いぇるにぐらう祭

仲井陽

いぇるにぐらう祭

 K県の田舎にはいぇるにぐらう祭というものがあるらしい。僕がそれを知ったのは大学生のころで、当時付き合っていた女の子から教わった。彼女の田舎では毎年梅雨の始まりに祭の準備をするので、湿った空気の匂いを嗅ぐとその奇妙な名前を思い出すのだそうだ。

「田植えの直後ってことは、豊作祈願、みたいな意味なのかな」

 流れてきたイクラの皿を取りながら僕は訊いた。今日は疲れたから外で食べたいと彼女が言い、僕も洗っては汚れる食器洗いの不毛さに飽き飽きしていたから、共に住む2DKのアパートを抜け出して近所の回転寿司に来ていた。

「語源? いぇるにぐらう、の?」

 こちらへ向かってくる大トロの皿を見つめながら彼女は言った。

「どうなんだろ。なんか江戸時代に宣教師を匿ってたっていうから、それが関係あるとは思うんだけど……」

 隣では子供を連れた母親が、溢れんばかりにイクラの乗った軍艦巻きを食べていた。きゅうりで嵩増しされた申し訳程度の僕のイクラとは雲泥の差だ。メニューを見るとどうやらイクラこぼれ軍艦というらしい。

「でも英語じゃないよなあ。訛ったにしても原形すら分かんないし。スペイン語? ラテン語か?」

 備えつけられた注文用のタッチパネルを手に取りながら僕は言った。彼女の狙う大トロはもうすぐそこまで来ていた。

「さあ? 昔からいぇるにぐらう祭って言ってたし、考えたことも、あっ」

 いざ大トロと彼女が手を伸ばしかけたところで、隣の子供が身を乗り出しその皿をべたべたと触った。彼女の声に母親は振り返ったが、ちょうど子供が手をひっこめたのと同時だったので目撃しなかったようだ。いや、わざと気づかないふりをしたのかもしれない。母親はぞんざいに会釈しただけで我が子を引き戻した。

「あ、いえ」

 それでも笑顔を返す彼女を横目に、僕はタッチパネルでイクラこぼれ軍艦と大トロを注文した。


 実際にいぇるにぐらう祭を目にしたのはそれから二年後のことだ。僕らはともに大学四年になっていて、慌ただしかった就職活動もひと段落し、単位も予想以上にスムーズに取れていたので、消化試合のような授業をこなすだけの退屈な日々が続いていた。何年も一緒に暮らした彼女とはもう家族のような感じになっていたし、互いの実家に何度か遊びに行ったこともあったから、彼女に「一回、いぇるにぐらう祭を見てみない?」と誘われた時も、僕はちょっとした小旅行のつもりで快諾した。


 新幹線から特急に乗り換え、さらに地方鉄道で数時間揺られた先に彼女の田舎はあった。スーツケースを引いてやりながらホームに降りると、改札の向こうで彼女の母親が手を振っているのが見えた。家まで距離があるから車でわざわざ迎えに来てくれたのだ。女手一つでやってきた彼女の母親はTシャツにジーンズといった格好で、いつ会っても若々しかった。母親というよりは元気な姉といった印象だ。僕にも初対面の時から気さくに接してくれていて、いまや友達のようになっていた。

 いや、この気さくさは土地全体の気風でもあった。山奥だというのに狭い社会特有の閉鎖的な感じが不思議なほど無く、よそ者にも分け隔てなく大らかで居心地がいい。

 それはどことなく彼女の性格にも通じていて、人に執着しない僕がこれまで関係を続けて来られたのもそういう部分が大きかった。彼女は滅多に怒らなかった。それどころか誰かを非難したり、陰で愚痴をこぼすのも聞いたことがない。落ち込んだりすることはあっても、他罰的な感情というか、他人への怒りがあまり沸かないようだ。

 僕は結婚についてあまり積極的な人間ではなかったけど、彼女の何でも受け入れる伸びやかさはとても魅力的だったし、漠然と人生が定まってきた今や、二人の未来についても言わずもがなの空気が漂っていた。

