仲井陽

 そういえば、もう何年も爪を切っていないな。

 道雄がそれに気づいたのは夏も終わりの夜深い時間だった。いつものように得意先との接待を終えタクシーで帰宅すると、シャワーを浴びてもうひと仕事するため書斎に籠もった。その時にふと目が留まったのだ。爪の先には白く薄い三日月が控えめに収まっていて、何年もほったらかしにされていたようにはとても見えなかった。

 薄気味悪かった。そんなはずはない、深酒した夜に切ったか何かで忘れているだけだろう。そう思い込もうとしたが、それでも一回や二回じゃすまない。道雄は軽く頭を振って、最後に爪を切った日を思い出そうとした。しかしどれだけ記憶の蓋を開けても中はがらんどうで、ぱちん、ぱちん、と爪を切る音だけが悲しげにこだましていた。

 大抵の男にとって爪というのは伸びてきて始めて意識するものだから、不自由さを感じなければ中々気づきにくいものだ。道雄はせめて爪切りを探そうと試みたが、おぼろげな心当たりは軒並み空振りに終わり、どこにあるのか見当もつかなかった。

 いや、もしかしたら妻が勝手にどこかへ仕舞ったのかもしれない。あるいは彼女が自分で使うためにちょっと借り出して、戻すのを忘れているのかも。

 爪切りさえ見つかれば手がかりをつかめるような気がした。このまま曖昧にしておくのは性に合わなかったし、なにより得体のしれない不気味さを早く拭い去りたかった。

 道雄は隣の寝室へ通じる扉をそっと開けると、なるべく物音を立てないよう身をすべらせた。妻と娘の寝顔に光が当たらないよう用心して、しかし、探し物ができるだけの仄かな明るさを保つため扉を閉め切らないでおいた。そして部屋の隅の化粧台に目を向けると、そこに爪切りを見つけた。ただし、それは探している物ではなかった。

 道雄が探しているのは白地に青いラインの入ったプラスチックの爪切りだ。独身時代からの持ち物で、使いやすいが素朴な安物だ。しかし、化粧台の上にあるのは紫のラメが入った女物だった。明らかに妻のもので、そうなると彼女がわざわざ書斎に入って道雄の爪切りを持ち出したとは考えにくい。

 そこではたと思い出した。自分の爪切りはもう随分前に留め具が壊れて捨てたのではなかったか。バラバラになってしまった愛用のそれを名残惜しく思いながらも不燃ごみに出したのは、確か以前暮らしていたアパートでのことで、となるともう10年近くも前だ。それ以降、別の爪切りを見た覚えすらなかった。

 愕然とした。では本当に爪を切っていないままなのだろうか。どれだけ記憶をさらっても、あの爪切り以外で爪を切った覚えはない。爪が伸びない体質になってしまったのか。そんなことが現実にありうるのか。何かの病気だろうか。爪が伸びないなんてまるで――、死人。

 ふと、そんな考えが湧いて出た。

 ひょっとしたら、俺は気付かないうちに死んでいるんじゃないか。

 道雄は馬鹿げていると心の内で笑いながらも、しかし妙に腑に落ちて仕方なかった。

 これまで家族のためにがむしゃらにやってきた。それこそ昼も夜もなく仕事に身をやつし、やりたいことも自分の感情も押し殺して馬車馬のように働いた。それもこれも妻や娘に不自由な思いをさせたくなかったからだ。金が全てとは思わないが、貧しさが何をもたらすかは良く分かっていた。

 道雄はすやすやと眠る妻と娘をじっと眺めた。妻とは連れ添って15年、娘は今年小学生になる。遅くに授かった一粒種だ。可愛くて仕方がない。この子の為ならなんだってしてやろうと思えた。妻だって同じだ。毎朝早くに家を出る道雄の為に誰よりも先に起きて家事を取り仕切り、思慮深く愚痴やわがままの一つも言わない。こんな出来た女は今時滅多にいないだろう。

 そうだ。例え死人になっていたとしてもいいじゃないか。俺はもうこいつらのために生きようと決めているんだ。爪が伸びないくらいどうってことはない。いわば啓示だ。ちょうどいい機会じゃないか。

 覚悟を決めよう。自分の人生を諦めるんだ。はっきりと、今、ここで。

 道雄は胸の内に熱いものが込み上げてくるのを感じた。そういえば最後に涙を流したのはいつだったろう。また心から笑ったのは。好きだったものや、自分だけの楽しみもあったはずだ。気づけばいつの間にか、そういったすべてから遠くなってしまった。しかし惜しむ資格はない。忘れていたことすら忘れていたのだから。

 やがてそういった思いも収まると、道雄は残りの仕事を片付けるため書斎へと向かった。差し込む光の筋が細くなり、音もなく扉が閉まると、あとには完全な闇が残った。


 翌朝、道雄の妻は目を覚ますと、隣で眠る夫をじっと見つめた。昨夜も遅くまで仕事をしていたらしく、疲れ切った顔で荒く寝息を立てていた。ぎりぎりまで寝かせておこうと、そっと布団から抜け出したとき、ふと夫の指先が気になった。

 長い、というほどではないが、少し爪が伸びてきたようだ。

 たしか明日からしばらく出張のはずだから、その前に手入れをしておいてあげよう。彼女は化粧台の上から紫のラメ入りの爪切りを手に取ると、未だ深い眠りの中にいる夫の爪を、いつものように、ぱちん、ぱちん、と切り始めた。

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仲井陽 @Quesh

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