第4話 深淵に魅入られて
広告契約を解除されることで発生する違約金は巨額ではないが、かなりまとまったお金だ。それを払えとなれば、多少おかしくもなるだろう。
萌菜は言っていた。
月島先生はPTA会議に参加し、会長である萌菜のお母さんと遅くまで話し合っていたのだと。
ここで一つの推測が浮かび上がるが、もう少し考えを進めたい。
月島先生のシャツはしわくちゃだった。それはアイロンがけをしていないから。ホームルームに遅れてきたのも無関係ではないはず。
一時間目を上の空でやり過ごし、授業終わりに教壇に立っていた数学教師の
月島先生の奥さんは専業主婦で、二人の間に子どもはいない。
月島先生のシャツをいつもアイロンがけしていたのは、奥さんだったのかもしれない。では、なぜ今朝の月島先生はアイロンがけされたシャツを着ていなかったのだろう?
奥さんが家にいなかったから?
奥さんが家にいなかったことと、月島先生の広告契約が解除されたことの間に関係性は……。
「真尋ちゃん、ずっと熱心に何を書いてるの?」
隣の席の萌菜がノートを覗き見ようとしたので、私は勢いよくノートを閉じてしまった。
「どうしたの?」
「なんでもない。めっちゃメンヘラっぽいポエム書いてたんだ~」
「真尋ちゃんポエマーだったの? 意外だね」
「人間というのは意外なものなんだよ、もなちゃん」
本当のことを言えるはずがない。
月島先生が萌菜のお母さんと不倫関係にあった、なんて。
不倫関係が発覚して、広告契約を解除され、違約金を抱えることになった人のニュースはたまに流れて来る。
公序良俗に反する行動などに世間の目は厳しい。逆に言えば、広告の契約が人々の社会規範を支えているといってもいい。
あっという間に放課後だ。私は身体の内側から溢れてくる謎のエネルギーに突き動かされていた。
さつきと早々に分かれて、月島先生の家へ向かった。
高い塀に阻まれて一軒家の中が窺えなかったが、電柱に登って眺望を確保する。リビングの窓を通して、部屋の中が荒れているのが見えた。
用意していた双眼鏡で見てみると、テーブルの上に妻の部分だけ記入された離婚届が置かれていた。離婚の理由は月島先生の不倫に違いない。
私の推理は正しかったのだ。
明るかった空が急に真っ暗になる。あまりのことに電柱から落ちるところだった。
驚いている私の遥か上空から、一条の光が差し込んできた。まるでスポットライトみたいだ。その光が落ちるのは、私の登っている電柱のすぐそばの地面だ。
「というように、あなたの身にも、いつ不測の事態が起こるか分かりません」
スーツ姿の男がどこか一点を見つめて、そう告げていた。
──あれ、これってもしかして……。
男は言う。
「そんな不安を【ルガーノ広告保険】は解消してくれます。もしもの時の違約金補償も充実。これであなたも広告をさらなる味方に──ルガーノです」
私は電柱から滑り落ちてしまった。
──CMだったんじゃん~~……!! だから私、妙にエネルギーに満ちてたんだ……。
それに、私は明らかに生き急いでいた。
朝のゆったりとした通学時間がウソみたいに、ここまであっという間に駆け抜けてきた。CMだからだ。
──ああ、してやられた。私、【ルガーノ広告保険】のCMに操縦されてたんだ……。
広告を笑っていたつもりが、広告に足元をすくわれた。
原状復帰の原則──つまり、月島先生の不倫なんて、はじめからなかったのだ。全部、この広告保険の中だけで巻き起こっていた騒動だったのだ。
これが普通の人ならば、何事もなかったように日常生活に戻れるのだけど……私はそうはいかない。自分の体質を、私は今日初めて呪いたくなった。
今日ここまで過ごした時間は戻らないらしかった。
私は家に帰り、ルームウェアに着替えて、ベッドの上にダイブした。どっと疲れた。それと同時に、後悔の念が押し寄せてくる。
私はきっと自惚れていたのだ。
この
ベッドの上で身体を起こし、勉強机の上を見る。日記帳が私を待っている。
壁のハンガーにかけたブレザーの胸ポケットからペンを抜き取って、日記帳のページを開く。
新しいページにペン先を落とす。
滑らかな書き着心地。
綺麗なインクの発色。
最後まで長く書き続けられるグリップ。
私はピンク色のペンを使っているが、カラーバリエーションは六種類もある。
【アルス エアロライトアルファグリップペン】──これが私の言葉の友。
これはCM上の演出です! define 山野エル @shunt13
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