 だから、今回の旅には『そういう意味合い』も込められていたんだろう。僕がそれに気づいたのは改札を出たときで、彼女の母親が顔見知りの駅員に「この子、新しい家族」と僕を紹介したからだった。驚いて彼女を振り返ったが、とぼけたように舌を出された。色黒の駅員は僕を見て「まーた良さそうな若者捕まえて」と笑い、「油断すると婿養子にされるぞ」と冗談を飛ばした。

 ただ正直なところ、確かに唐突ではあったけどそこまで悪い気はしなかった。

 一応結婚前ということで、その夜の布団は今まで通り別々の部屋に用意されてあったのが、気遣いといえば気遣いだったのだろうけど。


 いぇるにぐらう祭は翌日の昼間から始まった。会場である小学校のグラウンドには運動会で使うようなテントが手製の屋台として立ち並び、有志たちによる焼きそばやホットケーキが売られていた。降り注ぐ初夏の日差しを除けば、まるで町内会の盆踊りといった様子だ。

「なんか思ったよりも普通だね」

 いささか拍子抜けした僕に、彼女はグラウンド中央の櫓(やぐら)を指した。

「あれ分かる? あれ、いぇるにぐらう地蔵」

 盆踊りなら和太鼓が乗っている場所に、変わった形の石が据えられていた。ひし形の辺の部分をすぼめたような、折り紙の手裏剣のような、見ようによっては十字架にも見える形。その真ん中に目と口の窪みがあって、擬人化された一本足のヒトデみたいだ。地蔵と呼ぶにはあまりに奇妙だった。

「地蔵、には見えないなあ……。なんだろ、石のオブジェって方がしっくりくるけど」

「あれね、泣くんだよ」

「泣く?」

「うん。あ、始まりそう」

 櫓の上に恰幅のいい中年男が現れた。祭のハッピを着ていて、いかにもザ・町内会長といった貫録だ。彼が拡声器のスイッチを入れた途端、お約束のようにハウリング音が鳴り響き、静まり返った会場の注目を集めた。町内会長は拡声器を口に当てて高らかに宣言した。

「えー、んん!! えー、これよりいぇるにぐらう祭を始めまあす! 申し出のある方は、順々に並んで下さあい!」

 それを合図にわらわらと人が集まり、あっという間に櫓の根元から長い列が伸びた。ひらひらと手を振る主婦たち、じゃれて小突き合う高校生、犬を連れた老夫婦。性別も年齢もバラバラで、これから何が起こるのかまったく予想できなかった。

「行こ」

 彼女に手を引かれ、僕も列に加わった。何の順番を待つというのだろうか。何かが配られるのか、もしくは、あの櫓の上でカラオケでもするんだろうか。

「どういうこと? これ何の列?」

「まあまあ。見てれば分かるから」

 含み笑いを浮かべる彼女の視線を追うと、ちょうど先頭の若い男が櫓に上ったところだった。入れ替わりで地上に降りた町内会長が拡声器を再び口に当てた。

「それでは、開始でえす! 大きな声で申し出をどうぞー!」

 若い男はいぇるにぐらう地蔵の正面に立つと、胸に手を当てて深呼吸を始めた。まるでスポーツ選手が競技前に精神統一をするみたいだ。観衆が固唾を呑んで見守る様も同じだった。やがて男は大きく息を吸うと、頬を紅潮させながら地蔵の顔に向かって大声で叫んだ。

「ぼくはぁ! 彼女の真由美をぉ! 一生大切にするとぉ! 誓いまぁす!」

 緊張しているのだろう、ぎゅっと握った拳が震えていた。そして審判を待つような、不安げな面持ちで地蔵を見つめた。すると地蔵の目の窪みから、涙のような水滴がすっと一筋流れ落ちた。おお、という歓声に続いて拍手が起き、男はやっと安堵の表情を浮かべた。

