言うが早いか跳ね起きると、河童もどき目がけて一直線に駆け出した。伍介の止める間もなく、鎌が狂ったように振り回され、不意を突かれた河童もどきは軋むような呻き声を上げて、肩の辺りから緑色の液体を流して倒れた。

「見ろ、緑の血だ! 河童は緑色をしてるのだ!」

 息を弾ませ吉蔵が叫んだ。ようやく追いついた伍介は、そこで初めて河童とされる生き物をまじまじと見ることができた。

 弱弱しく震えるグレイカラーの小柄な体躯、それに不釣り合いなほど大きな頭とアーモンドのような黒光りする瞳は、痩せた病気の子供を連想させた。確かに流れ出る血は緑だったが、その肌は上空の円盤と同じ色をしていたし、例えこれが河童であっても、きっと女か子供、守るべきか弱い者に思えた。

 伍介は、止めを刺そうと振り上げられた鎌を掴み、こう言った。

「き、き、き、吉蔵、お、おらは、吉蔵、おらは、殺すのは、吉蔵、おらは、殺すのは、殺すのは、おらは、吉蔵、可哀想だ」

 ただ、これは吉蔵に伝わらなかった。正確には、最後まで言い終えることができなかった。哀れな河童もどきが放った光線によって、吉蔵は一瞬のうちに蒸発してしまったからだ。あまりのことに伍介は何が起こったのか分からず、先ほどまで掴んでいた相棒の体が白い煙となって漂うのを呆けながら眺めた。

 ああ、寒くて口から出るのはこの煙だったのか。そうぼんやりと天を仰いだとき、上空の円盤がオレンジ色に点滅した。

「ワレワレノpreference(※翻訳不能)ヲ タスケテイタダキ ホントウニ アリガトウゴザイマシタ」

 混乱した頭に直接その声は響いた。

「オレイニ ワレワレノmagnificence(※翻訳不能)ヲ サシアゲマショウ」

 そして眩しさに目が眩んだかと思うと、否も応もなく伍介の体は宙に浮き、光の柱を通って円盤の中へと吸い込まれた。続いて馬と傷ついた河童もどきも取り込まれ、空飛ぶ円盤は二度三度とオレンジ色に点滅したのち、夜空にジグザグの軌跡を描きながら山の向こうへと消えた。

 あとには風が雪を舞い上げるだけであった。

 この出来事を知る者は誰もいなかった。


 伍介が再び姿を現したのは、それより十日ほど後のことだ。

 朝靄が立ち込める件の河原にて、馬の死骸の傍らで呆けているところを発見されたのだが、着物を何も身に着けておらず、頭髪も含めて体毛は一本残らず剃り尽くされていた。

 そして、のみならず、こめかみには蚯蚓腫れのような真一文字の痛々しい傷跡が。

 ただ、それ以外は怪我らしい怪我もなかったので、ともあれ無事で良かったと皆に迎え入れられたものの、意識がはっきりしてくるにつれ、どうやら何か以前と違うことが明らかになってきた。

 まずどもることがなくなり、話す内容も明晰になった。てきぱきと動き、言われるばかりではなく進んで仕事を探すようになった。また労働環境の構造的な問題を発見し、効率的になるよう抜本から改良したし、その過程で見つけた小作人らの不正も正した。

 はっきりと意志を持った眼で朗らかに人と交わる伍介に対し、驚きを隠せぬ人々はその理由をひっきりなしに尋ねた。しかしその度に伍介は、こめかみの傷跡を指しては、こうはにかんだ。

「オラハ ナニモ カワッテネエ。タダ ココニauxiliary(※翻訳不能)ヲ ウメラレタ ダケダ」

 しかし、こと話が吉蔵の行方に及ぶと、悲しそうに口をつぐむばかりであった。


 やがて庄屋どんの娘を娶り跡を継いだ伍介は、潤沢な資金を元手にconservator(※翻訳不能)から教わった製鉄技術でさらに財を成すと、庭の一角に吉蔵の墓を建て、母親を屋敷へ呼び寄せた。

 息子が眠りながら白目を剥いて素数を数えるようになったことを母親は気味悪がったが、それを除けば特段の不幸はなかったのでそっと目を伏せた。

 そして伍介たちは末永く、おおむね目出度く暮らした。

 おしまいに一陣の風が話をどっとはらった。

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馬泥棒と虚舟 仲井陽 @Quesh

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