19.美少女

「博士って、何で、その人格で社交性あるんですか?」

「昔はそうでもなかったけど……まあ、昔の友人のおかげかな。どうして?」

「だって博士みたいな天才って社交性ないじゃないですか?」

「いや逆だろ。天才ってのは社交性がないと死ぬ」


                      (『博士についてのあれこれ』)


      □□□


 予兆はあった。


 エラー無しで、一発で玄関のドアが開いた。

 そうそうあることではなかった――何かの前触れと思うべきだったのだ。


 玄関にはアカハのサンダルがあったが、ハルカのスニーカーはなかった。

 何だ帰ったのかあいつ、と思いつつクロアは紐を解いてブーツを脱いだ。

 それから部屋に声を掛けた――靴を脱ぐ前に声を掛けるべきだったのだ。


「おい、アカハ」


 と呼びかけてから、そのまま居間へと直行した。


 がたんっ、と。

 何やら、アカハが慌てふためいているような音がした。

 特に気にせず居間に入った――気にすべきだったのだ。

 ほんの一瞬だけでも、足を止めていればよかったのだ。

 そうすれば、


「――待って!」


 アカハの静止の声と、クロアが居間に入るのが同時になることはなかった。


 その瞬間。


 クロアが思ったのは『新時代エイウエヲン』でこんなシーンあったよな、だった。

 主人公がヒロインの部屋に入ったときのシーンだ。

 「待って!」と言ったヒロインは着替え中だった。

 ヒロインの姿は下着姿だった。色はピンクだった。

 反射的にクロアは明後日の方を向いて目を閉じ、アカハの目も塞いだ。怒られた。


 あれと何だかちょっと似ているな、と思った。


 でもアカハは着替え中ではなかったし、下着姿でもなかった。

 慌てた声で「待って!」と言ったアカハは着替えた後だった。


 制服姿。


 臙脂色のブレザーとチェックのスカート――ハルカが持ってきたものだ。

 いつもは適当に伸ばし放題にしている黒髪を、後ろで丁寧に纏めていた。

 その紐を解こうとしているところでアカハはこちらを見て止まっていた。


 何だよ、とクロアは思った。

 実はこいつ着たかったんだな、とクロアは思った。

 ハルカの奴が知ったらドヤ顔するだろうな、とクロアは思った。


 正常な思考ができたのは、そこまでだった。


 クロアは見た。

 いつものジャージに比べると幾らか可愛らしいだけの制服姿を。

 いつもはばさばさと掛かっている前髪を取っ払っただけの顔を。

 アカハを見た。


 正常な思考が一瞬で焼き尽くされ絶叫した。


 ――美少女がそこにいた。


 目が離せなくなった。

 目の前の美少女だけしか見えなくなった。

 明後日の方を向くことも、目を閉じることも、目を塞ぐこともできなかった。

 ぞっとすることすらできなかった。

 ただ見ているだけで済まなかった。

 クロアの右手が美少女に向かって伸びた。何のために、とは考えたくもない。


 右手の甲にある×印が目に入った。


 焼け爛れた正常な思考が咆哮して、クロアの頭を引っ掴み、引きずり戻した。

 クロアは絶叫じみた叫びを上げた。

 クロアは左手で右手を抑えつけた。

 クロアは右足を一歩引いて離れた。

 クロアの脚がもつれてすっ転んだ。

 クロアはそれでも必死にもがいた。

 得体の知れない目の前の美少女から、恐怖のあまり必死に逃げ出そうとした。


 美少女の顔が、泣き出しそうに歪んだ。


 その瞬間、クロアの正常な思考が蘇った。得体の知れない美少女では、ない。

 ただのアカハだった。

 ただ天才なだけの、ただ美少女なだけの、いつもとは違って比較的可愛げのある格好をしているだけの、一応ではあるものの自分の教え子の――牡丹路アカハだった。

 ほんの一瞬前まで、その全てが消し飛んでいた。

 アカハが、髪を纏めていた紐を解いて、言った。


「嘘つき」


 それから駆け出した。

 クロアを押しのけ、サンダルを突っ掛け、玄関を開けて部屋の外に出て行った。

 こんなときに限って、やっぱりエラーは起こらなかった。


 クロアは動かない。

 クロアは動けない。


 こんなときに限って、シロネはいなかったし、声も掛けてはこなかった。

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