「泣いたでしょ?」

 拍手をしながら彼女が振り向いた。

「うん、面白い。どういう仕組み?」

「昔から謎なんだけど、いぇるにぐらう地蔵の前で心の奥のことを叫ぶと、ああやって涙が流れるの」

「へー、なんだろ。あれかな、毛細管現象だっけ。声の振動で石の中に溜まってた水分が染み出すっていうやつ」

「そんなのあるんだ。でも嘘ついたりすると流れないよ? どんなに大声でも」

「感情によって微妙に声の周波数が違う、とか?」

「んー、どうなんだろ……。でも涙が流れると告白は許されて、その人は祝福されるの」

「あー、懺悔か! そっか、宣教師と繋がるのか」

「そうそう。それが由来じゃないかって言われてる」

 なるほどね、と僕は頷いてみせたが、内心では少なからずがっかりしていた。確かに逸話としては面白いし地蔵の涙も不思議だ。しかしやってることは結局ただの絶叫告白大会で、まるで高校の文化祭みたいじゃないか。せっかく来たんだから奇祭と呼べるようなものを期待していたのに。櫓の上では高校生が「絶対にぃ! 全国大会にぃ! 出場しまあす!」と叫んでいて、なんだか鼻白んでしまった。

 ただ、彼女の思惑は伝わった。あの櫓の上で、二人の将来についての決定的な告白を僕にさせたいんだろう。つまりはさっきの若い男みたいに。もしかしたら今回の旅の照準を祭に合わせた時点で計画は練られていたのかもしれない。何だか罠にはめられたような気がしていると、それを察したのか彼女が僕の顔を覗き込んだ。

「どうしたの?」

「や、言わせたいことは分かったけど、こういうのちょっと恥ずかしいよ」

 半分カマをかけたつもりだったが、企みを見破られたと知って彼女ははにかんだ。

「だーって、ちゃんとプロポーズされたいんだもーん。それにせっかくだったら祝福されたいしさあ」

 そう言って甘えるように腕を絡ませてきた。

「にしてもさあ」

「いいじゃん。みんなやってるんだから恥ずかしくないよー」

 僕は眉を顰めてみせたが、しかしすでに頭の中ではどうやったらスマートに彼女の鼻を明かせるかと、あれこれ凝った文言を練っていた。どうやらすっかり彼女の術中にはまってしまったらしい。僕らの前にはまだまだ人が並んでいて、考える時間はたっぷりありそうだ。


 櫓の上に現れたのは背広姿の痩せた中年男性だった。学校の先生だろうか。細い銀縁のメガネやシャツの上に着込んだベストからそう思えた。彼は今までの参加者とは少し違う緊張を帯びていて、生唾を飲みこむ音がマイクを通して大きく響いた。

「わ、わたし、は、んん!」

 咳で小さな声の出だしを払うと、彼は地蔵にぐいと顔を寄せ一気に捲し立てた。

「私はっ! 十二年前っ! 車で人を撥ねてっ! 殺しましたっ! のちに新聞でっ! 森田さんというお宅のお嬢さんだったとっ! 判りましたがっ! 私は生活を失うのが怖くてっ! 自首することがっ! できませんでしたっ! 雨の夜でっ! 視界がっ……くっ暗、く……。私はっ! 自分を守るばかりでっ! 罪を償うことがっ! できませんでしたっ! 本当にっ! 申し訳っありまっせんでしたー!」

 彼は裏返った声で絶叫し、そのまま泣き崩れた。会場は一瞬静まり返ったが、すぐにまたざわざわと騒がしくなり、そのうち「森田さんなら今いるぞぉー」「森田さーん」と声が上がった。どうやら件の森田さんを引っ張り出すつもりらしい。

 僕は茫然と経過を見守りながら、どこか違和感を拭いきれなかった。告白の内容に比べて反応が薄くないか? 彼は今、人を殺したと言ったんだぞ? まるで『驚くけどそれほどじゃない』といった感じじゃないか。

 やがて声に押されるように、森田さんらしき白髪の男性が櫓に上った。彼は泣き崩れる男性を一瞥した後、いぇるにぐらう地蔵に目をやり、そこに涙の筋を確認すると、咳払いをしてから芯の通った声で喋り始めた。

「この十二年間、娘を忘れたことは片時もありませんでした! あのとき娘は15歳で、第一志望の高校に受かったことをとても喜んでいました! 家族でお祝いの食事に行った帰り、お世話になった塾の方々や友達に挨拶すると言った娘と別れ……それが……今生の別れとなってしまいました……! 家内も私も……なぜ一緒についていってやらなかったと……自分を責め……」

 そこで森田さんは言葉を切り、目頭を押さえた。観衆の中からもすすり泣きが聞こえてきた。最初に告白した教師風の男性は、平身低頭、頭をこすりつけて微動だにしない。森田さんは言葉を続けた。

「犯人を恨みました! 娘と同じ目にあわせてやりたいと何度も考えました! しかし今、こうして目の前にしてみると、この人もまた苦しんできたのだということに気づきました! もちろん私たち家族の苦しみとは別物です! この先しかるべき償いをして貰いたいと思っています! けれども、だからといってこのまま恨み続け、責め続けてもどうにもなりません! 許すことがいぇるにぐらう祭です! 私は、この人を許します!」

 地蔵の目に二筋目の涙が流れると、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。森田さんは、泣きながら土下座を繰り返す男に手を差し伸べて、二人で櫓を降りていった。

 僕は信じられなかった。まるでテレビ番組のドッキリか、映画の撮影が突然行われたみたいだった。もしかして祭を盛り上げるためにこういった寸劇が挟み込まれるんだろうか。そんな考えが頭をよぎり、恐る恐る彼女を窺うと、涙を流して力いっぱい拍手をしていた。

「ねえ、これ本当?」

 僕の問いに、彼女はうんうんと力を込めて頷いた。

「たまにあるの、こういうこと。私たちは許すんだよ、どんなに酷いことでも、どんなに苦しいことでも。それが心からの告白なら、受け入れるんだよ。そうやって私たちは暮らしてきたの」

 そう言うとまた目尻を拭った。感動を言葉で飾り立てたら再び琴線に触れたようだ。まさかと思ったが本当にそういうことらしい。許すこと、受け入れることが何よりの美徳で、だとしたらこれが村の根幹にある大らかさの正体なのだろうか。

 少し、空気が重くなったように感じた。


 いまだ会場には先ほどの余韻が漂っていて、そのせいか中々次の人物が現れなかった。梯子の下では二、三人のオバさんが互いに順番を譲り合い、時間をかけることで気恥ずかしさを打ち消そうとしているようだった。

 しばらく経って、ようやく櫓の上に現れたのはなんと彼女の母親だった。人前に立つからだろう、いつもより派手目の格好をしていて、ミニのタイトスカートを下から覗かれないように手で押さえていた。どうやら、誰もやらないなら自分がと名乗り出たらしかった。

「あれ? お母さん、どうしたんだろ」

 ようやく涙が収まってきた彼女は、ハンカチで口元を押さえながら呟いた。母親は観衆に向かって「比べないでよ、下世話だから」と照れ笑いで前置きすると、地蔵に向き直り告白を始めた。

「えーと、うちの娘が彼氏を連れてきてるんですけどー! その子のことがちょっと気になっちゃってまーす!」

 あまりに明け透けだったので初めはどういう意味か分からなかった。ヒューとはやし立てる声に混じって野太いヤジが飛んだ。

「女としてかー!」

 核心を突いた問いかけに一瞬母親は怯んだが、すぐに体勢を立て直してまた勢いづいた。

「えーと、そう女としてー! で、実は彼が寝てる間にー! 娘には悪いと思ったんだけどー! ちょっと悪戯をしてしまいましたー! えーと、昨日もやりましたー! 二人が結婚する前に言っときまーす!」

 何を言っているのか分からなかった。世界がぐるんと反転し、頭が理解することを拒否した。彼女もハンカチを握ったまま凍りついていた。しかし観衆たちはお構いなしに不意に沸いた猥雑さに飛びついた。

「悪戯ってなんだー!」「具体的に言えー!」「すけべー!」

 ヤジが飛ぶたびにどっと笑いが起こった。さっきの感動の照れ隠しか、みな積極的に笑おうとしているみたいだ。シリアスな空気の後にはこうやってバランスを取るのだと言わんばかりに。

「えーと、キスとー、……言えるかー!」

ノリツッコミのように母親が笑った。ちょっとした下ネタのような扱いだ。ちょっとした下ネタだって? これが?

「まだ地蔵は泣いてないぞー」

 そうヤジが飛ぶと、母親は少しぎくりとなって地蔵の顔を確認した。確かにまだ変化はなかった。母親は姿勢を正し、やや真摯な面持ちで続けた。

「えー、キスと+αです! ただ最後まではしてないしー! 娘には本当に幸せになってほしいと思っているのでー! ここに謝りまーす!」

 ここで地蔵の目から涙がこぼれた。ということはやはり嘘をついているわけじゃないらしい。視線を感じて振り向くと、彼女が呆然とこちらを見つめていた。僕は激しくかぶりを振った。本当に覚えはない。だがしかし思い返せば、寝起きに下着が乱れていたことが何度かあったような。

 笑う母親の顔に醜く皺がよった。頭の中で急に『若作りしているだけの気味が悪いおばさん』という言葉が沸き上がった。

「娘さん呼べよー!」「そうだー、どう思ってるか聞かせろー!」

 矛先が彼女に向いた。僕は混乱しながらも反射的に彼女を庇おうと後ろに隠したが、それはいらぬ心配だったようだ。意思を取り戻した彼女は、大丈夫と無言で頷いた。


 櫓の上に立つ彼女はまるで晒し者みたいだった。好奇の視線を一身に受けながら、ただそれでも毅然と振る舞おうとしていた。ここで泣き叫んだり、怒りに任せて喚いたりすると余計恥ずかしいと分かっているようだ。彼女は母親を睨みつけたが、母親はぺろりと舌を出すだけだった。ごめんね! やっちゃった! どうもその程度の認識らしい。彼女は諦めたように溜め息をつくと、地蔵へと向き直った。

「……正直、気持ち悪いしー! 本当に信じられません! まだ全然整理できてないし、このままだとお母さんのことを嫌いになりそうな自分もいます! ただ、でも……」

 そこで言葉を区切ると、大きく息を吸って頭を振った。心の中の迷いを追い出そうとしているみたいだった。やがて覚悟を決め、顔を上げると彼女は再び言葉を続けた。

「さっきの、森田さんという方たちのやりとりを見てー、やっぱり許すことはとても素晴らしいと思いましたー! だから私もー! 正直どうかと思いますけどー! お母さんをー! 許すことにしまーす!」

 歓声が上がりかけたが、彼女はそれを手で制して更に続けた。

「ただー、だったら私も言うことがあってー! 高校生のときにー! お母さんの彼氏とー! 同じようなことをしましたー! それをずっと隠してましたー! ごめんなさーい!」

 どよめきが起こり、観衆の視線が自分たちの内側へと注がれた。彼女の母親が誰と付き合っていたのか、狭い共同体の中では周知の事実だ。リレーのように続く視線の先には、あの色黒の駅員がばつの悪い笑みを浮かべながら手団扇をしていた。

「だけどー! 今は付き合ってる彼が大好きなのでー! 本当に本当に大好きなのでー!」このあたりで彼女の声に涙が滲んだ。明らかに情緒がおかしかった。

「だからー! 今からここに来てもらって、愛を誓いたいと思いまーす!」

 そして地蔵もまた泣いた。会場は再びの大きな拍手と温かな祝福に包まれた。僕の胃はびくびくと痙攣していて、吐き気が止まらなかった。まるで悪い冗談だ。悪夢の中にいる気分だった。

 驚くべきことに、ここの連中は正直に話せば何にでもオチがつくと信じ込んでいる。物事が行き着く先は笑いか涙のどちらかで、どんなに気味が悪くても、許しがたくても、地蔵が泣けば受け入れられる。ということは、実は何だって等しくどうでもいいんだろう。感性は全てあれに預けているんだから。

 気が付くと僕は櫓の上にいて、目の前にはいぇるにぐらう地蔵があった。近くで見ると顔の部分は本当にただの浅い窪みで、これを何かに見立てること自体が酷くバカバカしいことのように思えた。彼女が隣に来て大勢に見せつけるように腕を絡めた。

 僕は言わねばならなかった。彼女との未来について宣言しなければ。確かにいろいろとショックではあったが、それが関係を終わらせる決定打であるとはまだ断言できない。積み上げてきた時間は僕にとってもそれなりに重いものだったし、何より傍らで彼女の笑顔がきらきらと輝いていた。

「ぼくはぁ! 彼女をぉ! 一生大切にするとぉ! 誓いまぁす!」

 しかし止まった頭で叫んだ言葉は、一番最初の若い男とほとんど同じで、もちろん地蔵は泣かなかった。

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